嫉妬
嫉妬って怖いですね
大学一年の話。
日頃から事オカルトな事象に少なからず関わっている身としては、夢というのは興味深いモノの一つである。もっとも最近そんなもの見てはいないが。
「先輩、最近寝てますか?」
後輩のそんな一言がきっかけだった。
「いや、最近はあんまり。慣れない生活で疲れてるはずなんだが⋯⋯」
「目の下、隈酷いですよ?」
地元の高校に通う後輩。彼女は所属していた競技自転車部のマネージャーで、みんなのアイドル。そんな彼女は冬のテストを終わらせた三連休ということもあってか俺の部屋へと訪れた。
「まぁ、しゃぁない。つーか、そろそろ帰れよ。送ってくぞ?」
「今日泊まるんでいいです」
「良くねぇよ。親御さんへはなんて言って来てんだよ」
「先輩の家行ってくるって」
「正直か」
「隠しても仕方ないじゃないですか。大体、大学通うから一人暮らしするって言ったの先輩ですし。そうなったら来るしかないじゃないですか」
「その訳わかんない思考回路やめれ」
したり顔でそんな事を言う後輩に頭を掻きながら、レポートに目を落とす。見慣れない文字でメッセージが書いてあった。
『今夜は眠れます』
綺麗な字で書いてあった。ボールペンで。
「消えねぇ⋯⋯。せめてフリクションで書けよ」
「ん? 女の人の字ですね。彼女ですか?」
何やら不機嫌そうに言ってくるが、そんな相手はまだ居ない。居たとしても、この体質を理解してくれる人じゃないといけない。霊感体質というやつを。
「ふーん⋯⋯。じゃあ帰りますかー。カノジョさんに悪いですし」
パタパタと荷物を纏める後輩に、少しだけイラついて伝えた。
「そんなもん居たらお前を部屋にあげるわけねぇだろうが。考えなくてもわかんだろ」
「⋯⋯それもそうですね。それじゃ、お風呂借りますね。一緒に入りますか?」
「さっさと入ってこい」
楽しそうな笑顔をしながら脱衣所へと消えていく後輩を見送り、床へと転がる。最近寝ていないという指摘は間違いではないが、正確に言えば寝られないといった方が正しいだろうか。原因ははっきりしている。夢が原因だ。
「なんだってあんなの」
夢の内容はベッドで寝ていると、黒い何かが部屋を這いずっていて、それが呪詛を吐いている事。俺はそれを何か知っているし、どうする事も出来ない事も知っている。
「思い当たる節はあるが⋯⋯」
思い当たる原因は人の家で絶賛入浴中。呑気に鼻歌なんか歌ってやがる。
「人の気も知らないで」
彼女は部活のマネージャーでアイドル。思春期真っ只中の青少年達にはきっとテレビに出ているアイドルよりも身近で、想像しやすいのだろう。人間は負の感情の方が心を支配しやすく、制御も難しい。俺への嫉妬が、直接こちらへ来ているのだろう。よくもまぁ生霊になるまでに想えるものだと感心はするが。
「嫉妬に狂うくらいなら告白でもなんでもすればいいのに⋯⋯。益体もない」
眼鏡を外すと視界はボヤける。それと同時に眠気と耳鳴りが少し。その耳鳴りの中にはボソボソと喋る声が混じっているが、まだ聞き取れやしない。慣れたもので、そんなものが聞こえようとも意識はどんどん沈んでいく。その間も声は聞こえてきていて、段々とはっきり聞き取れるようになる。あるのは呪詛の言葉。感じる感情は嫉妬と羨望。何故お前だけがというところだろうか。
ボヤける意識でそんな事を考えるが、聞こえてくるのはやはり呪詛の言葉。
──呪死てやる。
延々と繰り返される言葉。暗く淀み、黒く重い。古い言葉でそのままの意味。
(身を委ねれば、寝られるだろうか)
不意にそんな気持ちになった時、誰かに頭を叩かれた。勿論驚いて目は覚めた。毎度毎度これで寝られない状態だというのに、最悪のところへと行き着く前にこうして起こされる。ありがたいのか迷惑なのか。
溜息を吐きつつも体を起こすが、視界はボヤけているのに、玄関に立つそれだけはハッキリと見えてしまった。
『呪死てやる』
確か陽奈と同じ高校で、同じ自転車競技部。名前は、確か⋯⋯。
「大仁田、雄一⋯⋯か」
玄関のそれが反応をした。わからないと思っていたのだろう。どんな手法を用いたのかは知らないが、今目の前にいるのは生霊。嫉妬と羨望が形作った本人の影。影といえども、声でわかる。いや、ようやくわかった。
『呪死てやる』
尚も吐く呪詛の言葉。問題はこれをどうするのか。どうやったら生霊を返せるか。
じっと大仁田の生霊を見る。悪夢にうなされていたと思ったら現実だった。では、どうしてくれよう。あいにく俺にはその辺の自衛の手段がない。このまま生霊に憑かれたまま不眠の日々を送るのか。
「いや、そもそも、今日は陽奈いるんだからまずいか」
「眼鏡もかけずにぼーっとしながら何を言ってるんですか? 先輩寝不足でついに頭イカれましたか? 添い寝しましょうか?」
横からかけられた声に驚いてそっちを見ると、湯上がりでまだ髪の湿ったままの原因がいた。しかもちょっと際どい格好で。
「お前っ」
「⋯⋯先輩、誰を恨んでいるんですか?」
何を言っているのか全くわからない。確かにぼーっとしていた。恐らく独り言も言っていた。
「は⋯⋯?」
左手にカッターナイフを持ち、右手はノートびっしりに文字を書いていた。
『呪死てやる』
ただ、それだけをノートいっぱいに。
右手のペンは力強く握られ、左手のカッターナイフは更に強い力で握っていて、小刻みに震えている。
「ちょっと失礼しますね」
そう断ってから、彼女は呪詛の書かれたノートを破り、雑巾を絞るかのように捻る。そのまま机の上に置いてあったジッポーを取ると、それに火を点けた。ゆっくりと燃えていくページを眺めていると玄関にいた生霊は消えていた。
「こんな事するの先輩くらいですからね」
言いながら俺と自分の髪を一本抜いて、それを燃えているページの上へと落とした。一瞬で燃えたそれを見て言った。
「これで私と先輩は心中しました。嫉妬の炎に焼かれて」
まったくなにを言っているのかわからない。というか、表情が俺の知っている後輩ではない。鋭く燃えるページを睨みつけている表情は何処かで見たような気もする。
「髪は女の命と言います。これであの生霊の中では呪詛が完了して、先輩と私が死んだと誤認したはずです。本当は人形代が欲しかったですが、まぁいいです。さ、先輩⋯⋯清めて来てください」
「おい、まさかとは思うが」
「古来より冷水は浄めの効果があると言われています。さぁどうぞっ!」
ビシっと風呂場を指さす彼女は鬼畜だった。いや勿論俺を心配してくれているのはわかるが、冬なのに冷水を浴びたら風邪どころかインフルエンザになってしまう可能性が高い。それでもなおキリッとした表情を崩さずに指差し続ける彼女に根負けした俺は冷水を浴びるのだった。
その後大仁田がどうなったのか、俺は知らない。彼女だけが知っているが、今後その口から彼の名が出てくる事は一生ないだろう。
この頃からだろう。何かに憑かれたと思ったら冷水を浴びるようになったのは。
当然次の日俺は高熱を出して休んでいた。元気に帰らず看病してくれる彼女には感謝だ。