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「母だって主人公」シリーズ

「お母様さえ我慢すればいいのに」と言われたので、黙って家を出ました

掲載日:2026/10/15

「新しい馬車を注文した」


 夫のリチャードがそう告げたのは、私が今月の支払いを計算しているときだった。


「……馬車、ですか?」


「ああ。最新式の四輪馬車だ。王都で評判になっているらしい」


「ですが、今の馬車はまだ使えますでしょう?」


「もう五年も乗っているんだぞ」


 夫は呆れたように私を見た。


「子爵家の体面というものを考えろ」


 五年。


 私は、机の下にある自分の靴を見た。


 八年前に買った靴だった。踵は三度直した。革はすっかり柔らかくなり、雨の日には少し水が染みる。今年こそ買い替えようと思っていた。


「お父様、新しい馬車ですの!?」


 十八歳になる長女のクラリスが部屋へ飛び込んできた。一つ下の次女リディアも後に続く。


「素敵! では、次の夜会には新しいドレスを着ていきたいわ!」


「わたくしも!」


「もちろんだ。好きなものを選びなさい」


 私は帳簿を開いたまま、静かに言った。


「旦那様。せめて馬車の支払いを、秋まで延ばしていただけませんか。冬の薪代がまだ――」


「また金の話か」


 リチャードが顔をしかめる。クラリスが、困ったように笑った。


「もう、お母様ったら。お母様さえ我慢すればいいのに」


 悪意のない声だった。


 だからこそ、言い返す言葉が見つからなかった。


 怒ることすら、しんどかった。


 私は帳簿を閉じた。


 今月も、靴は買えそうになかった。


 ◇


 翌週、私は実家の商会を訪ねた。


 母は、私の顔を見て、それから足元を見た。


「その靴、まだ履いていたの」


「まだ履けるもの」


「エレノア」


 母は人払いをして、向かいに座った。


「顔色がひどいわ。何があったの」


 話すつもりはなかった。けれど、口を開いたら止まらなかった。


 馬車のこと。ドレスのこと。実家からの配当まで家計に回していること。それでも「金勘定ばかりの女」と呼ばれること。


「……もう、怒る気力もないの」


 母は黙って聞いていた。そして、私の手を取った。


「妻だから、母だからって、何もかも我慢する必要はないの」


 皺の増えた手が、昔と同じ強さで握ってくる。


「あなたにだって、幸せになる権利があるのよ」


 その言葉を聞いた瞬間、視界がにじんだ。


 嫁いでから十九年。私は一度も泣かなかった。泣いている暇などなかったから。


 家を出たいと思ったことは、何度もあった。けれど、そのたびに娘たちの顔が浮かび、踏みとどまってきた。


 でも、その娘の口から「お母様さえ我慢すればいいのに」と聞かされて、ようやく分かった。


 もう、あの家に踏みとどまる理由はなかったのだ。


 泣き止んだ私に、母は商人の顔で言った。


「あなたが嫁ぐ前から持っている商会の持ち分。あれは婚姻前の個人資産だから、離縁しても子爵家は手を出せないわ」


「でも、配当はほとんど家計に……」


「なら、これから貯めればいいの。それから、帳簿のできる人間が一人足りなくて困っているのよ。うちで働きなさい。ただし、身内でも給金分はきっちり働いてもらうわ」


 母は少しだけ口元を緩めた。


「最初は王都の織物工房との取引を任せたいの。先方の代表は、なかなか話のわかる方よ」


 私は、少しだけ笑った。母は昔から、甘やかすときほど厳しい。


 その日、私は屋敷に戻らなかった。


 夫には手紙を一通だけ送った。


『離縁を申請いたしました。帳簿は書斎の二段目にあります』


 ◇


 エレノアが出ていって二週間。


 子爵家の書斎で、リチャードは請求書の束を前に唸っていた。


「なぜ、ドレスがこんなに高い」


「これまでは奥様が、ご実家の商会を通して布を仕入れておられました」


 家令が静かに答える。


「お嬢様方の昨年のドレスも、屋根の修繕も、奥様の配当から補っておいででした」


「……聞いていないぞ」


「奥様は何度もご説明なさっておりました。ですが、旦那様は『金の話は任せる』と」


 リチャードは口を開きかけて、閉じた。


 覚えがあった。そのたびに、面倒そうに手を振ったことも。


「帳簿はお預かりしております。ですが、どの支出を削るかは、当主である旦那様にしかお決めになれません」


 リチャードは帳簿をめくった。几帳面な文字が、十九年分並んでいた。


 妻自身のための支出は、驚くほど少なかった。


 居間では、娘たちが仕立て屋の断りの手紙を読んでいた。


「ツケでは、もう受けられないって……」


 リディアが呟く。


 クラリスは何も言わず、母がいつも座っていた椅子を見ていた。


 ◇


 離縁成立の通知が届いた翌日、三人が商会を訪ねてきた。


「エレノア。私が悪かった」


 リチャードが頭を下げた。この人が頭を下げるのを、初めて見た。


「馬車は解約した。帳簿も、これからは私が見る。だから、もう一度やり直してくれないか」


「お母様、ごめんなさい。もう、あんなこと言わないから戻ってきて!」


 クラリスの目が赤い。


「お母様、もう会えないの?」


 リディアの表情にも不安が浮かぶ。


 私は、三人を順番に見た。


 不思議と、怒りは湧いてこなかった。


「……あなたたちが不幸になることを、望んでいるわけではないの」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「ただ、もう、あの家には戻りたくないの」


 リチャードは何か言いかけて、口を閉じた。


 私は娘たちに向き直る。


「クラリス、リディア。お茶くらいなら、いつでも付き合うわ。母親を辞めるわけではないもの」


「……本当に?」


「ええ。ただし、今度はあなたたちがお店を選んでね」


 リディアが泣きながら頷いた。クラリスは唇を噛んだまま、小さく頭を下げただけだった。


 それでいい、と思った。


 すぐに元通りになるような十九年ではなかったのだから。


 三人を見送ったあと、私は長いあいだ窓辺に立っていた。


 ◇


 それから数か月が過ぎた。


 商会での仕事は、思っていたより私に合っていた。


 帳簿を読み、仕入れ値を交渉し、無駄を見つける。


 子爵家で十九年やってきたことが、ここでは「腕がいい」と褒められ、月末にはきちんと給金になった。


 初めての給金で、私は靴を買った。


 若草色の柔らかな革。店主に勧められるまま何足も履き比べ、値札を見ずに決めた。


 次の給金では、秋物のドレスを一着。誰のためでもない、自分が着たい色のものを。


 今日の仕事を終え、帳簿を閉じる。


 明日は休み。財布には、まだお金がある。


 それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。


「エレノア殿」


 顔を上げると、アルフォンスが立っていた。


 母が「話のわかる方」と言っていた、王都の織物工房の代表だ。


 初めての商談で私の見積書を見て、「長年、数字と向き合ってこられたのですね」と言ってくれた人。


「仕事の話ではないのですが、このあと、お時間はありますか?」


 彼は少しだけ緊張した顔をしていた。


 私は新しい靴のつま先を見て、それから微笑んだ。


「ええ、喜んで」

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― 新着の感想 ―
AI直接使用ってどのぐらい関わってるか分からないですが設定がフワフワしてて…そもそも妻の実家の様子からして元平民にしか思えないんだが…。商会に直接帰ってる時点で男爵位も持ってなさそうな雰囲気出てるし……
恋愛ジャンルではないような…。
若草色の柔らかな靴 秋物のドレス 春物と秋物の組み合わせってww
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