5. 現実
5時間目が少し始まった頃に職員室に戻ってきた。
『弦くん』
彼女の声がまだ胸の奥で響いている。
まさかここまで凛々子さんのことを想っていたなんて。
考えれば考えるほど頭がぼんやりしてくる。
いけない――6時間目のクラスの準備をしなくては。
俺は気持ちを切り替えてタブレットのデータを確認していく。
放課後――
「松永先生、今日のお昼どこ行ってたのですか?」
こう言うのは柏木先生だ。
何と答えるか……教師として嘘はつきたくないな。
「ちょっと気になる店があって」
軽く返したつもりだったが彼女は「え?」と言いながら俺の顔をじろじろと見てくる。
「どんなお店ですか?」
「ランチプレートが有名で……」
「わぁおしゃれ! この近くにあるんですか?」
「少し離れていて」
何故か話が続いてしまう。
そんなに気になるのか、ランチプレートが。
と思っていたら、柏木先生は俺にしか聞こえないような小声で囁く。
「今度連れていって……欲しいです」
「え?」
あまりにも急だったので俺はどうすることもできず、動きが止まってしまった。連れて行けるわけがない、あの店は凛々子さんのために選んだ場所なのだ。
「そうだ。来週4時間授業の日があるから、その日はどうですか? 私は担任持ってまだ不安なこともあって……相談に乗ってください、松永先生」
相談に乗るだけなら、いいのか?
けれど凛々子さんと過ごしたあの店に柏木先生を連れて行くなんて。
かと言って今さら誤魔化すこともできない。
「お願いします……!」
柏木先生、手を合わせている。
そこまでされると断りにくい。
「……では来週のその日に」
「ありがとうございます……! 楽しみにしています」
約束してしまった。
夏休みにたまに教師数人でランチに行くこともあるが、女性の若手教師と2人だなんて。
だが、本当に何か困っていたらと思うと放っておけない。
保護者対応で疲弊してしまう人もいるからな。
だがあの席に、別の誰かを座らせていいのだろうか――胸の奥がざわついた。
※※※
帰りにスマートフォンを見るとメッセージが1件。
『弦くん、今日はありがとう。色々話せて嬉しかったです』
画面に映る“弦くん”が彼女の声に変換されて、笑みがこぼれる。
思い浮かぶ凛々子さんの表情は、全部笑っているもの。
いつだってその笑顔を守りたかった。
これからは俺が彼女の“友達”として近くにいたい。
だけどどうしても――
“それ以上”を求めてしまう。
彼女とその娘が幸せに過ごせることが第一だが――
遠くから見守ることしかできないのだろうか。
『凛々子さん、こちらこそありがとうございました。またいつでもご連絡ください』
メールを送信して夕焼けに染まる空を眺める。
どこか寂しい、いや……大丈夫だ。
これでいい。
でも何故だか――寂しい。
※※※
その日の夜のことだった。
「弦くん」
「凛々子さん?」
彼女がすぐ隣にいる。
俺の顔に手を添えて妖艶に囁く。
「私は大丈夫じゃない……寂しい」
「え……」
そのまま唇が重なり、身体が熱を帯びてゆく。
こんなことあり得ないのに、彼女にもっと触れていたい。
「やだっ……弦くん」
「何言ってるのですか、貴女からしてきたのでしょう?」
「だってそれは……」
「俺をここまで本気にした責任、取ってもらいますから」
彼女が俺の背中に手を回す。
貴女はもう、俺から離れられないだろう?
それでいい、このまま身を委ねてくれないか。
「あっ……弦くんっ……」
彼女の姿は徐々に見えなくなっていくのに、声だけが近づいてくる。
それでも消えゆく輪郭を強く抱き寄せた。
貴女への想いが身体から溢れてくる。
※※※
――朝。
片付いてないプリント、昨日のままの現実。
夢か。
そんな気はしていたが、また彼女を求めてしまった。
俺は何を考えているんだ。
まだ彼女の温もりが残っている、夢なのに。
本当はさっきまでそばにいたのではないだろうか。
そう思ってしまうぐらい、凛々子さんを近くに感じた。
サイドテーブルでスマートフォンが光る。
まさか……。
『おはよう、弦くん。昨日遅くなっちゃってあんまり眠れなかった(笑)今日は残業なしを目指すぞー♪』
仕事が多そうだな。
だが一瞬考えてしまった。
――俺のところに来たから眠れなかったんだろう?
そんなわけ……ないか。
『凛々子さん、おはようございます。俺もあまり眠れていません(笑)だけどやるしかないですね。今日もお互い頑張りましょう。また会えるのを楽しみにしています』




