プロローグ
恋愛の中にサスペンスも織り交ぜています。読者の皆さんには楽しんで読んでもらえればと。
「おー、けっちゃん、久しぶり。元気やった?」受話器越しの香の声は明るい。いつも明るいけれど、今日はさらに。
「元気よ元気、香は元気だった? 仕事はどう」私も明るく返事する。もうイヤー辞めたい、と、いつも通り、香がぼやく。それをきいて、私は笑う。私は自分の大学の様子を話す。レポートが八つもあって、死にそうだと、弱音を吐く。
そんないつもの日常会話の後、私は、「で、どうしてまた急に電話を?」と、香に尋ねた。
「う〜ん、いや別にね……」
「ええ、どしたの」私はゆっくり向こうの反応を待った。
少し照れているような、戸惑っているような、そんな雰囲気を醸し出しつつ、香は最後にするりと言った。
「見多さんにプロポーズされた」
香の言葉は、瞬時に私の鼓膜から脳に伝わって、私はその言葉で、めまいと全身の脱力感を感じた。昔、大学受験で、絶対合格だと確信していた大学から、不合格通知が届いて、それを先生から知らされたときのような。言葉に詰まる以上に、息が詰まりそうになった。私はあわてて、大きく息を吸って、止めて、ゆっくり吐き出した。
「ちょっと待って」
すぐ側のアロマキャンドルに火を付けて、部屋をレモングラスの空気に切り替えた。ガラスの器越しに、火が透けて見えて、とろとろと私の緊張をほぐしてくれる。
「突然すごいこと言うね」私は笑いながら香に言った。内心は全然楽しくないけれど。
「だって、けっちゃんに早よ言わな、って必死やったんやで」香の言葉をきくほどに、私は混乱して、また頭が重たくなってきた。うう。
「結婚、するん?」ここは、もうきくしかない。
彼女は少し間を作って、私に言葉を届けた。
「向こうも、今すぐってわけじゃない、みたいなんよね。そうやねぇ、だから、これからは『結婚前提のお付き合い』を続けよう、ってことで」つまりOKしたのか!
「はぁなるほど。つまり見多氏は婚約者に格上げされたわけやね」まあしかし、すぐにとどめがさされなくて、私は真剣に救われたと思った。もう一度、気持ちを落ち着かせてから、香にきいた。
「よかった?」
「う〜ん、まあねぇ。なるべくしてなったというか」
「……」『なるべくしてなった』そうか、そう思えるのか。
うまい言葉かけが見つからなくて、私は、うんうん、と相づちを打つことしかできなかった。
「けっちゃんの方はどうなん」香が不意に私の方に話を切り替えた。
「いや、いたって仲良しよ。明日は矢和田、マンションに遊びに来てくれるし」
「矢和田さん、大学ではむっつりした感じやけど、いい人よね」
「あの無表情を壊すのが楽しいんよな」いつの間にか、こっちの彼氏の、のろけ話になってて、私はまた、ああ、やられた、と思った。香は話を換えるのがとても上手い。
話しながら、私はそれでも、ちくちくと痛む、頭の奥の何かを忘れなかった。ずっと近くにいた親友が結婚する。二十四年ちかく生きてきて、初めての経験だった。
*
その夜から、もう三日経つ。今日は日曜日。1月の京都は骨に沁みる寒さだけれど、私はこの、つーんとした寒さの中で、窓を開け、朝一番の外の空気を吸うのが大好き。矢和田が来るまでにまだまだ時間がある。コーヒーを淹れて、少しのんびりしてから、部屋をもう一度整えておこう。矢和田の好きな観葉植物にもちゃんと水をやらないと。
午後に矢和田が私の部屋のインターフォンを押して、そのまま合い鍵で玄関のドアを開けた。意味もなくインターフォンを押すのが、矢和田のお気に入り。私は台所でコーヒーを淹れながら、矢和田の持ってきてくれた、クッキー缶を開けた。
「わーい、おいしそう」
「俺、チーズの、三枚とって」隣の部屋で、矢和田がベッドに腰かけながら言っているのが分かる。矢和田は床にクッションより、ベッドの方が気に入っている。テレビもそこからが一番良く見えるし。ワンルームマンションは、家具配置の工夫が大事。
「ビスコッティ、コーヒーに浸しながらが、いいよね」
温めた牛乳を、ミルクホイッパーの、縦長な、ガラスの器に、ていねいに注ぐ。蓋をして、フィルターを上下させる。シャンシャンと牛乳が泡立つときの、音が好き。ミルクホイッパーは矢和田が去年プレゼントしてくれた。重宝してる。モカブレンドコーヒーが入った、二つのコーヒーカップに、泡だったミルクを均等に注ぐ。カフェラテ、できた。
クッキー皿とコーヒーをひとつ持って、部屋に行く。矢和田に渡して、自分のコーヒーをとりにもう一度台所に戻った。ついでにクッキー缶に残してある、ビスコッティをひとつ、つまんで。シナモン入りが私のお気に入り。
そうしたら、私はまた、おとといの電話の事を思い出してしまった。ああ、やっちゃった。ミルクホイップを作ったりしたからだ。単純作業は思い出さなくていいことを、フィードバックさせる。そしてまた、電話の話を矢和田に愚痴ってしまった。昨日、大学で報告したばかりなのに。
「結婚しても、時間を見つけて会ったりできるし。それじゃダメなのか。香ちゃんも、そう思ってるんじゃないか?」矢和田は、ポンポンと私の頭にふれる。あやされてるなぁ。それじゃあ、と子供のように反論した。
「ダメとゆうか、何で見多氏なんやって。ほんまに〜」
「見多さん、そんなにダメ男なんか」矢和田のかんだアーモンドクッキーが、ぱりんと気持ちよく音をたてた。
「小さいけど、銀行の店長だし、金銭感覚はしっかりしてるでしょうけど。二枚目やし、まあいい人じゃないの?」
「見多さんがダメなんじゃなくって、香ちゃんの彼氏はみんなダメなんだろ、ダメというか『イヤ』か?」あたり。矢和田、よく分かってる。
「結婚したら―『見多 香』になるのか……」言って、堂々巡りになってきてるのに気づいた。この辺でもう止めておこう。矢和田は優しいから、きっといつまでも私の話をきいてくれるけど、せっかく会っているのに、これは辛気くさい。矢和田と居るときは、矢和田と楽しく過ごしたい。
「お茶、淹れ直そうか」カップを持って私は台所に行った。水道の水を出す。矢和田が部屋からきいてきた。
「香ちゃん、婚約か。いつプロポーズされたんだっけ」
「今週の月曜日だって、確か。仕事帰りに、そんな流れになって、すんなりと言われたらしいよ」矢和田がふいに私に尋ねた。
「俺たちも、流れにのっとく?」それは、とてもすんなりと。
私は蛇口を閉めて、水の音を消した。水の音で矢和田の声が小さくなってしまう。台所と部屋の境目に立って、私は矢和田の方を見た。最後の一押しをもらいたくて、私はもう一度、小さく尋ねた。
「も一回。何て?」
「俺と結婚しない?」
「する」
ハレルヤ
今夜は私が香に電話しないと、そう思った。香は多分、まず叫ぶだろうな。それで私は、言いながら、嬉しさと、どこか泣きたさを入り交じらせながら、明け方まで香と話し込むに違いない。