「お母様さえ我慢すればいいのに」と言われたので、黙って家を出ました
「新しい馬車を注文した」
夫のリチャードがそう告げたのは、私が今月の支払いを計算しているときだった。
「……馬車、ですか?」
「ああ。最新式の四輪馬車だ。王都で評判になっているらしい」
「ですが、今の馬車はまだ使えますでしょう?」
「もう五年も乗っているんだぞ」
夫は呆れたように私を見た。
「子爵家の体面というものを考えろ」
五年。
私は、机の下にある自分の靴を見た。
八年前に買った靴だった。踵は三度直した。革はすっかり柔らかくなり、雨の日には少し水が染みる。今年こそ買い替えようと思っていた。
「お父様、新しい馬車ですの!?」
十八歳になる長女のクラリスが部屋へ飛び込んできた。一つ下の次女リディアも後に続く。
「素敵! では、次の夜会には新しいドレスを着ていきたいわ!」
「わたくしも!」
「もちろんだ。好きなものを選びなさい」
私は帳簿を開いたまま、静かに言った。
「旦那様。せめて馬車の支払いを、秋まで延ばしていただけませんか。冬の薪代がまだ――」
「また金の話か」
リチャードが顔をしかめる。クラリスが、困ったように笑った。
「もう、お母様ったら。お母様さえ我慢すればいいのに」
悪意のない声だった。
だからこそ、言い返す言葉が見つからなかった。
怒ることすら、しんどかった。
私は帳簿を閉じた。
今月も、靴は買えそうになかった。
◇
翌週、私は実家の商会を訪ねた。
母は、私の顔を見て、それから足元を見た。
「その靴、まだ履いていたの」
「まだ履けるもの」
「エレノア」
母は人払いをして、向かいに座った。
「顔色がひどいわ。何があったの」
話すつもりはなかった。けれど、口を開いたら止まらなかった。
馬車のこと。ドレスのこと。実家からの配当まで家計に回していること。それでも「金勘定ばかりの女」と呼ばれること。
「……もう、怒る気力もないの」
母は黙って聞いていた。そして、私の手を取った。
「妻だから、母だからって、何もかも我慢する必要はないの」
皺の増えた手が、昔と同じ強さで握ってくる。
「あなたにだって、幸せになる権利があるのよ」
その言葉を聞いた瞬間、視界がにじんだ。
嫁いでから十九年。私は一度も泣かなかった。泣いている暇などなかったから。
家を出たいと思ったことは、何度もあった。けれど、そのたびに娘たちの顔が浮かび、踏みとどまってきた。
でも、その娘の口から「お母様さえ我慢すればいいのに」と聞かされて、ようやく分かった。
もう、あの家に踏みとどまる理由はなかったのだ。
泣き止んだ私に、母は商人の顔で言った。
「あなたが嫁ぐ前から持っている商会の持ち分。あれは婚姻前の個人資産だから、離縁しても子爵家は手を出せないわ」
「でも、配当はほとんど家計に……」
「なら、これから貯めればいいの。それから、帳簿のできる人間が一人足りなくて困っているのよ。うちで働きなさい。ただし、身内でも給金分はきっちり働いてもらうわ」
母は少しだけ口元を緩めた。
「最初は王都の織物工房との取引を任せたいの。先方の代表は、なかなか話のわかる方よ」
私は、少しだけ笑った。母は昔から、甘やかすときほど厳しい。
その日、私は屋敷に戻らなかった。
夫には手紙を一通だけ送った。
『離縁を申請いたしました。帳簿は書斎の二段目にあります』
◇
エレノアが出ていって二週間。
子爵家の書斎で、リチャードは請求書の束を前に唸っていた。
「なぜ、ドレスがこんなに高い」
「これまでは奥様が、ご実家の商会を通して布を仕入れておられました」
家令が静かに答える。
「お嬢様方の昨年のドレスも、屋根の修繕も、奥様の配当から補っておいででした」
「……聞いていないぞ」
「奥様は何度もご説明なさっておりました。ですが、旦那様は『金の話は任せる』と」
リチャードは口を開きかけて、閉じた。
覚えがあった。そのたびに、面倒そうに手を振ったことも。
「帳簿はお預かりしております。ですが、どの支出を削るかは、当主である旦那様にしかお決めになれません」
リチャードは帳簿をめくった。几帳面な文字が、十九年分並んでいた。
妻自身のための支出は、驚くほど少なかった。
居間では、娘たちが仕立て屋の断りの手紙を読んでいた。
「ツケでは、もう受けられないって……」
リディアが呟く。
クラリスは何も言わず、母がいつも座っていた椅子を見ていた。
◇
離縁成立の通知が届いた翌日、三人が商会を訪ねてきた。
「エレノア。私が悪かった」
リチャードが頭を下げた。この人が頭を下げるのを、初めて見た。
「馬車は解約した。帳簿も、これからは私が見る。だから、もう一度やり直してくれないか」
「お母様、ごめんなさい。もう、あんなこと言わないから戻ってきて!」
クラリスの目が赤い。
「お母様、もう会えないの?」
リディアの表情にも不安が浮かぶ。
私は、三人を順番に見た。
不思議と、怒りは湧いてこなかった。
「……あなたたちが不幸になることを、望んでいるわけではないの」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ただ、もう、あの家には戻りたくないの」
リチャードは何か言いかけて、口を閉じた。
私は娘たちに向き直る。
「クラリス、リディア。お茶くらいなら、いつでも付き合うわ。母親を辞めるわけではないもの」
「……本当に?」
「ええ。ただし、今度はあなたたちがお店を選んでね」
リディアが泣きながら頷いた。クラリスは唇を噛んだまま、小さく頭を下げただけだった。
それでいい、と思った。
すぐに元通りになるような十九年ではなかったのだから。
三人を見送ったあと、私は長いあいだ窓辺に立っていた。
◇
それから数か月が過ぎた。
商会での仕事は、思っていたより私に合っていた。
帳簿を読み、仕入れ値を交渉し、無駄を見つける。
子爵家で十九年やってきたことが、ここでは「腕がいい」と褒められ、月末にはきちんと給金になった。
初めての給金で、私は靴を買った。
若草色の柔らかな革。店主に勧められるまま何足も履き比べ、値札を見ずに決めた。
次の給金では、秋物のドレスを一着。誰のためでもない、自分が着たい色のものを。
今日の仕事を終え、帳簿を閉じる。
明日は休み。財布には、まだお金がある。
それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
「エレノア殿」
顔を上げると、アルフォンスが立っていた。
母が「話のわかる方」と言っていた、王都の織物工房の代表だ。
初めての商談で私の見積書を見て、「長年、数字と向き合ってこられたのですね」と言ってくれた人。
「仕事の話ではないのですが、このあと、お時間はありますか?」
彼は少しだけ緊張した顔をしていた。
私は新しい靴のつま先を見て、それから微笑んだ。
「ええ、喜んで」




