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明清交代  作者: 牧山鳥
序章、袁崇煥
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三、袁崇煥

挿絵(By みてみん)


 兵部尚書(へいぶしょうしょ)、即ち防衛大臣として明軍の頂点に君臨する孫承宗(そんしょうそう)は、袁崇煥(えんすうかん)にとって話が分かる上に頼りになる上司であった。若い頃は鉄面剣眉(てつめんけんび)で髭は戟の如しという強面な風貌だったが、科挙は榜眼(第二位)で通過し非常に賢かった。一方で、賢人に有りがちな机上の人という訳でもなく、国境の町に赴任した経歴もある彼は国防に熟知し、かつ実地調査の重要性を認識していた。既に還暦を迎えようかというこのガッツ溢れる老人は天啓帝の教師として抜擢され、既に高位高官でありながら、わざわざ都を離れて最前線にまで視察に来たのである。当時、いや現代の政治家でもあり得ないフットワークの軽さであった。


 努爾哈赤(ヌルハチ)率いる後金軍は明軍本隊を破って遼東の大部分を押さえていたが、遼東東部の義州(ぎしゅう)の険峻な山々を頼んで避難してきた難民を集め、ゲリラ戦を展開した民兵部隊が残存していた。この部隊は精強無比な後金軍を奇襲で度々撃破し武功を挙げたが、後金軍が包囲戦に戦略を切り替えると徐々に苦しくなり追い詰められ、明軍に救援要請を出さざるを得なくなった。

 

 孫承宗(そんしょうそう)が前線視察中にこの要請がなされ、対応を協議するため軍議を開いた。


 袁崇煥(えんすうかん)は「直ちに救援に向かい、五千の兵で寧遠城(ねいえんじょう)を強化しつつ、他の城からも義勇兵を募って義州の民兵を支援しましょう。義州は隣に大量の人口を抱える錦州(きんしゅう)があります。義州が危うくなれば寧遠城まで撤退すれば良いし、上手くいけば錦州を奪還できます。どうして山に籠る十万もの民間人を見捨てられましょう!」と語気も荒く言い放った。


 若く血気盛んな袁崇煥(えんすうかん)の言を聞いた後、孫承宗は兵部尚書(へいぶしょうしょ)の前任でもある王象乾(おうしょうかん)という古希(70歳)を過ぎて喜寿(77歳)を迎えようかという翁を召し出し意見を聞いた。


 王象乾は「関州からやる気のある兵士を三千人なら出せるでしょうな。明軍は士気が低く、五千人というのは無理かと思います」と答えた。老齢かつ大臣として実績のあった王象乾ですら、明軍の弱さを自認しつつも義州の救援が不可能であるとは言わなかったのである。


 これをもって、孫承宗(そんしょうそう)は救援可能と判断し遼東総兵王在晉(おうざいしん)にこの軍議に結果を伝えたのだが、しかし持ち場の山海関を守ることに固執した王在晉は救援を出さなかった。王在晉はきちんと持ち場を守る優秀な文官ではあったのだが、戦争を勝利に導く戦略眼のある武官では無かったのである。遂にゲリラ軍は壊滅し、何とか脱出できた民間人は六千人のみで、錦州奪還の橋頭堡となりそうな義州十三山まで完全に失ってしまった。


 孫承宗は王在晉(おうざいしん)が動かなかった判断に疑問を持ち、直接王在晉を召し出し、山海関の防衛方法について武官達に議論させた。王在晉は山海関に程近い場所に軍事拠点を追加して守りを固める方針だったが、袁崇煥は近過ぎて戦略的に無意味であり、要衝となりそうな寧遠を強化すべきだと反論した。孫承宗も袁崇煥と同じ意見ではあり、まずは山海関付近の軍事拠点追加案を撤廃した。そして、慎重な孫承宗は再度軍議を開いてどこの拠点を強化するか守将達に検討させた。議論は紛糾したが、結局孫承宗は拡張性に優れ、海に面して補給も容易で守るも易く、且つ地理的に反撃が容易な袁崇煥の寧遠城(ねいえんじょう)強化案を採用した。


 孫承宗は都に帰ると、彼自身を遼東総兵(りょうとうそうへい)として防衛に当たらせるよう天啓帝に上奏した。王在晉(おうざいしん)は大いに不服ではあったが、彼も山海関防衛の重要性は認識しており、配置換えに了承した。孫承宗は兵部尚書にして遼東総兵、明国の興廃を天啓帝に代わって握ったのである。彼は、すっかり甘やかされた天啓帝を教育しても後金の勃興には間に合わず、他の官僚を育てて次代のリーダーを育てようにも、最早その余力が政府に無いことを誰よりも痛感していたのだろう。官僚組織と軍が抱える問題点を列挙した彼は、袁崇煥を筆頭として大胆な人事異動を行い、国境の軍政改革に尽力した。


 天啓三年、袁崇煥は実働部隊として内政に励み、寧遠城の防備を軍民一体となって強化し、最終的に四十五の防衛拠点を築いて十万もの練兵を行い、合わせて農地を開墾した。束の間の平和が訪れ、寧遠の商業は繁栄し、孫承宗が防衛網の巡察した際は、警備兵すら歓迎の宴に参加して国境の心配をしなかったという。この年に袁崇煥は父を亡くし、喪に服すため故郷に帰ろうとしたが許されず、寧遠城に留まった。万全の防衛体制には後金軍も全く手が出せず、モンゴル族の察哈爾部(チャハル)を攻撃するぐらいしかできなかったのである。


 しかし、明朝最大の敵である内憂が、すぐ目の前に迫っていた。


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