十三、袁崇煥
崇禎三年、袁崇煥は獄に繋がれていた。崇禎帝が以前指摘したように、薊州の防御の不備は彼の責任ではなかった。後金軍とも直接戦い、矢を受けるほど肉薄されたが、何とか凌いで勝利を収め、補給を潰してこれからというところだった。自身の軍が撤退し、やはりお前は裏切り者かと警吏に殴られると嘆息し、半月後に貴様のせいで万桂が死んだと聞かされる慟哭した。彼が育てた将も兵も、全部失われてしまった。
祖大寿は助命され、孫承宗が何とか軍を纏めて後金軍を撃退したことを聞いても、彼の気分は全く晴れなかった。自分以外の誰が、後金の脅威から明の平和を守れるだろうか?
彼は半年間、裁判にかけられた。何人かの大臣は、結局後金相手にまともに戦えたのは袁崇煥とその軍だけで、助命すべきだと嘆願した。しかし、北京城内の市民は裏切り者を非常に憎んでおり、多くの大臣はそれに同調した。崇禎帝も彼を全く信用しなかった。彼が愛情を唯一信頼できた兄、天啓帝を愚弄するような行動と、壟断した魏忠賢に賄賂を贈り、民衆を恐怖に陥れた人物を許す気は全くなかったのである。
彼に告げられた罪名は、「通虜謀叛」「擅主和議」「專戮大帥」であった。第一に敵と通じて謀叛を企み、第二に勝手に和平を結び、第三に職権乱用して多数殺害に追いやった罪である。どれ一つとして彼には当てはまらないのだが、北京城近くに敵が迫り、恐怖した人々は誰でも良いから捌け口を求めていた。判決は凌遅刑だった。
凌遅刑とは小刀でできる限り薄く肉を削いで徐々に殺す明代に開発された酷刑で、他の酷刑、火炙りや釜茹でといった手法が姿を消したほど残虐だった。そして、歴史上の名声を最も重んじる儒教社会で、完全な冤罪で汚名を背負わされる子孫を思うと、刑罰の痛みは一層酷いものだっただろう。肉体的、精神的、社会的、宗教的に、徹底的に袁崇煥は苦しんで、苦しんで、苦しんで死んでいった。
辞世の句は史書に残されている。
一生事業総成空
半世功名在夢中
死後不愁無將勇
忠魂依舊守遼東
意訳: 一生をかけた仕事は全て無駄に終わり、得た名声は夢の中に消えた。将兵が勇気の無さを心配しなくて良いように、死後も魂は依然として遼東を守ろう。
彼の遺体は市場に捨てられて、北京市民は怒り狂い彼の肉片を食べたという。
さて、袁崇煥の子孫はどうなったか。彼らは連座での処刑ではなく流刑となった。明には居場所はなく、彷徨った末に袁文弼という彼の子孫が清に加わって漢族八旗となった。そして武功を挙げると吉林省を代々守る武官となり、やがて清で袁崇煥の裁判も再審されて名誉が回復され、明にも清にも偉大な将軍だったと記録された。彼の子孫の系譜は驚くべきことに満州事変で有名な張作霖まで記録が続いているのである。
袁家は蛋民出身だった。漢族に差別される壮族、壮族に差別される蛋民、袁家は社会ヒエラルキーの最下層で、出自をロンダリングしなければ明に仕えることすらできなかった。しかし、清は征服王朝であり、多民族を前提とした国家だった。勿論満州族優位が前提ではあるのだが、漢族による少数民族蔑視は原則として禁止され、史書には残らない部分で彼らの扱いも改善したのかもしれない。
蛋民でも壮族でも、ましてや漢族でもなかった袁崇煥の一族は、彼の不朽の名声により、ようやく居場所ができたのだった。
ーーー明清交代 第一章 袁崇煥編 完結ーーー
ここまで読んでくださりありがとうございました。しょうもない拘りで短いです。
次はホンタイジを書く予定ですが、兄弟が多くプロットも複雑なので間隔が空きます(明vs順vs清)
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また一気に書いてるので誤字脱字(特に地名)も教えて頂けると幸いです。
では、また中国史の時間までごきげんよう。