9. 綺麗
それからは、水曜日の昼間に凛々子さんと会うことにした。週末は娘がいるから難しいと言っていたが、6月に入ってからメッセージが届いた。
『弦くん、急なんだけど次の土曜日空いてる? 娘が一日出かけるって言ってるの。だから会えるかなと思って』
高校生であれば週末は家族よりも友人になるだろうな、と思いながら俺は返事を打つ。
『凛々子さん、空いています。どこか行きたいところはありますか?』
『ありがとう! 私ね、水族館のイルカショーが見たい』
子どもみたいだな。
だけど、その反応がまた可愛らしい。
イルカショーの時間を調べると一番早くて11時である。
『それは楽しそうですね、行きましょう』
※※※
当日になった。
世間一般ではデートというこの状況、いつも以上の緊張感がある。
まさか本当に凛々子さんとこうなるとは。
「実はこれも夢だったりしないだろうか」
独り言を呟きながら朝のコーヒーを淹れて窓の外を見る。
梅雨入り前のやけに晴れている空。
以前は何とも思わなかったのに、最近は天候を気にするようになった。
雨が降らないでほしいとも思うが、凛々子さんと景色のひとつひとつを眺めていたいとも考えてしまう。
今日はどんな表情を見せてくれるだろうか――
待ち合わせは地元の駅前。
凛々子さんは俺を見つけて嬉しそうに手を振っている。今日も爽やかで綺麗だ。
「弦くん! 行こっか」
「はい」
駅のエスカレーターに乗り、改札を通って電車に乗り込む。休日は混んでおり、2人でドア付近に立った。
「今日娘さんはどこに行かれたのですか?」
「もう教えてくれないのよ。友達と遊びに行くとしか言わない。帰る時間はちょっと遅くなるかもって言ってたけど、そんなに遊べる場所この近くにあったっけ?」
思いつかない。
地元には小さなショッピングモールがあるぐらいで、ここで一日過ごすのは難しいだろう。
「少し遠出されているかもしれないですね」
「そうなの。しかもいつもより準備に時間かかってて。デートかしら」
そんな気がする。
高校1年で恋人ができるとは、早いな。
いや最近は普通か? わからない。
喋っているとドアが開きそうだったので、思わず凛々子さんの背中に手を回して引き寄せた。ふわりと香りが漂い、心地よさを感じてしまう。
昔とは違う――今度は自分が守りたいから。
「弦くんありがとう。こういうの久々だからドキドキしちゃった」
「いえ……」
水族館の最寄り駅に到着。11時のイルカショーにちょうど間に合う時間である。
会場に入るとほぼ満員だったが、どうにか真ん中あたりの席に座ることができた。
「あ! 見て弦くん。可愛いねイルカさん」
「そうですね」
イルカはトレーナーに懐いていて言われたとおりに泳いだり跳ねたりしている。前方の席は水飛沫が飛んで歓声も聞こえてくる。
ふと前を見ると、どこかで見たことのある2人が。
あれは――凛々子さんの娘では。
そして隣にいるのは同級生の男子生徒。
少し離れていてわかりにくいがおそらく間違いない。
凛々子さんはイルカに夢中で、気づいていないようだ。
――まだ娘に自分たちのことを言うのは早い。
しかも教師が母親の相手だなんて、衝撃を受けるかもしれない。
「わぁーすごい!」
隣にいる彼女と腕が触れる。
近づくほどに温かい何かを感じて、心臓の音が身体に響く。
凛々子さんへの気持ち、そして彼女の娘に見つからないかという緊張の両方が混じり合っていた。
ショーが終わり、前方席の人たちが会場から出ようと後方にやって来る。
まずい、このままだと凛々子さんの娘にわかってしまう。俺は彼女の手を引いて遠回りになるが左側の出口に向かう。
「……そっちから出るの?」
不思議そうに尋ねる彼女。
「こっちの方が、空いてますので」
繋いだ手をしっかり握って俺たちはどうにか水族館の本館に移動できた。おそらくあの2人は別の出口から来るだろうから、その場所から離れた方が良さそうだ。
教師として――彼らにはまだ見せられない。
だけど、いつか伝えられるその時が来たら。
「あれ? 弦くん、そっちから行くの?」
人の流れに逆らってしまったので怪しまれている。先にトンネル水槽に行った方が鉢合わせせずに済むだろう。
「……凛々子さんと、少しでも2人きりになりたかっただけです」
彼女は恥ずかしそうに俯いて俺に寄り添う。
「そんなこと言われると……またドキドキしちゃうから」
青白い光に包まれて幻想的な雰囲気の中、俺たちの間には言葉では表せない静かなぬくもりが流れていた。
頭上を先ほどのイルカたちが通り過ぎて、光を反射する。
別の水槽には色とりどりの魚たちが泳いでいる。まだ手を繋いだままで、いつ離せばいいのかわからない。凛々子さんの横顔に光が映り、ますます美しく見える。
すると、彼女がこちらを向いて微笑む。
「綺麗だね、弦くん……」
俺は頷き、彼女の手を強く握り返した。
「落ち着かないです、凛々子さんが綺麗すぎて」
思わず口にした言葉に、彼女は小さく「もう……」と呟きながらも嬉しそうにしている。
こんな時間が、ずっと続けばいい。心の中でそう願いながら2人で笑い合う。
一通り見終わってからレストランで食事を取り、帰路につく。凛々子さんの娘が帰って来るまでに戻る必要があるからだ。
「弦くん、楽しかった」
彼女の今日一番の笑顔に、胸が熱くなる。もっと一緒に過ごしたいところだが仕方ない。
「凛々子さんがいたから……どの景色も特別に感じました」
そう言うと彼女は恥ずかしそうに下を向き、指が俺の手に優しく触れる。
もう一度手を繋いでゆっくりと歩き出す。彼女の手を包み込むように指を絡めると、小さく息を吸う音が聞こえた。
「……何だか嬉しい」
凛々子さんの照れたように呟く声が愛おしい。
「俺も同じです」
こう言うと彼女は目を細めて幸せそうに笑う。
電車とバスに乗って、彼女の自宅付近まで来た。人通りの少ない脇道に入る。別れを惜しむように繋いだ手を、俺はそっと引き寄せた。
まるで2人だけが静止しているように感じる。
「……もう少しだけ」
自分でも抑えきれない声がこぼれた。
彼女が驚いたように顔を上げる。視線が重なり、鼓動が一気に早まる。
その潤んだ瞳は夢で見た凛々子さんそのものだった。
気づけば距離は縮まっていた。
やわらかな風に包まれて――俺たちはそっと唇を重ねた。
「……ん……」
わずかに震える声が耳に届き、胸がいっぱいになる。
あの夢を思い出して凛々子さんを抱き寄せるが――今日はここまでだ。唇を離したあとも、彼女の視線は離れない。
「ずっと……こうしていたい」
ついそう言ってしまったが、彼女の声が俺を優しく包む。
「いつか、娘に話せる時が来るわ。信じて……くれる?」
もう一度強く抱き締めて俺は応えた。
「もちろん。離さない……凛々子さん」
胸の奥で“夢じゃない”と何度も呟いた。




