七、袁崇煥
天啓六年八月、努爾哈赤が亡くなった。長子相続の習慣が無かった女真族は、最も英邁だった第八子の即位を承認した。皇太極と自称した彼は、その本名すら史書には伝えられておらず、明朝側からすれば全く謎に包まれた人物だった。少なくとも遊牧民国家にありがちな後継者争いが起きなかった程度には有能であると看做した袁崇煥は、努爾哈赤哀悼の使者を派遣した。この決死の間者に、皇太極は家臣と偽ってまで対応し、何と厚くもてなした。そして彼がまず提案したことが、彼の父を敗死させたはずの宿敵、袁崇煥との和平交渉だった。武勇で名を轟かせた努爾哈赤とは対照的なその姿勢には非常に不気味なものを感じ、後金側から和平交渉の話が出たことを皆に口止めさせた。
袁崇煥は、急ぎ後金防衛戦略を天啓帝に上奏した。
一つ、用遼人守遼地。現地人を用いて山海関以北の遼地を守ること。
一つ、屯田。現地で食糧生産を行い、不用意に海上や陸上の兵站を用いないこと。
一つ、以守為攻。まずは防備を貫き、機を見て攻勢に出ること。
袁崇煥は後金軍が敗北したままで終わるはずはなく、寧ろ今まで以上に経略調略を用い、北京中枢に情報戦を仕掛ける事を警戒していた。この三策は、明の臣民の負担を軽くするという建前の裏に、中央がどのような情勢になろうとも、兵士と食料を自力で蓄え、高い独立性を維持することで山海関以北を守るという本音を隠した防衛戦略だった。献策は天啓帝に承認された。
天啓六年の冬、山海関ー寧遠ー錦州の防衛ライン、関遠錦防衛線の本格的な強化に乗り出した。仲違いした満桂に代わって、錦州に派遣していた趙卒教将軍を用い、お目付け役に魏忠賢から派遣されていた二人の宦官も連れて、着々と要塞と屯所を築き、高第が放棄した領土を少しずつ回復した。
領地経営で集めた利益は、優秀な宦官派遣の御礼にと魏忠賢に送り、朝廷には二人の宦官と彼らを送った魏忠賢の慧眼を褒め称えた。「二人が役に立たないなどと、私の人生最大の過ちでした。どうか彼らの忠勤に報いるよう褒美を贈ってください」などと白々しいお世辞まで付け加えて上奏し、あまりに見え透いたお世辞に思わず大臣達は失笑した。しかしこの効果は絶大で、四万の追加の守備兵と多数の大砲、城を再建するための防衛資材、その全ての申請が即座に承認されたのであった。国を代表する英雄で、お世辞など絶対に言わなかった袁崇煥に誉められ、魏忠賢は得意の絶頂だったのである。
天啓七年一月、明と後金は平和条約締結の協議を始めていた。遼東経略王之進は袁崇煥が後金との和議を結ばせないよう遅延工作をしていたと弾劾したが、収賄に気を良くしていた魏忠賢は逆に王之進を責め、遼東経略の任から外してしまった。さらに後任を任命しなかったため、袁崇煥は実質的な遼東防衛長官になった。この措置に官僚は不服であり、袁崇煥が以前から度々越権行為を行い、増長していると非難し始めた。こうなると魏忠賢は不安となり、天啓帝も少しずつ態度を硬化させ、自らの領分を越えるような振る舞いはやめよと追随し、度々文書で牽制した。
このような状況の中、冊封国の朝鮮から後金軍の襲来と支援要請が届いたのである。袁崇煥は「後金のような蛮族が提案する平和など欺瞞、必ず何か仕掛けてくる」と主張しており、それが的中した形となってしまった。
朝鮮は約十年前に瀋陽が陥落して明との連携が取れなくなった時、自力で国土を防衛する力は無く、一旦は努爾哈赤に服属した。後金は明と戦争状態であり、国交は断行状態であったが、軍を維持するための資金を常に必要とし、経済大国明との繋がりは必須であった。そこで努爾哈赤は朝鮮を経由し朝貢ロンダリングを行うことで、密かに明と貿易をして軍資金を確保していたのである。ところが、皇太極に代替わりした事で朝鮮王朝は強気になり、叛旗を翻して脱法行為を拒否したのである。
果たして経済的に困窮した後金だったが、皇太極は諜報機関を設立し、明朝の役人や宦官を買収していた。袁崇煥の国防三策は漏洩しており、明軍が即座に仕掛けてはこないと判断すると、後顧の憂いは無いとして平和条約の締結を待たず朝鮮へと侵攻を開始したのだ。皇太極は情報戦を制しており、この侵攻は極めてよく練られていた。
困ったのは明の朝廷である。防衛三策を天啓帝が受け入れたものの、朝鮮と、その地でゲリラ軍を率いていた毛文龍が救援要請を出してきたからである。毛文龍は努爾哈赤が西の寧遠へ出撃した際に、東から後金の都瀋陽に向かって猛進することで国境を脅かし、後金の早期撤退にも貢献した叩き上げの軍人である。また、後金の朝貢ロンダリングに協力することで収入を得ており、多額の賄賂を朝廷に贈っていたため、彼の救援を支持する人が多かったのである。
この動きに袁崇煥は書簡を送った。
「いま遼西の地は荒れ果て、住処もなく貧窮している人民が数十万おり、都市は4つしかありません。その都市の周りも四十里しか支配できておらず、地は少なく人は多いです。錦州、中左、大遼の三都市に人民を疎開させ、大規模な屯田を行うことが先決です。我が軍は総勢六万しかおらず、今の状況で敵兵二十万が来れば撤退せざるを得なくなり、これまでの努力は無に帰るでしょう。現在、後金軍は朝鮮を攻撃していますが、我々は遅滞戦術をもって対応します。防衛の原則を守り、堅固な城壁さえ築いてしまえば、支配地は四百里にも及び、明にとっても黄金の地となるでしょう。」
朝廷での議論は紛糾したが、この書簡を誉めた天啓帝の意向もあり、関寧錦防衛線の強化は続けられつつ、朝鮮を救援する方針となった。
天啓七年四月、袁崇煥は水軍を派兵し、孤立していた毛文龍を救出した。そして、趙卒教に左輔・朱梅と精兵九千を預けて進軍させ、後金首都の瀋陽を脅かそうとしたのである。
しかし、この時は皇太極が一枚上手だった。彼は朝鮮王城を包囲し、いつでも攻略できるとした上で、明朝の防衛方針を暴露して決して援軍は来ないから無駄な抵抗はやめよと恫喝していた。一方で、皇太極と後金にすぐに従うのであれば、これまで通りの待遇を約束すると飴をぶら下げた。朝鮮王朝内でも議論はされたが、もともと親後金派が多数存在しており、代替わりの内紛に期待して場当たり的に反抗を試みただけで、後金が軍事的に圧倒的し、明は救援には来ないとなると選択肢は一つしかなかった。皇太極はほとんど兵を失うことなく再び朝鮮を属国とした。
さらに皇太極は、朝鮮王国の反乱を一切不問とし、しかも表向き朝鮮は降伏をせず、戦っているフリをしようと提案したのである。朝鮮軍の面子が潰れないよう配慮した寛大な提案は、感謝を持って迎入れられた。袁崇煥が四月に瀋陽を脅かそうとした精鋭軍は、既に降伏していたため実は完全に空振りに終わっていたのである。しかも、長く後金を悩ませていた瀋陽東部に拠点を構えていた毛文龍を始めとするゲリラ兵もほとんど抵抗しないまま、明に帰還させてしまった。漢族朝鮮族満州族、その全ての習性を心得た恐るべき経略を前に、袁崇煥はまんまと攻勢に引き摺り出されたのであった。
当の皇太極率いる主力軍は、既に朝鮮から瀋陽に帰還していた。そして、明軍の侵攻を確認するとこう宣言した。
「朕は明国との和平を心から望んでいた。しかし、卑劣な手段を用いて祖父を弑殺した明が、今再び平和について話し合いをしながら侵略してきたのである。このような野蛮で卑怯な振る舞いを続ける国に天命は無く、天帝の意思に基づいて懲罰を与えるのである。」
天啓七年五月、明との和平交渉を進めて時間を稼ぎ、朝鮮を電撃的に攻略し、毛文龍を敵の力を利用して取り除き、東に攻めると誤認させて袁崇煥を攻勢に誘い出し、本命の明を攻略するーー
策謀の全容を掴んでいた者は、中華満州朝鮮広しと言えど、誰一人としていなかった。