八、袁崇煥
皇太極は、明朝廷が錦州防衛長官に趙卒教ではなく尤世祿という人物を送ることを決定し、しかも現時点で仕掛ければ間に合いそうもないという情報を掴み、成功を確信した上で宣戦布告を行ったのであった。自ら八旗を率いて進軍した皇太極は、錦州防衛網の重要拠点である大凌河・小凌河要塞に攻撃を始め、現地民から成る明軍の士気は以前よりも高く必死に奮戦したが、間も無く落城し全滅した。
朝鮮に出兵して余力がないはずの後金軍の突然の宣戦布告と侵攻に、袁崇煥は全てを察し、自らが後手に回ったことを悟った。突然の攻撃に袁崇煥は朝廷人事を緊急事態として一旦見送り、撤退を禁ずる命を握りつぶした。そして、山海関に後金軍の多数来襲を伝えて援軍を要請し、必要な人事を朝廷に伝え、寧遠城の防備を強化し、毛文龍を回収した水軍に急いで帰還し再出撃するよう依頼した。
何とか進軍を抑えようと、趙卒教の部下たちは時間稼ぎのため和議の使者を度々出したが全て失敗し、後金軍は益々加速して次々と防衛網を破り、十日後には直線距離で四百里離れた錦州市を包囲し攻撃を開始した。皇太極はこの時点で完全に経略通りであり、成功を信じて疑わなかったが、既に錦州城内には趙卒教に加え、寧遠籠城を戦い抜いた左輔、朱梅ら袁崇煥の主力となる精兵が帰還していたのである。
袁崇煥の腹心だった彼らは、守備第一の教えが徹底されており、後金軍が攻撃を開始したと聞いた時点で命令を待たず拠点の錦州市まで引き返していたのだった。早過ぎる明軍撤退は大きな誤算で、後金軍は二週間に渡って激しく攻め夥しい死傷者を出させたが、火砲を効果的に用いた組織的な反撃は止まず、少なくない損害を被り攻略することはできなかった。しかも、寧遠を潜り抜けた猛将とその精鋭には、得意の調略や欺瞞工作は一切通用しなかった。
趙卒教らが錦州で死闘を繰り広げている間に朝鮮から引き返してきた水軍は補給を受けて、瀋陽と錦州の間を横切る複数の河川を抑えることができた。また、寧遠で活躍した祖大寿は四千の騎馬兵を率いて後金軍の背後に回り蓋をして緩やかな包囲を形成した。極めつけは河北一帯に総動員態勢を発令させ、満桂、孫祖寿、平雲龍、顔明大といった後金戦闘経験豊かな諸将が最前線に速やかに再配置され、更なる侵攻に備えられたことであった。
皇太極は思わぬ錦州の抗戦に策を練り直し、軍を分けて寧遠城を奇襲した。水軍は出払い、後方に軍を回し、錦州が籠城しているならば正面の寧遠は手薄だと判断しての行動だった。この戦いも大激戦となった。袁崇煥はお目付けの宦官二人も動員して寧遠城内の大砲を撃ちまくり、城外では八旗軍と満桂、祖大寿、尤世祿が合流して激突した。特に満桂の奮戦は凄まじかった。彼は袁崇煥との確執を振り払うかのように、全身に矢傷を作って尚突撃遊撃をやめず、八旗相手に士気を高く保ち続け、互角以上の戦いを繰り広げた。皇太極の本隊は巧みに紅夷砲と満桂をやり過ごしつつ、野戦に慣れない尤世祿を狙い撃ちし、甚大な被害をもたらしたのであった。
しかし、明と後金がほぼ同数の損害では、孤立して包囲を決められる危険性がある以上、寧遠城の攻略は不可能であった。皇太極は寧遠から撤退し、錦州の攻略を再度試みたが、自軍の被害が増えるばかりであった。敗北を悟った彼は、この攻撃は僅か一日で終えると、大凌河、小凌河の要塞を徹底的に破壊して速やかに引き上げていった。
皇太極の作戦は九分九厘上手くいっていた。しかし、あと一厘及ばなかったのは、たとえ上官の命令が無くても各々が自分の持ち場に注力するという単純な鉄則を現場に叩き込み、部下の小さな失敗や責任を追求せず信頼し、結果として関遠錦防衛線が敵の侵略と同時に全自動作動する機構が既に出来上がっていたからである。皇太極はこの戦いで誰にも負けてはいなかったが、袁崇煥が科挙に合格する前から構想し続けていた「システム」の前に敗れたのだった。
明はこの勝利を寧錦の戦いと名付けて、寧遠の戦いに続いて二度も勝利を納めたとして大いに宣伝した。満桂、趙卒教は勲功第一となり他数百人が表彰され、魏忠賢に賄賂を送っていた有象無象も多くが褒賞を受けた。にも関わらず、袁崇煥には表彰も褒賞もなかったのである。兵部尚書は紛れもない救国の英雄に対してこのような扱いは許されないと抗議し上訴したが受理されず、逆に魏忠賢に阿る秘密警察、錦衣衛が袁崇煥の元に現れ、趙卒教が守っていた錦州を救援しようとしなかったとして弾劾するための証拠集めを開始した。
魏忠賢は袁崇煥が朝廷に命令を握りつぶして独断的な振る舞いをしたことに苛立ち、天啓帝にこの反逆を密告したのだ。しかし意外なことに、皇帝はやむを得ない事態だったと庇ったのである。自身よりも袁崇煥の方が大事にされていると感じた彼は、寵愛を失うことを非常に恐れ、急いで排除する方向で進めようとしたのである。
袁崇煥は、孫承宗に倣った。即ち、病を得たとして故郷に帰ることを願い出たのである。朝廷はこれを認め、王之臣が遼東総督を、満桂が寧遠城主を引き継ぐ形となり、政界を去ったのであった。このあまりな仕打ちに将兵は朝廷に上訴しようとしたが、袁崇煥は別れの歌を詠み、穏やかに諭したという。
慷慨同仇日,間關百戰時。
功高明主眷,心苦後人知。
麋鹿還山便,麒麟繪閣宜。
去留都莫可,秋草正離離。
意訳:
怒りと憎しみがぶつかり合い、数え切れない戦いを繰り広げた。
功を挙げ主君の覚えも明るかったが、しかし心労は皆に知れるところとなった。
鹿が山林に帰るように、麒麟が額縁に帰るように。
私が去っても驚くこと莫かれ、秋草が大地を離れていくのと同じ、自然のことなのだ。
袁崇煥は約十年ぶりに故郷嶺南の地へ帰り、ようやく父の墓を拝礼できた。
不満がないかと言われれば嘘にはなるが、明を守る鉄壁のシステムは、トップが彼でなくても充分機能すると判断しての穏やかな引退だったのである。
漢詩の解釈は自信がないので、識者の方がいましたらご教授ください。