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マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


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第8話「処理できないエラー」

骨董品店から無機質な自室へと戻った織部は、持ち帰った数十冊の手帳を机の上に静かに積み上げた。

一万日分の記録という物理的な質量は、彼の計算能力をもってしても即座に処理できるものではなかった。

窓の外では夕暮れが街を赤く染め始めていたが、彼は部屋の明かりをつけることすら忘れて立ち尽くしていた。

彼の内部システムは先ほどから、これまで経験したことのない深刻な警告を発し続けている。

梶川との対話を経て確定した残酷な事実が、巨大な異物となって思考回路の中枢に居座り続けていた。

父はすでに十五年前に冷たい海の底で命を落としており、この世界には存在していない。

それにもかかわらず記録は昨日まで続き、自分という存在に向けられた祈りとして手渡されたのだ。

織部はこの非論理的な事象を客観的なデータとして分類し、適切なフォルダに格納しようと試みた。

過去の彼であれば不要なノイズとして即座に削除し、次の任務へと円滑に移行することができたはずだ。

だが脳内のアルゴリズムは重い負荷によって完全に停止し、システム全体がかつてない軋みを上げている。

感情という非合理的なバグではないと、彼はあくまでエージェントとしての機能に固執して自己定義する。

これは未知の不具合などではなく、ただ彼が未だ経験したことのない「処理できないエラー」なのだと。


パブリッシャーという組織に引き取られて以来、織部は無数のエラーに直面しそれを修正してきた。

欠陥のある仕様書や間違った設定など、すべては正しい数値を入力することで解決可能なものだった。

原因を特定して結果を導き出すという明確な因果律こそが、彼が拠り所にしてきた絶対的な法則である。

しかし目の前に積まれた手帳が突きつけているのは、その因果律が全く通用しない圧倒的な矛盾だった。

届くかどうかも分からない不確かな未来へ向けて、三十年間もただ一方向に祈り続けるという非効率な選択。

入力に対する明確な出力は存在せず、そこにあるのは論理ではなく、得体の知れない鈍い熱だけだ。

返事を書く宛先すらすでに完全に喪失しているのに、なぜその熱はこれほどまでに生々しく掌を焼くのか。

その問いに対する答えはいくら膨大な計算を繰り返しても、導き出されることは決してなかった。

宛先のない手紙を受け取るという特異な現象に対応するプログラムを、彼は最初から持ち合わせていないのだ。

パブリッシャーの冷酷なマニュアルには、親の無償の愛を処理する項目など一行も記されてはいない。

だからこそ彼の内部で発生したこの強烈なエラーは、行き場を失ったまま暴走を続けるしかなかった。


織部は机の前の硬い椅子に深く腰を下ろし、一番上に置かれた最も古い手帳の表紙にそっと指で触れた。

三十年前に父が組織の冷酷なシステムから自分を逃がし、梶川にこの途方もない記録を託した日のことが蘇る。

自分という存在を繋ぎ止めるためだけに、一人の男がどれほどの絶望と孤独を抱え込んでいたのか。

それを想像することは機能としての人間であることを、根本から否定するひどく恐ろしい作業でもあった。

処理できないエラーは彼のシステムを激しく軋ませ、神経回路の隅々にまで強烈な負荷をかけ続けていく。

しかし奇妙なことに織部はその不快なはずの重い負荷を、強制的に排除しようとは全く考えていなかった。

答えの出ない問いを永遠に抱え続けるという非論理的な状態が、今の彼にはなぜかひどく自然に感じられたのだ。

それは未知のエラーを憎む冷徹なエージェントの姿ではなく、一人の人間として喪失と向き合う初めての瞬間だった。

解決不能な問題を無理に修正しようと焦るのではなく、ただその圧倒的な重みをあるがままに引き受けること。

それは彼が長年恐れてきた非合理性の極みでありながら、同時に得体の知れない深い安堵をもたらしていた。

エラーを抱えたままでいる未完成な自分を許容するという行為が、静かな波紋のように彼の内部に広がっていく。


完全に夜の闇に包まれた冷たい部屋の中で、織部は手元に小さな明かりだけを点灯させて静かに息を吐いた。

そして古びた手帳の表紙をゆっくりと開き、三十年前のインクで記された最初のページへと静かに視線を落とす。

『今日も晴れ。あの子は元気だろうか』

ただそれだけの短い文字列の中に、どれほどの切実な祈りが込められているかを今の彼はもう知っている。

暗号を解読するためでもターゲットを追跡するためでもなく、織部は初めて自分自身のために文字を読んだ。

それはエージェントとしての過酷な任務から完全に逸脱した、極めて個人的で無防備な行為に他ならなかった。

一行をゆっくりと読み進めるごとに父の不器用な視線が、時空を超えて彼自身の内部へと深く浸透していく。

自転車で転んだ日のことや海で遊んだ日の記憶が、古いインクの染みと連動して鮮やかに脳裏に蘇ってくる。

自分が決して孤独なだけの存在ではなかったという事実が、乾ききっていた彼の心を少しずつ確実に潤していった。


やがて読み進めるうちに、彼がパブリッシャーに引き取られてからの空白の十年間に突入した。

客観的な事実が完全に途絶えたその期間の手帳には、ひたすらに息子を案じる悲痛な問いかけだけが並んでいる。

返事のない虚空に向かって投げかけられたその言葉は、もはや情報の通信ではなくただの純粋な信仰のようだった。

生きていることだけを信じて書き続けられた一万日分の記録を、織部は一文字たりとも見落とさずに目で追った。

父が直接自らの手で書いたものではないかもしれないが、そこには間違いなく父の執念と確かな体温が宿っている。

届くはずのない手紙をひたすらに書き続けるという行為の無意味さが、これほどまでに尊いものだとは知らなかった。

織部の指先は古い紙の感触を確かめるように動き、その度にかすかな摩擦音が静まり返った部屋に小さく響いた。

エラーとして処理できなかったその熱の本当の正体を、彼はもはや不完全な論理で名付けようとはしなかった。

名付ける必要など最初から全くなかったのだと、静かに降伏するように彼は暗闇の中で自分自身に言い聞かせた。


何時間もの途方もない時間が経過し、窓の外では再び新しい朝の光が薄っすらと街の輪郭を浮き彫りにし始めていた。

数十冊に及ぶ一万日分の記録をすべて読み終えた時、織部の内部で荒れ狂っていたノイズは嘘のように静まり返っていた。

処理できないエラーは依然としてそこに存在している。だがそれはもはや、彼を苦しめる鋭い警告音ではなかった。

父からの手紙に返事を書くための宛先は、永遠に存在しない。

問いに対する答えも、決して導き出されることはない。

だが織部は、その未解決の重みを排除しようとはしなかった。

抱え続けることを、彼は静かに選んだ。

答えの出ない問いと共にあり続けること——それが何を意味するのかを、彼はまだ言葉で名付けることができなかった。

ただ、窓の外で薄く明けていく朝の光を、彼は手帳を抱えたまま静かに見つめていた。


【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

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マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

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マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

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マニュアルキラー 第4部

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マニュアルキラー 第5部

~戦争を止める仕様書~

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