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11. 笑顔

 凛々子さんの娘の絵画展に行った日の夜。


『弦くん、遅くにごめんね。少し話せる?』


 風呂から上がり、濡れた髪を拭いていると彼女からメッセージが届いた。こんな時間に……もしかすると急ぎの要件かもしれない。俺は凛々子さんと通話することにした。


「ごめんね弦くん、夜遅くに」

「いえ、どうかされましたか?」


 電話口の声だけで、彼女が迷っているような様子が伝わってきた。


「娘にね……新しいお父さんはいなくても大丈夫だって言われたの」


 ――それはまさか。

 今日の凛々子さんと俺の様子を見て何か思ったのか。

 心臓がバクバクと音を立てて俺を驚かせる。


「凛々子さん、もしかして俺たちのこと……娘さんに気づかれたのですか?」

「わからない……弦くんの話はなかったの。いきなりそれだけ言われて」


 何かしら予感して自分の希望を話したということだろうか。


「娘にそれとなく聞いてみたんだけど……今のまま私と暮らしたいって言ってた。弦くんのことは伝えていないわ」


 そういうことか。

 家に大人の男性が一緒に住むなんて、普通すぐには受け入れられない。俺はまだ共に暮らすことまでは考えていなかった。

 だが、子どもというのは親のことになれば……自分たちが思っている以上に想像してしまうのかもしれない。


「俺は娘さんの意見を尊重したいです。娘さんが安心して過ごせるのが一番かと」

「弦くん……」


 凛々子さんと娘の生活を第一に考えたい。

 だが何故だろう。

 頭ではわかっているのに――心はどうしようもなく凛々子さんを求めていた。



 ※※※



 それから数日間――メッセージはやり取りしていたが、どこかぎこちない。

 ある日、夏休み中に課題作りで出勤している時のことだった。


 お昼過ぎにスマートフォンが光り確認すると――凛々子さんから着信が数件入っている。

 慌てて彼女に電話をかけた。


 

「凛々子さん? どうかされましたか」

「……弦くん……助けて……」


 

 息苦しそうで声に元気が全くない。

 彼女に何があったのだろうか。


「今、ご自宅ですか」

「ううん……外……」


 この猛暑日の真昼に外にいる……?

 凛々子さんはリモート勤務だったはずでは。

 いや、まずはどこにいるのか聞かなければ。

 

「どのあたりにいますか?」

「あのレストランの……近く」


 

「すぐ行きますので」

 


 俺は電話を切って職員室を出て、凛々子さんの元へ急いで向かった。

 息を切らしてレストランの近くまで来て周りを見渡すと、近くの木陰でしゃがんでいる彼女を見つけた。


 

「凛々子さん!」

「弦くん……」


 

 彼女は辛そうに顔をあげて俺を見つめる。

 少し顔色も悪いような気がする。


「何だかふらついちゃって」

 額に汗がにじみ、声は今にも消え入りそうだった。

「熱中症かもしれないです、俺につかまってください」


 俺は凛々子さんを立たせて支えながらレストランに入る。ボックス席に案内され、すぐに店員がコップに水を入れて持ってきてくれた。


 彼女はそれをゆっくりと飲んで俺に寄りかかる。

 眠ったように見えたが、しばらくするとぱっと目を開いて俺の方を向いた。


「あ……弦くんごめんね。私ったら……」

「いえ、大丈夫ですか」

「うん。怠さがましになった」


 凛々子さんは午前中に外で仕事をしており、帰りにレストランへ寄ろうとしたところ、軽い熱中症になっていたようだ。


「外での仕事、久々だったから疲れたのかも。考え事してて水分補給も忘れてた」

 持っていた小さな水筒は空になっていた。


「そうでしたか。毎日暑いですからね」

「本当にそう」


 彼女は昼食がまだだったので、軽く食べられるものを選んでいた。俺もアイスコーヒーを注文する。


「……また弦くんに助けてもらっちゃった」

「それは気にしないでください」

 

 凛々子さんは見るからに元気がなさそうだ。


「何か……あったのですか」

「……」


「お待たせしました」と店員がサンドイッチとアイスコーヒーを持ってくる。テーブルにコトンと置く音さえ重たく感じた。

 

「娘にああ言われてから、もっと頑張らないとって思ってしまって。でも無理はしていないつもり。弦くんも……娘のことを一番にって言ってたし」

 

「凛々子さん……」

 

 彼女はサンドイッチには手をつけずそのまま続ける。


「よくわからないんだけどさ……寂しかった。娘のことが大事なのに、娘は元気に過ごしているのに寂しいだなんて……私はどうかしてる」


 その横顔は美しいのに憂いがあり、俺は目を離せなかった。


「あ、ごめん……こんなこと弦くんに言っても困るよね」

 彼女はサンドイッチを手に取ろうとする。


「いえ、そんなことないです。確かに娘さんのことは考えた方がいいですが……凛々子さんが苦しくなってしまったら意味がない」


 

 俺は娘のことを第一にと言っていたが――目の前にいる彼女のことも、一番に考えるべきだったんだ。


 

「もう、弦くんは優しすぎるよ……今だってさ、調子崩してるし。あの子にとって良い母親になれているのか……」


 

「凛々子さんは娘さんのことをそれだけ真剣に考えてるということだと思います。その気持ちは娘さんに伝わっているはずです。中3の1年間、娘さんを見ていた俺が言うのだから……間違いない」


 

 彼女はぱっとこちらを向き、一瞬で目に涙をあふれさせていた。頬をつたう涙が窓からの光できらりと見える。


「ほんと……? 私は弦くんに甘えてばかりだよ……?」


「凛々子さんには笑顔でいてほしいです。凛々子さんが笑顔でいればきっと娘さんも安心されます」


 

 彼女は両手で顔を覆って肩を震わせる。

 俺はその背中をゆっくりとさすった。

 

「じゃあ私はさ……弦くんと付き合ってても……いいの?」


 それを心配していたのか――答えはひとつだけなのに。


「いいに決まってる」


 俺はそっと彼女を抱き寄せた。


「うぅっ……弦くん……弦くん……!」


 凛々子さんは力が抜け、そのまま俺の胸に頬を寄せる。


 彼女の笑顔を守りたいと最初から思っていた。

 だからこれでいいんだ。


 俺は俺のやり方で、彼女を大事にしたい。

 多くは望まない。俺が凛々子さんを支えることで、彼女が娘と一緒に元気に過ごせるのなら――それが一番いい。

 

 


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