五、袁崇煥
高第の山海関へ全軍撤退の命令は、速やかに袁崇煥まで伝えられたが、もちろん激しく反論した。十万の兵を養える鉄壁の要塞となった寧遠城、山海関の外縁の守りとして強化された屯衛、民間人が未だ多数残り明朝を頼みとする大都市錦州、そしてその防衛線。当たり前だが、その全てを放棄するのは正気ではない。しかし、都北京に居を構えて私腹を肥やすこと以外に何の興味も無かった高第は、正気ではなく、全軍撤退を敢行した。寧遠城の袁崇煥と前屯衛の長官だけは命令を無視し、居城に居座った。
突然の撤退命令は阿鼻叫喚の様相を呈した。なぜ撤退するのか分からなかった明軍は、勝手に敗走し、多くの民間人も巻き添えを食らった。死体や傷病兵は道々に打ち捨てられ、十万石の兵糧や建設資材は前線に丸々残され、後金軍は錦州益州と共にその全てを何の損害もなく手に入れることができた。一度ならずも二度見捨てられた遼東明人の怒りと失望は大きく、この地が明に戻ることは二度と無かった。精魂尽きた袁崇煥は、父の葬儀のため再度故郷に帰ることを願い出たが受理されず、流石に哀れに思われたのか按察使という高位の役職だけは与えられた。
この一大好機を逃す努爾哈赤ではない。降伏した明将から寧遠城の政治的孤立を聞きつけ、天啓六年元日、後金軍は悠々と遼河を越え、さしたる組織的抵抗もないまま寧遠城まで進軍し、十日後には包囲を敷き始めた。この当たり前の急襲に明の朝廷は大いに動揺して、新たに兵部尚書となった王永光は対応を協議したが、話は纏まらず、しかも遼東防衛の総責任者である高第は救援の兵を一切出さなかった。撤退の命令に従わなかった袁崇煥など、そのまま死ねば良いとでも思っていたのだろう。山海関を守る将軍も、これに同調した。寧遠城と共に袁崇煥も、明朝から完全に見捨てられ、絶体絶命の危機に陥ったのである。
このまま死ねば、袁崇煥は命令違反をした孫承宗の一部下として生を終えただろうが、この男はそんな小さな器では無かった。後金来襲を素早く察知した彼は、農村に使いを出して焦土作戦を敢行し、有志の住民には籠城戦の手伝いを命じた。そして、後金軍を迎え撃つにあたり、満桂将軍、左輔・朱梅副将軍、祖大寿参将といった首脳部から何可鋼ら将兵まで呼び出して軍議を開いた。
「必ず味方の救援が来る。我々は決死の覚悟で寧遠を守るのだ。」
袁崇煥はそう言い放つと小刀を取り出して自らの腕を切り、血で持って「必死則生、幸生則死」と檄文を認めた。死を覚悟すれば生き残り、生を願えば死んでしまうという血塗れの檄文は城内に流布され、後金来襲に不安に駆られていた将兵官民は区別なく死を誓い合い、覚悟を決めた。
いよいよ決戦の時を前に、砲術狂いのキリスト教徒、孫元化なる人物も駆けつけた。孫承宗に見出されていたこの火砲マニアは、厦門経由でポルトガル製の最新鋭火器、紅夷砲を防衛拠点からかき集め、思う存分力を振えそうな寧遠城に並べた。孫元化は炎髪灼眼の戦乙女にわざわざ立派な名前まで付けて可愛がり、そして活躍させたくて仕方なかった。そのために、わざわざ死地となる寧遠城に駆けつけたのである。
これには袁崇煥も大いに勇気づけられた。どういうわけか漢族特有の傲慢さやプライドが無かった彼は、ギリギリ追い詰められた状況で、変態じみたバテレン男に全幅の信頼を寄せ、紅夷砲を防衛の切り札に据えたのである。そして孫元化に巻き込まれた福建の精鋭砲兵を重要拠点に再配置した。また、彼の忠言を採用して硝石を城壁に埋め込んで隠したのだった。
仕込みを全て終えた袁崇煥は城壁の上で閲兵し、将兵らに告げた。
「屯門と山海関の将軍に、脱走兵は見つけ次第即刻死刑とするよう伝えてある!共に死ぬまで戦おう!」
既に覚悟を決めていた将兵の士気は最高潮に達した。
二十四日、十万近くの兵士を養うための兵糧を奪えなかった後金軍は、まずは最精鋭の努爾哈赤率いる二万の重装騎兵を用い短期決着を目指した。攻城戦専門部隊は戦車を城壁に激突させて城壁を崩し、別働隊は隧道を掘り進め城壁の突破を試みた。袁崇煥は攻城専門部隊は相手にせず、城外で隙を伺っていた主力の騎兵に投石機を用いて、突撃を敢行した部隊を前後に分断し、孤立させ撃滅した。
騎馬による突破は無謀と悟り、続いて井闌車、雲梯車を取り付かせようとしたが、多くは砲撃によって崩壊した。そして何とか城壁に取り付いた車も硝石によって発火、爆発炎上し、そこから発生した毒ガスは弓兵や隧道班にも襲いかかり、多大な損害を出して失敗に終わった。
意図せず最初の攻勢が全て失敗に終わった努爾哈赤は、士気を上げるため投石機や大砲の射程外ではあるが、城壁の程近い場所に移動式住居のオルドを立て、持久戦の様相を呈することで明軍の圧迫を試みた。しかし、この策は完全に裏目に出た。海すら凍りつく大寒波に見舞われていた後金軍に対して、未明に十一門の紅夷砲が一斉に火を吹き、のべつ幕無しに撃ちまくられたのである。
皇帝のオルドは倒れ、努爾哈赤も怪我を負い、兵士達は大寒波の中なす術がなくなった。地面も凍てついて隧道を掘り進めることもできなくなり、攻城の手立てを失った後金軍は攻撃開始からわずか二日で撤退にまで追い込まれたのである。
この大敗北に、六十歳を超えて未だ不敗であった努爾哈赤も流石に動揺し、「袁崇煥とは一体何者だ?」と思わず周囲に問い詰めたという。二十万を号する軍を動員してこの結果では、威信に傷がつき、せっかく纏め上げた女真族がまた分裂してしまうと考えた彼は、海岸線から5キロ程度離れた寧遠の重要穀倉地帯である覚華島に狙いを定めた。
覚華島は寧遠近郊の重要拠点の一つであり、海上にあったので強化は検討されていたものの後回しにされていた。後金軍は海すら凍てつく大寒波を利用して、何と数千の部隊を派遣して凍った海の上を渡り、油断しきっていた覚華島に襲いかかった。略奪を行い、船を破壊し、軍民区別なく一万人以上を虐殺した後、後金軍は都の遼陽まで撤退した。袁崇煥は、「兵馬糧食があれば、私一人でも山海関を守れる」という言を見事実現させたのだ。
袁崇煥は寧遠の籠城戦に勝機を見出していただろうか?全滅は覚悟していたかもしれないが、戦略眼のある彼なら、全軍撤退の命令を下された時には、金軍が即座に押し寄せてくる事態を想定できただろう。むしろ、自分の権限が及ばない山海関では守りきれないと判断したからこそ、寧遠城での籠城を選択した節がある。
寡兵の後金軍が多勢の明軍を幾度となく蹂躙できたのは、彼らが満州八旗という極めて強力な重装騎兵を自在に操り、最終的に一大会戦に誘い込んで鮮やかな勝利を決め、その後は調略で城兵を怯えさせ無血開城させていたからであった。そして、このカラクリを軍事研究家だった袁崇煥は見抜いており、会戦をしない事と調略に応じない事が勝利の必要条件と考えていたのだろう。遊牧民から成る後金軍が籠城戦の経験が浅いことも戦史から知っていた。
よって、電撃的侵攻に対して迷う事なく籠城戦を決戦の舞台に選び、民間人を収容して調略を封じ、我慢比べに勝てるように兵士の士気を限りなく高め、その上で敵が知る由も無い新兵器を導入したのである。一方で、努爾哈赤はあまりに自軍にとって余りにも有利かつ都合の良い状況に、つい油断をしてしまった。それが明暗を分けたのだ。
女真族統一の英雄、努爾哈赤はこの戦いの傷が元で八ヶ月後に亡くなった。
寧遠城の戦いは、彼の唯一にして、致命的な敗北となったのである。
寧遠の戦いは諸説あります。