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マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


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第13話「校正」

パブリッシャーの地下深くにある査問室を出て、地上へと戻った織部は、冷たい夜気を肺の奥深くまで吸い込んだ。

背後にそびえ立つ巨大なオフィスビルは、依然として世界を管理し、均衡を保つための強固なシステムとして沈黙している。

だが彼にとって、それはもはや絶対的な神の座から引き摺り下ろされた、修正すべき欠陥を持ったプログラムの塊に過ぎなかった。

腕時計の針は午後八時を示している。

クロノスの実行部隊が、内部告発を企てた下請け企業の経理担当者とその家族を「整理」すべく動き出す時刻が迫っていた。

織部は路地裏に停めていた車に乗り込み、暗号化されたモバイル端末を起動する。

これより彼が実行するのは、パブリッシャーの待機命令に対する明確な違反であり、組織の仕様からの完全な逸脱である。

しかし彼の内部システムに、迷いや恐れといったノイズは一切発生していなかった。

ローカル領域で構築を終えていた精緻な設計図を、ついに現実の世界へと適用する実践のフェーズが始まったのだ。


端末の画面には、告発者の家族が住むマンション周辺の監視カメラ映像と、クロノスの通信トラフィックがリアルタイムで表示されている。

織部はキーボードに指を走らせ、あらかじめ仕込んでいた遅延プログラムを一斉にアクティブにした。

対象のマンションへと向かうクロノスの実行部隊のナビゲーションシステムに、微小な誤差を注入する。

彼らの通信網にダミーのパケットを流し込み、標的がすでに別の場所へ移動したかのような偽の痕跡を作り出す。

同時に、マンションの防犯カメラの映像を過去のループ映像とすり替え、数分間の完全な死角を情報空間上に生み出した。

——現実の因果律を、人為的に書き換える技術だ。


織部の端末が、告発者のスマートフォンに事前に送り込んでいた暗号化メッセージの開封を検知した。

それは告発者が密かに連絡を取っていた信頼できる弁護士の番号から発信されたように偽装された、保護プログラムからの指示だった。

『三分後に裏口へ向かえ。指定された車両に乗れ。決して振り返るな』

追いつめられ、巨大な暴力の気配に怯えていた男にとって、それは唯一の生存確率を示す光の糸だったはずだ。

画面上の熱源センサーが、マンションの裏口からこっそりと抜け出す三つの影を捉える。

男と、妻と、五歳になる幼い娘。三十年前に失われたあの家族と寸分違わぬ構図が、そこに存在している。

織部が用意した無人の自動運転車が彼らを拾い上げ、システムの死角を縫うようにして深夜の街へと滑り出していった。

その数分後、クロノスの実行部隊がマンションに突入するが、そこはすでにもぬけの殻となっている。

「対象がいない!」「センサーの誤作動だ、別ルートを追え!」と錯綜する無線の怒声すら、織部は無表情のままモニタリングし続けた。


車内で怯える家族が向かう先は、安全な公的保護の枠組みだ。

織部が抽出した過去の消失処理されたクリーンな戸籍データはすでに彼らのものとして上書きされている。

そして警察内部の信頼できる窓口へと、内部告発の決定的な証拠データが自動的に転送されるようルートが構築されていた。

クロノスがどれほど巨大な暴力を持っていようと、システムから完全に隔離され、新たな属性を与えられた存在を追跡することは不可能なのだ。


織部は端末の処理状況を確認しながら、自らが今行っている行為の構造を冷静に分析していた。

マニュアルを書き換え、システムの隙間を突き、対象を不可視の領域へと移動させる。

技術的な側面だけを見れば、これまでパブリッシャーの命令で行ってきた数々の「校正」と何一つ変わらない。

だが、ただ一点だけ違う。

今回の校正には、明確な「誰かのために」という動機がある。

これまでの彼がバグを修正し、ノイズを排除してきたのは、システム全体の整合性を保つためだった。

世界の均衡という冷酷な計算式を成立させるためだけに、自らの能力を行使してきた。

しかし現在の彼は、ただ一つの家族を例外として逃がすためだけに、その冷徹な技術のすべてを注ぎ込んでいる。

クロノスの前身組織が許容コストとして切り捨てた、三十年前のあの家族のために。

父が守らず、システムの側で切り捨ててしまったものを、息子の自分が今日、確実に守り抜くために。


暗号化通信のモニタから目を離し、織部は夜の街を流れる光の帯を見つめた。

その時、昨夜読んだ手帳の間に挟まれていた、一枚の古い新聞記事が彼の思考回路に浮かび上がってきた。

三十年前の事件報道。その余白に、梶川の筆跡でただ一行だけ書き込まれていた言葉だ。

『これでようやく、あの子は自由になれる』

父が組織を裏切り、自らの命と引き換えに息子を外の世界へ逃がした時、梶川が書き残した言葉。

巨大なシステムの中で、個人を消費する冷酷な論理から、ただ一人の息子を例外として切り離した瞬間。

今日、織部が告発者の家族に対して行ったのも、まさにそれと同じことだった。

システムそのものを真正面から破壊するのではなく、計算式の中に致命的な隙間を作り出し、大切なものを枠組みの外へと逃がす。

——それが、父から息子へと三十年かけて継承された、設計の実践だった。


端末の画面に、告発者の家族が安全な保護下へと到達したことを示す、最終の緑色のランプが点灯した。

クロノスの追跡プログラムは完全に無効化され、彼らの生存確率は限りなく百パーセントに近い状態に固定された。

織部は「タスク完了」のコマンドを入力し、ローカルの暗号領域に展開していた設計図のデータを完全に消去した。

彼がシステムに忍び込ませたノイズは、誰にも気づかれることなく静かに消滅し、世界はまた何事もなかったかのように動き始めるだろう。

しかし、一つの家族の生命は確実に救われた。

冷徹なエージェントの顔には、相変わらず何の表情も浮かんでいない。

だが彼の胸の奥には、一万日分の祈りを受け取った人間としての、確かな熱が静かに脈打ち続けている。

残すは、この致命的な仕様外の例外処理を実行した彼自身が、パブリッシャーという巨大なシステムに対してどのような決着をつけるかだ。

織部は車のエンジンを静かに始動させ、夜の闇に包まれた車内で一人、前方を見据えた。

彼が最後に下すべき決断の時は、もう目の前に用意されている。



【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

マニュアルキラー 第5部

~戦争を止める仕様書~

https://ncode.syosetu.com/n5481mc/


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