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明清交代  作者: 牧山鳥
序章、袁崇煥
9/21

一、毛文龍

時代を少しだけ遡ります。極力コンパクトにまとめる予定なので、しばしお付き合いください。


 毛文龍(もうぶんりゅう)、字は振南、袁崇煥の八歳年上で、上海南部浙江(せっこう)省の出身である。祖父は山西省で塩田を経営していたが、父は儒学者となって商売を畳んで故郷を離れ、杭州(こうしゅう)で一番の名家出身であった母と結婚した。しかし毛文龍が九歳の時に亡くなったため、母は浙江省で官僚を務めていた母方の叔父にあたる沈光祚(ちんこうさく)を頼った。沈光祚は非常に出来た人物で、杭州で最優の官僚として誉高く、毛文龍のことも可愛がり父に代わって儒教教育を施し、穏やかに過ごすことができた。当の本人は四書五経よりも武芸を好み、武官を目指したが折しも万暦帝治世の後期に当たり、官職を得ることが出来なかった毛文龍は父方の伯父の仕事を継ぐため、明東北の中核都市、瀋陽へと向かったのである。


 毛文龍は世話になっていた順天府勤めの沈光祚へ挨拶へ赴いた。沈光祚は長年武官を目指していた夢を叶えさせてやりたいと考え、家業のついでに遼東の李成梁の下で働いてはどうかと紹介状を書いてくれた。


 万暦三十三年、李成梁は遼東で軍生活をした後に武官の試験に合格して百人隊長、すぐに千人隊長になった。ニートから脱却できたためようやく結婚も果たし、三年後には愛陽鎮の防衛隊長に出世した。毛文龍は父と母から学んだ儒学を忠実に守り、罪を着せて処刑を行い実績を水増しするということをしなかったため、出世は十年以上ここで止まってしまった。私生活でもなかなか子どもを授からず、仕方なく四十を迎える頃に側室に文氏を迎え、ようやく長男が生まれて大層可愛がった。


 万暦四十七年、李成梁は汚職で遂に罷免された。代わって任についた熊廷弼(ゆうていひつ)は実績の無いパッとしなさそうな防衛隊長を見出すと要害の地に派遣し、毛文龍は後金のスパイを捕縛処刑してさっそく武功を挙げ、ようやく出世を果たす。熊廷弼が弾劾されると、山海関勤務となり火薬の製造管理を厳格に運用して名を挙げさらに出世した。


 天啓元年、努爾哈赤(ヌルハチ)率いる後金軍は明に叛旗を翻して瀋陽に押し寄せ、すぐ南で働いていた毛文龍の実家も襲われ親族百人以上が鏖殺された。彼の息子は母親の文氏と共にかろうじで脱出することができたが、文氏は一人息子を庇い矢を浴びていて、安全な場所まで逃げ延びたことを知ると安堵し落命した。


 毛文龍は女真族への復讐を誓った。明は遼東奪還を掲げ、作戦を熊廷弼に立案させ、主力を率いる王化貞は義勇兵を募った。毛文龍はゲリラ兵として戦う訓練を受け200名の決死隊隊長として大連近郊の島々を回復し、後金についた長官を縛首にした。そして朝鮮国境に当たる鎮江(ちんこう)城に潜伏し、密かに城主と通じて鎮江城に夜襲を敢行し、後金の武将を討ち取って僅か百人で占拠し返した。後金は掃討戦のため城内ではなく城外に広く軍を展開しており、毛文龍の背後からの一撃は完全に予想外だったのである。


 しかしこの劇的な勝利は、朝廷の勢力争いに複雑な影響を及ぼしてしまった。まず、もともと遼東を守っていた将軍は後金の大攻勢に慌てて逃亡しており、その部下が毛文龍の勝利を偽物だと報告したのである。この身勝手な報告は、熊廷弼を推したい東林党官僚と、王化貞を支持する非東林党官僚と宦官に利用され、お互いに非難合戦を繰り広げた。結局、勝敗の結果すら有耶無耶となり、毛文龍は孤立してしまった。


 第二に、王化貞が自信を深めて、熊廷弼との主導権争いにも勝利したことである。勝利の報告は遼東攻略の総責任者である熊廷弼では無く、軍を率いる王化貞にのみもたらされ、功績を一人占めしようとした。熊廷弼はこの勝利を苦々しく思いこう述べたという。


 「王化貞は先走りすぎだ。瀋陽を奪還したいなら同盟国朝鮮との国境を少数の兵士で奪還する意味は薄く、陸路から瀋陽を三方で囲んで後金の首都を脅かし共同で進軍し、兵数の多さを生かして戦う必要がある。これは寄禍の勝利である。しかも毛文龍は占拠した城の民間人を殺害したと聞く。これでは敵の士気を上げるばかりだ。」


 軍が朝廷の権力争いと絡んで分断は加速し、結局、後金軍の強さを見誤った王化貞が功を焦り立案を無視して出撃したため六万の明軍は会戦で壊滅し、山海関以北は後金の手に落ちてしまった。熊廷弼も王化貞も仲良く更迭され、後金軍は背後にいる毛文龍を排除に乗り出し、皇太極(ホンタイジ)が五千の兵を率いて鎮江に向かった。毛文龍は錦江城を放棄し朝鮮へと逃れ、後金朝鮮連合軍の追撃を振り切り、ゲリラ戦を展開するようになった。


 毛文龍は後金を逃れてきた難民をかき集めると、朝鮮と後金の間に位置する権力の空白地帯で山地と島々を占拠して現地で兵を育成し、本格的な明の海外植民軍を結成した。朝廷も名目上は彼を支援し、町の開設許可を与え、東江鎮(トンガンチン)と名付けた。この毛文龍の勢力は明の公認を得たことでますます大きくなり、付近から難民数十万人を集めて管理することで天啓四年には都督にまで出世した。科挙を通っていない人物として異例の大出世を遂げた毛文龍はこの巨大組織を維持するため、海賊行為や掠奪を行い、朝鮮を恫喝して物品を供出させ、一方で後金ー朝鮮ー明の朝貢ロンダリングに協力して莫大な財を築いたのである。


 後金の朝貢ロンダリングに貢献し、私腹を肥やすこの男は何なのか?


 袁崇煥を籠城戦術派とするなら、毛文龍は遅滞戦術派とみなすことができる。前者は籠城して定点防御の砲兵火力でねじ伏せ、後者は攻撃されたら逃げてゲリラ戦に持ち込み、敵の戦力を損耗させる。二つの戦術に優劣はなく、場所と組織に合わせて両方の良いとこ取りができれば良かったのだが、熊廷弼ー孫承宗ー袁崇煥の派閥と王化貞ー王在晉ー毛文龍という派閥が軍内に出来上がってしまっており、それに東林党、非東林党の官僚、魏忠賢率いる宦官による政治闘争が絡んでしまった。

 

 そして、こういう時のために明朝開祖朱元璋(しゅげんしょう)は皇帝独裁制の国家体制を作り、強いリーダーシップを発揮して国難に立ち向かって貰うはずだった。が、万暦帝が子孫への教育も完全に放棄していた結果、最早それも望めないのが当時の明朝である。


 毛文龍が後金への復讐を果たすためには、袁崇煥ら軍中枢には依存せずに数十万人を抱える巨大なゲリラ組織を全て独力で維持する必要があった。それが結果として後金を利する形になり、しかも袁崇煥ら皇帝を頂点とする正規軍とは別の、毛文龍を頂点にした極めて独立性の高い経済力のある民兵組織を作り上げてしまったのだ。最近の例で言えば、ロシア軍と民間傭兵組織ワグネルの関係に近いと言えるかもしれない。そして、天啓帝は民主主義が生む独裁者(プーチン)ではなかった。


 もっと言えば、毛文龍は幼少期に儒教教育を学んだ温厚な統治に優れる人物でありながら、一方で親戚を皆殺しにされた民族的憎悪と復讐に取り憑かれた残忍なゲリラ戦の達人という、どの時代から見ても()()()()()()()()()()()()()()になっていたのである。


 常に後金の背後を脅かし続ける東江鎮と毛文龍は、皮肉にも明清交代劇に大きな役割を果たしてしまう。


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