屋敷の奥
明治初期、文明開化と騒がれている頃。
進んだとされる文明国である欧米より、数々の文化が、我が国へともたらされた。
だが、一方では古来の伝承も生きていた時代。
いまだに、江戸の頃より住んでいた魑魅魍魎が蠢いており、彼らも共に明治の世に生きていた。
「もし、奥様」
まだガス灯なぞいう代物は、街のごくごく一部にのみある。
よって、路地を闇夜に歩く際には、お供を連れるか、行燈を下げつつ歩くか、またはその両方とも行うかという時代である。
路地を歩いている女性に、その男は静かに歩みより、脇より声をかけた。
「そなたは」
和服の裾を触らせぬようにしつつも、供の者をその男の前に立たせ、念のために、歩き続けていた。
「あっしは、単なる呪い師でさぁ」
「まじない師なぞには興味がありません。はよう帰ってくださいまし」
供と共に、足早にその場を去ろうとする女に、呪い師はなおも食いつく。
「いやはや、そのご様子では、奥様のお父君のご容態もよろしくないのではありやせんか」
女性は顔色一つ変えずに、とくに驚いた様子もなく立ち止まった。
「なぜ、まじない師なぞが、父のことを知っておるのじゃ」
「呪いでさあ。しかして、そのお父君のご容態、よくなる術があるとあっしが申したならば、奥様は信じていただけるでありやしょうか」
「今、父はどこで眠っておるか、判るか」
「屋敷の奥、天照大御神様をお祭り申し上げておられまする、その祭壇の元でありやしょうか」
ここにきて、初めて女性は呪い師の顔をはっきりと見た。
「お主、名を何というのか」
「名なら、奥様のお好きなように」
女性は、さてと言って、しばらく考えた。
「宵じゃな」
「ならば、あっしはこれより宵と名乗りましょう。しかして、奥様。あっしに見てくれんというて下さりませんか」
だが女性は何も答えずに、歩き始める。
宵は、よいよいとついてきて、そして、女性の家の中まで入った。
「なぜ、宵が入ってくるのじゃ」
「闇の宵は、善いとも読めましょうぞ。奥様によって、あっしは善きモノとなれやした」
玄関先で女性は振りかえり、供は刀の切っ先をあてる。
「無礼な振る舞いはよすことじゃ。さむなくば、お主の首は、綺麗に地面へと踊り出でることになるじゃろう」
「へえ、奥様の言うとおりに」
太鼓持ちにしては、おかしいと女性は感じながらも、供の刀をあげさせ、部屋へと上げた。
「ほうほう、かような所でございますか」
家の中をキョロリ、キョロリと見回す宵を特に注意することなく、女性は家の中へ中へと連れてきた。
「ここじゃ」
障子で閉め切られている部屋の前で、女性は立ち止る。
宵は何のためらいもなく、障子を明け放つ。
「何奴!」
開け離れた先には、女性の父親が布団の中で立て膝を付き、刀を鞘からまさに出そうとしていた。
「お父様、この者は宵と申します。まじない師でございまする」
「まじない師だと。儂はまだ大丈夫である。まじないに頼ることなぞ、ありはせぬ」
「あっしは単なるまじない師とはちょっと違います」
ふわと宙に飛んだかと思えば、父親の枕のそばへと音なく静かにたどり着いた。
「さて、始めましょうか」
そう言うと、座り込んでいる父親の額へ、手のひらを当てる。
「天神地祇に誓いて候。出でよ妖怪」
刀は手から取り落ち、天井を仰ぎ、白目となり、ガタガタと全身が揺すれ始めた。
「お父様!」
「近づくに非ず!」
開いている手で宵は、女性が来るのを止めさせる。
「憑かれまするぞ!」
ちょうど紫色の瘴気が、父親の体から噴き出始めたところだった。
そして、その瘴気は全て宵の中へと入っていく。
女性はその場で腰を抜かしへたり込むが、父親は気を失って背中から倒れる。
布団の上へと沈めると、宵の体はいよいよ紫の瘴気に包まれた。
「カッ!」
気合一閃、瘴気は瞬時に飛び散った。
「これで大丈夫でございましょう。数日のうちには治るでしょう」
「宵よ、そなたは……」
「魑魅魍魎は、未だにおりまする。そのうちの一人、とでも申しておきましょう。名は心をも縛るものでございます。宵と名付けて下さいました奥様でしたから、あっしは奥様のお父上を助けただけでごぜえます」
「では、そなたの名を別の名にしておれば……」
「あっしは敵とも味方ともなりますゆえ、奥様があっしを選んでくださっただけでも、満足でごぜえます」
「しかしながら、何か礼をせねばなるまい。父親を助けてくれたのであるから」
「いえいえ、あっしはこれにて失礼をば。何事も、宵のうちには気をつけて」
宵はその場からくるりと宙返りをすると、白い煙となって消えた。
以後、明治の文明開化の波にもまれ、魑魅魍魎の数は減っていく。
だが、彼らは間違いなくそこに存在している。
声をかけられても、それが人かどうかは分からない。
もしかしたら、宵のような存在かも……