7. 抱擁
「そんなこと言われると、帰れないじゃないですか」
俺はソファに近づき絨毯に座る。
初めて見る凛々子さんの寝顔。
先輩なのに歳下に見えてしまうぐらいの可愛いさがある。
髪をそっと撫でると「んっ……」と言う。
肩に触れると僅かにぴくんと揺れた。
しかし起きる気配がない。
それなら――と思った俺は、彼女の額にキスを落とした。
「……ん……え?」
そう言いながら凛々子さんが目をゆっくりと開く。俺を見て頬を染めている。
「ご、ごめん弦くん。私ったら寝るなんて」
「いえ、俺のほうこそすみません。こんなこと……」
だけど彼女の目は俺から離れない。
時間が止まる感覚とはこのようなことを言うのだろうか。
「……だめですか」
「……」
「……俺じゃ、だめですか」
凛々子さんはそっと瞼を閉じ、唇がかすかに震えた。
いきなりすぎてしまっただろうか。
「どうして、私なの?」
彼女が目を開いて俺に尋ねる。その表情には緊張もあるが、少しの願望も見えて心を震わせる。
「高校生の時から憧れていたんです。明るくて気さくで……あの時から凛々子さんへの想いは変わっていません」
とうとう言ってしまった。
もう“友達”ではなくなるかもしれない。
二度と会えなくなる可能性だってある。
それでも抑えられなかった。
彼女にずっと伝えたかった気持ちを。
「弦くん……」
横になっていた凛々子さんがゆっくりと起き上がる。そして「座って」と言われてソファで隣同士になる。
彼女は俺を見つめたまま。
どうすればいいんだ。
「いきなりで、すみません」
「ううん、私のほうこそ急に呼びつけておいて何だか……よくわからないよね」
「いえ、俺は……」
「……」
もう、どうなってもいい――ここまで来たら。
「俺は、凛々子さんからの連絡が嬉しかったです。心配でした。いつも、誰よりも……頑張っている凛々子さんのことが」
どうか、ひとりで抱えないでほしい。
今の貴女を、このままにはできない。
「弦くんっ……」
彼女は目に涙を浮かべていた。震える肩に手をやると恥ずかしそうに俯く。そのまま俺の胸元に身を寄せ、こらえ切れなかったのか涙を流している。
「私……ずっと自信がなかった。いつも不安だった。娘がいてくれるから、あの子のおかげで私は笑っていられるの」
「そうなんですね」
「うん。だからさ、あの子が学校行ってる時……家で仕事してるから、ひとりでいるから急に怖くなってくることがあって。わからないの……どうしてこんなこと考えてしまうのか、わからないよ……」
それはコップに入れていた水があふれるように、今までの彼女の大変さがこぼれた瞬間だった。娘の前ではこんな姿を見せたくなかったのだろう。
でも――そうしているといつか壊れてしまう。
これまでにもそんな生徒がいた。
だからこそ、気になっていた。凛々子さんのことが。
というより、高校時代の彼女が気づかせてくれた。
寄り添って欲しいと……声もなく叫んでいる人がいることを。
あの時から――図書室で一緒に勉強していた時から、彼女は完璧そうに見えて、どこかひび割れそうだったのかもしれない。
そう思いながら凛々子さんの背中をポン、ポンとした。
もう我慢することなどない、俺がいるから。
今の自分なら、貴女を守ることができる――
「凛々子さん」
「……」
「もう十分頑張っていますから」
「……」
そっと頭に手を添えると、彼女は徐々に落ち着いてきた。それでも表情にはやや困惑が見える。
「大丈夫ですから」
「弦くん……」
また泣きそうな顔をするのだから。
貴女って人は。
ますます帰れなくなるだろうが。
いや……離れたくないだけだ。
今日はずっと一緒にいたいとさえ思う。
「ありがとう。私またひとりで……どうにかしようとしてたみたい。弦くんがいてくれて良かった」
「凛々子さん……」
「私もね、卒業してから何度も思い出してた。弦くんのこと。いつも一緒に図書室にいてくれたなって。娘が生まれてから再会できた時は……嬉しかった」
彼女も俺のことを考えていてくれたなんて。
そう思うと途端に鼓動が速くなってゆく。
「でも、これでいいのかわからなくて……娘にどう言おうかな。だけど弦くんがそばにいてくれるなら……あぁまた泣きそう、ごめん」
「いえ、ゆっくり考えてください。娘さんのこともありますので。俺はいつでも待ってます。だから……もうひとりだなんて、思わないでください」
凛々子さんは再び涙を流す。
声をおさえながら揺れる身体。
それを支えるように俺は彼女を抱き寄せる。
「そんなこと言われたらもう……弦くんのことが好きになっちゃうじゃないの」
「それでいいんです、凛々子さん」
午後の時間がゆったりと流れる中、しばらく俺たちはそのままお互いの温もりを感じていた。
ふと彼女が顔を上げて甘えたように俺を見る。
ああ、これは夢かもしれない――
この一線を越えたら、もう後戻りはできない。
そう思ったが、優しく彼女と唇を重ねた。
夢よりもずっと温かくて、
夢みたいに消えることのない彼女を、
この手に抱き締めて――
もう二度と離したくない。
それ以上を求めることなく、ただ静かに唇を重ね合うだけで――心は満ちていた。




