2. 約束
「あ……ごめんね急に。もちろん何かあれば高校の先生には相談すると思うけど……その……発達心理学とか、松永くんならよく知ってるでしょう? 私、ひとりだしさ。繋がっていた方が心強いなって……思って……」
俺と連絡先を交換したいと言った先輩は、少し照れくさそうにしながら喋っている。
その姿に母親としての熱心さ、そしてどこか女性らしさも感じてしまい、俺はすぐに応えた。
「正門の外で待っていただけますか。職員室に戻ったらすぐに向かいますので」
「ありがとう……!」
そして職員室に荷物を置いて、スマートフォンを持って正門に向かう。
「向こうに行きましょう、先輩」
そう言って少し学校から離れたところに連れて行き、彼女と連絡先を交換した。
「ありがとう、松永くん」
これまで何度も言われてきたその言葉――今回は今まで以上に特別に聞こえた。
“生徒の母親と教師”から一歩進んだような、新たに感じる気持ち。一方で高校の頃から変わらない想いも含まれているような懐かしい感情。
俺と先輩はこれから――どういう関係を築いていけるのだろうか。
「いえ……何かあればいつでも連絡してください」
「うん」
彼女の安心した笑顔を見ていると――自然と、あの頃のことを思い出してしまう。
※※※
高校時代、俺が1年生の時に先輩は3年生だった。歴史研究部に所属したが、部員も少なく半分は遊びのようなもの。その中でも先輩はいつも真面目に歴史本を読んでいて、入部した時から気になる存在だった。
ある夏の日、放課後に図書室で勉強している先輩を見つけ、勇気を出して声をかけてみた。
「あ、松永くんも勉強?」
「まぁ……そんなところです」
部室には他の人もいるのでなかなか先輩と話せない。
だから今、少しでも一緒に過ごせたらなんて思ってしまった。こうして部活のない放課後には、先輩と図書室で勉強するようになった。
「先輩は大学に入って何をするんですか?」
大学受験に向けて猛勉強している先輩に俺は尋ねる。
「それは……わからないけど、今はそれしか考えられない。自立はしたい、ひとりで生活できるように」
ひとりで生活できるように――その言葉を聞いてさすが先輩だと尊敬したが、まだ“俺がいるから”とまでは言えない自分の未熟さが悔しかった。
「松永くんみたいな人初めてだよ、大学に入って何をするのかって聞くの。先生みたいなこと言うんだね」
先輩のこの一言が、教師を目指すきっかけになる。
だが俺は何も言えないまま、先輩は卒業。その後税理士となった。
そして都会に出て結婚したと思えば、離婚して地元に戻ってきたのだ。
この時も偶然だった――学校近くの公園で会えるなんて。
当時4歳の娘を連れた先輩は顔色が悪く、シングルマザーとしての大変さが伝わってきた。さらに娘の成長がゆっくりであることに悩んでいる。
「先輩、市役所に相談窓口があります。一度行ってみてはいかがでしょうか。この市は最近子育て支援が手厚くなっています」
「そうなの? じゃあ行ってみるわね」
そしてその後、再び同じ公園で会えた時には随分元気な姿を見せてくれた。
「松永くんありがとう。私、ひとりだからって色々焦ってた」
彼女の笑顔を取り戻すことができて、俺は心が満たされていくのを感じた。
※※※
また――思い出してしまった。
あの頃から娘は成長し、もう高校生。
先輩も少し余裕ができたから、今回の“税の教室”も引き受けたのだろう。
これからは、彼女と会うことも出来るのだろうか。
そう考えながら職員室に戻ると柏木先生にじっと見られた。
「さっき、スーツの女の人と親しそうでしたね?」
「ああ、3年の“税の教室”に来てくれた税理士だ」
「税理士さんでしたか。てっきり彼女さんかと」
思い切りプリントの束を落としそうになって焦る。
「いや、そういうのは……」
「え、じゃあ松永先生はフリーなんですか?」
柏木先生、どうして今聞いてくるんだ。
興味深々といった顔をされると困るのだが。
「今は……考える余裕はない」
「そうですか。私もそのぐらい頑張って生徒に向き合わないと」
「ご無理なさらずに」
そう言うと、柏木先生は少し恥ずかしそうにしながらも笑って頷いた。
家に帰ってからスマートフォンを見るとメッセージが1件――先輩だ。
『今日は松永くんに会えて嬉しかったです。また話せるといいな』
心臓の音しか聞こえない。
画面から目を離せない。
何を返せば良いのか。
『こちらこそ、ありがとうございます。また話しましょう』と打ってふと考える。
これだと昔の俺のままだ。
時計を見れば、もう15分経っていた。
あまり深く考えるのもどうかと思いながら文章を打つ。
「連絡先を知ってるのだから――構わないはず」
ひとりで呟きながら送信ボタンを押す。
『こちらこそ、ありがとうございます。先輩は今の時期はお忙しいでしょうか。よろしければ合間にランチでも行きましょう』
先輩は働き方を工夫していると聞いたことがある。だから、もしかしたら――
淡い期待をしつつ、シャワーでも浴びようと風呂場に向かい、シャツを脱いだ時だった。
ダイニングテーブルの上でスマートフォンの通知音が響く。
俺はそのままの格好でテーブルまで戻り、画面を見る。
波打つ鼓動に手さえも震えてくる。
『ランチ、行きたいです。しばらくリモートなので、松永くんに合わせるよ』
思わず笑みがこぼれる。
先輩とのランチ――
それだけで、心だけはあの頃に戻ったかのよう。
『ありがとうございます。ではゴールデンウィーク明けはいかがでしょう』
『大丈夫だよ、いったん水曜日にしようか』
『はい、お店は――』
気づけば具体的な日時と場所まで決まっていた。
ほんの少しの勇気だけでここまで進むとは。
「先輩――」
ゴールデンウィーク明け、その日を思うだけで胸が高鳴る。
俺は、シャワーを浴びながら彼女の笑顔を思い浮かべていた。