ニ、ヌルハチ
万暦二十年、豊臣秀吉が朝鮮侵攻を開始した。朝鮮はヌルハチの援軍を断ったため、明軍が大規模に出動し、遼東に軍事的空白が生まれた。海西女真は劣勢だったヌルハチを侮り、領土の譲渡を要求したが、一蹴されていたために隙をついて侵攻を開始した。イェヘ、ハダ、ホイファ、ウラの海西女真連合軍をヌルハチは待ち伏せして攻撃した。ヌルハチの馬が怯えたため落馬し、あわや討ち取られそうになったが、弓の名手だった彼は転んだ態勢で矢を放ち、それがそのまま敵大将の馬を射ぬいた。慌てて敵大将が逃げると総崩れとなり、果敢に追撃して勝利を収めた。
この敗北に権威が大きく傷つけられた海西女真軍は九部族三万の軍を大動員して再び攻め込んだ。ヌルハチは丸太などで巧みに防衛線を張り、じっくり待ち構えた。部下が自軍の三倍で敵が来たことに怯えて報告したが、「まだ慌てるな」と言って初日はたっぷり睡眠を取った。妻は遂にヌルハチがおかしくなってしまったと絶望したが、ヌルハチは九部族が全く連携できておらず、各個撃破できると判断してのことだった。二日目にエイイドゥ率いる精鋭軍を敵の前衛にぶつけて足止めし、軍の動きを止めた。海西軍は侵攻が思うように進まず焦り、三日目にヌルハチがわずか数百騎を引き連れて挑発をすると、敵の部族長ブザイは怒って攻撃をしかけたが、敢えなく馬が丸太につまづいて討ち取られ、これを機に総崩れとなった。
ヌルハチは潰走する海西軍を散々に破った。残存勢力も全て討ち果たし、海西女真族を屈服させることに成功し、この功をもって明からは左都督の役職をもらった。万暦二十一年、彼は決起から十年でマンジュ周辺部族まで統一してしまったのである。そして未だ強大な勢力を誇るイェヘとその同盟国であるハダ、ホイファ、ウラの攻略に乗り出した。
海西女真のハダはワンタイの死後迷走しており、息子同士の権力抗争に明け暮れていた。ようやく内乱が収束した頃にはすっかり弱体化しており、イェヘに臣従する立場となり、いよいよイェヘが攻撃して併合に乗り出すと、やむを得ずヌルハチに救援を求めた。しかし一方で、イェヘと血縁関係を再度結んで蝙蝠外交を行う計画がヌルハチの耳に入り、ハダ遠征の軍を出した。ヌルハチの弟ジュルガチは敵軍が多いのに躊躇い積極的に攻撃せず、業を煮やしたヌルハチは弟を厳しく叱責すると攻撃を開始し、ハダの城を次々と陥落させ併合した。ハダの族長は最初こそ丁重に扱われていたが、姦通罪を口実に消された。明は南関という峠を失い、海西女真とのやり取りには必ずヌルハチを通す必要が生まれ、ヌルハチの危険性を声高に叫ぶ者が現れ始めた。
ホイファはワンギヌが創始した国だが、彼の長男が早くに亡くなり、ワンギヌも死んでしまうと、孫のバインダリが権力を握った。彼は父の兄弟7人を殺し、その一族がイェヘに逃れて敵対したためマンジュのヌルハチを頼った。しかし、本心ではマンジュも警戒していたらしく、イェヘがマンジュとの同盟解消及び人質引き渡しを求めるとこれに応じた。ところがイェヘは同盟解消に応じたとの返事をもらうと、バインダリを侮り人質返還を拒否したのだった。バインダリは仕方なくまたヌルハチに頼ったが、蝙蝠外交の経緯が洩れると逆に宣戦布告された。ワンギヌが築いた堅固な居城も昼夜問わずの大攻勢で陥落し、バインダリは討死、ホイファも併合された。
ウラは松花江上流のウラ川に由来を遡り、8代続いていた女真族の名門だった。ウラ部族長のマンタイは海西女真族が三万の大軍でマンジュを攻撃した戦いに参加して大敗し、支持を失って住民に殺された。その弟であるブジャンタイはヌルハチの捕虜となって三年間建州で過ごした後に、ヌルハチの支援を受けてウラの部族長として返り咲いた。ヌルハチは勇猛果敢なブジャンタイを気に入っていたが、彼は名家のプライドを忘れずマンジュ、イェヘ、ウラの鼎立を画策し、マンジュともイェヘとも独立した勢力の確立を目指したのだった。彼は西のモンゴル及びイェヘの一部と手を結んでハンを自称し、ヌルハチの親族を辱めてマンジュとの対決姿勢を鮮明にして緊張は最高潮に達した。万暦三十五年、ヌルハチは弟ジュルガチと長男、次男に命じて三千の兵を与えて討伐を命じ、ウラは一万の兵を動員して待ち構えた。ブジャンタイは山の上に陣取りマンジュ軍の様子を伺っていたが、折しも大雪が降り山上に布陣していた軍の一部が寒さのあまり離反し混乱した。その隙をついて長男次男率いるマンジュ軍は攻撃を仕掛け、大激戦となったが、包囲が決まってウラ軍は壊滅した。この戦いでもジュルガチは大雪に混乱するばかりで何もできず、ヌルハチは同母弟を見限る決心をした。この戦いの後に更迭されたジュルガチは、故郷から出ることを許されず鬱々として過ごし、出奔しようとした所を発見されて捕らえられ、四年後に獄死するのである。
ヌルハチはウラを大木に例え、一度の戦いで壊滅させることは難しく、繰り返し攻撃する必要性を説いた。ウラに従っていた町や部族はヌルハチ軍の攻撃にあって悉く収奪され、首都まで陥落しかけると流石のブジャンタイも一度は降伏した。しかし、不撓不屈のこの男は六年後に再び反旗を翻し、ヌルハチの姪でもあった妻を投獄し、イェヘ部族長の娘との婚姻を画策すると、遂にヌルハチも彼を倒す決心をした。万暦四十一年、ヌルハチは三万の軍を率いてウラへの侵攻を開始し、主要三都市を鮮やかに制圧すると、ブジャンタイも三万の兵を率いて決戦に挑んだが完敗して首都が陥落し、ウラは滅んだのだった。
イェヘは明の朝貢国の一つである。西はモンゴル、南はハダと明、北はウラに接していた交通の要衝であり、ブジャンタイは単身イェヘに逃げ込んだのだった。同盟国を全て失ったイェヘだったが、明との同盟を頼みにして、ヌルハチのブジャンタイ返還の勧告を三度断った。ヌルハチはイェヘに四万の軍を率いて攻撃を仕掛け、瞬く間に各都市を席巻したが、イェヘは明に救援を求め、ヌルハチの明懐柔工作も失敗に終わった。ヌルハチは軍を引き揚げて仕方なくモンゴルに向かったが、これは明とイェヘに対する欺瞞工作であった。彼は西から回り込んでイェヘの電撃的侵攻を開始したのである。明に中華を追い出され、当時は北元を名乗っていたモンゴルも、ヌルハチには敵わないと見て敵対ではなく臣従を選んでおり、数年前に降伏していたのだった。ヌルハチ軍は無傷でモンゴルを通過し、首都は五層の城郭と二つの城で頑強に守られていたが、力技で突破するとイェヘ首長は焼身自殺を図り、失敗して結局絞首刑に処されたのだった。首長の親族の身柄は全て建州に移され、海西女真族の国家は滅んだのである。
建州、海西を統一したヌルハチは圧倒的戦力で野人女真も滅ぼし、女真族統一を成し遂げた。ヌルハチは彼の後継者として奢り、重臣を軽んじた長男を処刑した翌年、万暦四十四年、金の復活を宣言して自らをハンと名乗り、首都をヘトゥアラに定めた。
土地も部族もバラバラだった女真族は八つの部族に再編成され、それぞれ異なる旗印を掲げていたことから八旗を名乗らせた。八旗の指揮がヌルハチに一元化されたため、後金では強力な中央集権体制が確立された。また、女真族は固有の文字を持たず、チンギスハンが定めたモンゴル文字と漢字の二つで満州語を表現していた。ヌルハチはモンゴル文字を改良してより扱いやすい満州文字を定め、漢字の文章を大量に翻訳させた。彼は徹底的に漢族を研究すると同時にその統治機構を固めることができた。また、長男を処刑したことで有力な後継者が不在となり、八旗の代表である貝勒が合議によって後継者を決定する制度を定めた。この制度によって、有能な皇帝が次々と誕生し、中華は空前の繁栄を迎えることになる。
万暦四十七年、ヌルハチは明に宣戦布告する。祖父と父の死から三十六年。57歳になった彼は、まだ体が動くうちに復讐を果たすべく動き出したのだった。




