杏寿
「そこのお侍さん」
呼び止められて、侍は足を止めた。
声のした方を見ると、女が一人立っている。
明るい茶色の髪をまとめ、赤紫の着物を着ていた。
この辺りではあまり見ない色合いだ。
珍しさもあって、思わず顔を見てしまう。
どこかで見たことがあるような――
そんな気もしたが、思い出せない。
「頼みたいことがあるんやけど」
「なんだい?」
「化け物退治」
即答だった。
「ずいぶん物騒だな」
「困っとる人がおるんよ」
女はそれ以上、余計な説明をしなかった。
路地をいくつか抜け、表通りの喧騒が遠ざかっていく。
昼下がりの江戸とは思えないほど、辺りは静まり返っていた。
「こんなとこに化け物が?」
「おる時はおるで」
歩きながら、他愛もないやり取りが続いた。
昼下がりの静けさの中で、女の声だけがやけに近く聞こえる。
「そういやあんた、名前は?」
「アンジュや。お兄さんは?」
「なんでもいいだろ」
「いけず。教えてや」
「そんなことより、ここから先は危ねえ」
「ええんや。私も付いていきたいねん」
「怪我しても知らねえぞ」
「ええからえから」
やがて路地裏の奥、ぬめりのある気配が立ち込める。
紫色のぬめぬめとした多数の足。
その上に、大入り袋がちょこんと乗っている。
「エンヤスー……エンヤスー……」
間延びした声を上げる妖怪が、袋を揺らした。
「こいつか」
「そうや」
妖怪は侍を認識すると、小判を投げつけてきた。
よけるまでもなく、侍はそれを受け取る。
重い。
本物だ。
「ずいぶんと景気のいい妖怪だな」
「人様から盗んだもんや」
侍は肩をすくめた。
「ふーん。とりあえず斬っとくか」
一閃。
妖怪は悲鳴を上げる暇もなく、跡形もなく消えた。
「ありがとう!」
背後から、アンジュが抱きついてくる。
柔らかい感触と、ぬくもり。
「おいおい、大げさだな」
侍は苦笑した。
その背中に、冷たい感触が当てられる。
白銀の銃口。
乾いた音が響いた。
血は流れなかった。
撃ち抜かれた穴が、ゆっくりと、確実に広がっていく。
この感覚は、侍にとってはなじみのあるものだった。
「え」
「あたしの勝ちやね」
「お前……一体……なぜ俺の正体が分かった……?
まだ何もしてないのに……」
アンジュは答えなかった。
恍惚とした表情で、消えていく侍を見つめていた。
――完全に消える、その直前。
「ふいー、あぶねえあぶねえ……」
地面の感触が、唐突に戻ってくる。
見覚えのある別の場所に移動したらしい。
「消えきる前に転移が間に合ってよかったぜ――」
次の瞬間。
バン。
バン。
「は?」
視線をずらした先に、白い服を着た女が立っていた。
片手に、白銀の銃を構えている。
黒髪。無表情。
顔立ちは、アンジュによく似ている。
「尖兵が……なんでこんなタイミングで……ありえねえ……」
バン。
バン。
「リスポーンキルは卑怯だろお! ちくしょう!」
叫びは途中で途切れた。
侍の存在は、今度こそ完全に現世から消え去った。




