4. 名前
「……どのような男性が好みですか?」
レストランでの俺の問いかけに対して、先輩はやや戸惑っているようだ。
「すみません。少し気になって」
「うーん……そうだなぁ」
彼女が考えながら「私は……」と言いかけた時、「お待たせしました」とランチプレートが運ばれてきた。
「あ、食べよっか。松永くん」
「……はい」
やっぱり変なことを聞いてしまっただろうか。
だよな。
娘が高校に入ったばかりできっと忙しいだろうに。
すると先輩は少しうつむきながら静かに話し出した。
「私は……わからないかも。そういうの」
わからない……?
答えにくい話題だったか……どうすれば。
それでも――先輩のことをもっと知りたくなる。
「わからないですよね……すみません急にこんなこと」
「ううん、気にしないで。何というか……誰かを好きになる感覚がわからなくなっているのかも。しいていえば優しい人がいいかな……って、ありがちな答えだけど」
そういえばどうして離婚したかも知らないままだった。
俺は先輩のことを何も知らずに……。
離婚は結婚以上に体力も精神力も削がれると聞いたことがある。だから気軽に次に行こうだなんて、先輩は考えられないのだろう。
だけど俺は聞いてしまう――
「……新しい恋人が欲しくなることはありますか?」
「そうねぇ……正直、ちょっと怖いんだ。付き合うとか考えると疲れちゃいそうで。今は娘との生活が一番だし」
「そうですか」
怖い、という言葉は俺の心を突き刺すようだった。
やはりそこまで考える余裕なんてないのだろう。
自分にはもう何もできないのかもしれない。
「だからお茶する友達ぐらいでいいかなって思う。それがきっと一番楽なの。だからもう私には……」
今にも壊れそうな表情なのに……どうしてまだ先輩に惹かれるのだろう。
そして友達以上にはなれないのか。
本当に……そうなのか?
「あ、ごめんね自分の話ばっかりで」
「いえ……」
アイスコーヒーのストローをクルクルと回しながら、先輩は申し訳なさそうにしている。
俺があんなことを聞いたからだ。どうするか。
「……先輩のそういう所もいいと思います」
「え? そうかな?」
「娘さんのこと、きちんと考えてらっしゃるので……」
だめだ。表面的な言葉しか思いつかない。
もっと先輩の良いところはたくさんあるのに。
“ちょっと怖い”という言葉と、“今は娘との生活が一番”という意思表示が全てなんだと思うと、途端に自信がなくなる。
だけどどうにか彼女のそばにいたい。
「松永くん、私はね」
俺の様子に気づいて何かを言おうとしている先輩。
相変わらず優しい人だ。
「……もう別れるのが嫌だからさ。お茶をする“友達”だったらその……ずっと“付き合っていける”じゃない。だからそういうのがいいなって……思うの」
先輩……?
それってどういうことだ。
まさか……。
「ま、松永くんとは、これからもまた会えたらなって……あ、ごめん勝手だよね。松永くんだって恋人がいるかもしれないのに。私なんかと……」
心臓が、跳ねた。
また会えたら――その言葉だけで俺は救われる思いだ。
そしてずっと“付き合っていきたい”ような言い方……友達としてだが。
「いえ、俺も先輩と会いたいです。これからも」
「松永くん……」
その呼び方……夢に出てきた先輩にそっくりだ。
もう友達でも何でもいい。
彼女と会えるなら俺は……。
「恋人とか、いませんので。何も気にされなくて大丈夫ですから」
少しだけホッとしたような表情を見せる彼女。
その姿に余計に今後を期待してしまう。
「ありがとう。でも恋人ができたら私のことはいいからね? だから……その……」
貴女以外に恋人にしたい人なんて――思いつかない。
「なるようにしかならないと思います。だから今はこうやって先輩と過ごしたいです」
「あ……そ、そうよね。私ったら……」
先輩、隙だらけだな。
そんな顔をされると、どんな男性でもなびくだろう。
「もしかしたら先輩にも、今の考え方を変えてくれるぐらいの素敵な方が現れるかもしれないですよ?」
「そうかな? ハハ……」
それが俺だったらどれだけ良かったか。
でも……友達から恋人になることだってあるはずだ。
そう思うと途端に緊張して鼓動が速くなってしまう。
少しだけでいい――今日少しだけ、貴女に近づきたい。
せめて言葉だけでも距離を縮めたい。
「凛々子さんって呼んでいいですか」
「え……」
友達なら……いいだろう?
「や……やだ、何だか恥ずかしいけど……嬉しい。久々だもん名前で呼ばれるのって」
「そうなんですね」
「じゃあ松永くんのことも名前で呼んでいい?」
「はい」
「弦一郎くん……」
一気に胸の奥が熱くなってゆく。
名前で呼ばれただけなのに。
「弦一郎くん、かぁ。弦くんでもいい?」
さらにマグマみたいなものが溢れそうだ。
ここまで気持ちが抑えられなくなるなんて。
「おーい、弦くん? 下向いてちゃわかんないよ?」
「す、すみません……照れてしまって」
「ハハ……だよね。何かドキドキしちゃう」
またそういうことを言うのだから……先輩は。
じゃなくて、凛々子さんは……。
「俺もドキドキします」
「じゃあもう一回呼ぼうか? 弦くん♪」
「ちょっと……」
「そういえば、誕生日いつなの?」
「1月7日です」
「え、冬生まれなんだ。何か弦くんらしいね」
「凛々子さんは?」
「私は3月18日。魚座なの」
「……覚えておきます」
名前だけでなく誕生日まで知ると、ぐっと距離が縮まった気がした。
もちろん、まだ恋人には程遠い。
けれどもし“友達”から先に進める日が来るなら。
絶対に、その手を離さない――そう心に誓った。