表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明清交代  作者: 牧山鳥
序章、袁崇煥
4/21

四、袁崇煥

挿絵(By みてみん)


天啓四年、天啓帝は趣味の木工に没頭して宮廷に籠り、その動静すらよく分からなくなってしまった。背景には乳母の客氏(きゃくし)の暗躍があったとは思われるが、彼の弟はもう少し責任感があったのだから、元々の性質であったかも知れない。魏忠賢は皇帝に仕える最側近として宮中宦官の元締めとなり、官僚内閣が奏上する書類の書記長も兼ねた。皇帝独裁の明朝宮廷という閉塞空間で権力権勢を()した彼は、東林党の官僚を次々と冤罪にかけて処刑し始めた。この政変が天啓帝の意思だったのか、魏忠賢の暴走だったのか、他の要因があるのかは歴史の闇に包まれている。兎も角、空いたポストは魏忠賢に阿り賄賂を納める役人で埋まるようになり、北京に近い地域ほど腐敗は加速し、政争は激化していった。


 政権中枢は混乱の渦中にあったが、後金との最前線である寧遠(ねいえん)城には直ちに影響はなかった。袁崇煥(えんすうかん)は同じく孫承宗(そんしょうそう)に抜擢されていた馬世龍(ばせいりゅう)王政錦(おうせいきん)ら、一万二千の兵を引き連れ、今や後金軍の遼東支配における重要拠点となった中核都市の瀋陽(しんよう)周辺まで一気に進軍した。日本の東北で言えば仙台、九州で言えば博多と言えるこの重要都市への突然の侵攻に、後金軍は大いに慌てて対応しようとした。しかし、後金が軍を結集した頃には、明軍は大寧江(たいねいこう)から海路で寧遠城へと帰還してしまったのである。


 努爾哈赤(ヌルハチ)の七大恨から一貫して守勢に回り、連戦連敗して領土を失い続けた明軍だったが、この大胆不適な反転攻勢によって後金の面目は丸潰れとなった。領土を奪還したわけではなかったが、袁崇煥はこの勝利を喧伝して明軍の士気は多いに上がり、満州八旗(まんしゅうはっき)は絶対に勝てない相手ではないと鼓舞したのである。孫承宗は袁崇煥の勇気を大いに評価し、彼を辺境の防衛軍隊長から、中央の軍備副総監、文官としては右参議まで出世させ、更なる地位と権限を与えたのである。わずか二年での異例の大出世であった。


 天啓五年、袁崇煥の策に従って、兵部尚書孫承宗は大規模な反転攻勢を命じた。昨年の小規模な反転攻勢によって、袁崇煥が唱えた寧遠城強化プランは侵攻も撤退も容易であるということを実証できたためであった。二年間鍛え上げられた守備軍による一大攻勢は大成功に終わり、義州どころか錦州とその防衛線を完全に奪還し、更に北に二百里(百キロ)にわたって押し込み、瀋陽のすぐ西を流れる遼河(りょうが)まで東進、奪還した。粗方の有力な将兵を葬ったはずの明軍の大規模攻勢に最も警戒したのは五十戦して未だ敗北を知らない努爾哈赤(ヌルハチ)であった。彼は後金の首都を瀋陽に移して全軍に攻勢準備を指示し、両軍は遼河を挟んで激しく睨み合ったのである。


 ところが、これほどの軍事的大成功を心良く思わない人物がいた。司礼官にして秉笔太監(じょもうたいかん)、宦官魏忠賢である。彼は国政改革を唱える東林党の首魁だった六大臣を全て葬り、遼東防衛に尽くした熊廷弼(ゆうていひつ)を処刑し、とうとうその毒牙を天啓帝の教師でもあり、国防の全てを担う孫承宗にまでかけようとしたのである。彼は手下の文官を山海関に送り込むと遼河の小競り合いに敗れた馬世龍を弾劾した。この戦いでの死者は四百人で、軍需物資まで奪われたのだが、敵地深くまで侵攻した反転攻勢の規模を考えれば仕方のない損耗ではあったのだ。しかし魏忠賢は孫承宗を排除すると決めていた。つまり、理由は何でも良かったのである。孫承宗の馬世龍任命責任は内閣で激しく糾弾された。


 孫承宗はこの一件を受けて、病気療養の為と言って自ら辞任した。天啓帝と接触できた良識ある唯一の人物であり、強面な容貌とは裏腹に極めて老獪でもあった彼は、暗愚な天啓帝を意のままに操る魏忠賢相手に勝ち目は無いと悟っていたのだろう。むしろ、孫承宗は最初からこのような結果になるのが分かった上で、それでも最善を尽くしていたのかも知れない。かくして、袁崇煥は最高の上司と理解者を失ってしまった。


 孫承宗に代わって遼東経略に任じられたのは高第(こうだい)という小役人である。高第は汚職が蔓延する万暦治世下に順調に出世を果たし、天啓元年に内閣参議にまでなったが、能力が足りず東林党の改革によってすぐに罷免され出世街道から外れてしまった。しかし、万暦帝治世下でたっぷり私腹を肥やしていたのか、魏忠賢に大量の賄賂を送り、晴れて今回知事に任命されたのである。明末を代表する実に大したことのない役人であった。


 高第は軍事的戦略をまるで理解しておらず、彼は赴任すると直ぐに山海関防衛に集中するとして、全軍撤退を命じた。夷狄の地となった山海関以北に、彼は何の文化的価値も見出せず切り捨てたのである。孫承宗と袁崇煥が三年かけて入念に練り上げ、その努力がようやく結実しようとしたその瞬間に、全てが水泡に帰したのであった。


煽り文を格好よくしました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ