二、袁崇煥
万暦四十八年、我欲に注力し無為無策を貫いた神宗万暦帝は明朝最長の治世を実現して崩御し、六年の歳月と銀八百万両を注ぎ込んだ定陵に篤く葬られた。次いで即位した光宗泰昌帝は熊廷弼を用いて遼東防衛に成功したが、光宗は怪しい丸薬を飲まされて僅か一月で変死し、政争に巻き込まれる形で熊廷弼も更迭されてしまった。
万暦帝は自分の後継者を選ぶ際に三男である最愛の鄭貴妃の子を選ぼうとした。しかし、開祖朱元璋すら守った長子相続という原則を曲げる判断は大臣の強い反対に合い、結局長男である王恭妃の子である朱常洛、後の泰昌帝を選ばされた。我欲の強い万暦帝は家臣に諌められたのが余程業腹だったのか、王恭妃も朱常洛も嫌い、その孫の朱由校も敵視した。天啓帝は教育どころか身の回りの世話さえ満足になされず、仕方なく父の朱常洛は乳母と宦官に朱由校の身の回りの世話と教育をさせた。
この乳母の一人が後に悪名を轟かせる乳母の客氏である。客氏はひたすらに朱由校を甘やかし、家臣が見かねて彼女を引き剥がすと、朱由校は1日食事すら取らず、客氏を求めて泣き続けたという。流石の万暦帝も恐らく文字すら満足に読めなかった皇太孫に不安を覚えたのか、「ちゃんと学校に入れるように」と遺言を残したため、皇帝教育を受けるはずだったが、父泰昌帝が僅か一ヶ月で暗殺されたため、図らずも暗愚の帝王学だけを授かって朱由校は皇帝に即位してしまい、十四歳にして天啓帝となったのである。天啓帝は他の皇子と共に勉強をしようにも、明朝開祖洪武帝朱元璋のことすら知らない状態で、致命的なまでに落ちこぼれて木工工作に耽るようになってしまった。
さて、天啓帝が何も知らないのを良いことに父泰昌帝の側室李康妃が泰昌帝の崩御のどさくさに紛れて天啓帝と同じ宮殿に住み、皇太后として政治の主導権を握ろうとした。既に東林党と呼ばれる国政改革集団の役人は万暦帝時代の清算を始めようと試みており、野心あふれる意地悪な継母李康妃を追い出した。ここまでは良かったのだが、あろう事か魏忠賢を皇帝の取次役に任命した。宦官魏忠賢、阿諛と政敵排除に特化したゴロツキ男が、皇帝を意のままに操る客氏とタッグを組み、明の最高権力者にならんと暗躍を始めたのである。
天啓元年、上記のような混乱のなか、明朝は遼東の中心地たる瀋陽を失い、いよいよ防衛線が危機に晒された。先の戦いで遼東防衛に実績のあった熊廷弼を用いて瀋陽奪還を試みたが、指揮権が統一されなかったため立案が全く機能せず、独走して突っ込んだ六万の明軍は僅か一度の会戦で壊滅した。この戦いで明は遼東をほぼ失い、山海関まで撤退した。真っ先に努爾哈赤の危険性に気付いた熊廷弼はこの失態で逮捕され更迭されてしまった。
天啓二年、有力な将を粗方失った明朝は、朝廷内部で山海関が守れるか否か、延々と議論していた。その時、山海関を直接視察した袁崇煥という男から、「兵馬糧食さえあれば、私一人で十分だ」と自信たっぷりな報告が届いた。前線を直接視察する勇気と自信満々な態度を買われ、彼はそのまま山海関を守る副官に任命された。実績の全く無い軍事オタクが、首都北京の最終防衛線、その最重要拠点の副官にまで出世してしまった。
熊廷弼に代わって遼東総兵についた王在晉という人物は、明代官僚らしく縦割り事勿れ主義で、平時には強いが有事には疎い人物であった。既に万里の長城以北は北狄の手に落ち関は難民で溢れていたのだが、処理に当たる袁崇煥が有能であると認めると昇進させ続け、最終的に山海関の郊外を守る最前線の二城たる寧遠衛、前屯衛の防衛責任者に任命した。しかし、袁崇煥がこの二城では防衛上不十分である指摘し、さらに外縁に城を築くことを提案しても、王在晉は了承せず、山海関に程近い場所に防御陣地を築けば十分だろうと返答し、両者は平行線を辿った。袁崇煥は友人に相談して国防大臣に当たる兵部尚書孫承宗まで取り継いでもらい、わざわざ巡察させたのである。