二、孫承宗
孫承宗は袁崇煥逮捕を知ってすぐに最後の戦場が山海関になると考え、その守備に全力を注いだ。後金側はともかく、明側からの攻撃は殆ど想定されておらず、200年前に建造されて放置されていた。また、西から難民が数万単位で押し寄せ混乱し、治安が悪化する可能性もあった。彼はスパイの警戒と円滑な管理のため十家牌法という十人組制度で互いを監視させ、防衛施設や城壁の復旧を難民の手も借りて不眠不休で行わせ、働きが優れたものには褒賞を出し、希望するものは兵士に取り立て、両方の問題を一挙に解決して侵攻に備えていたのだった。
皇太極が山海関と北京の連絡路を攻撃している間、北京城もただ眺めていた訳ではなかった。馬世龍は逃げ道となる遵化城の攻略を狙い、後金軍を蹴散らして進軍したが、やはり城の守りは固く撤退する際に追撃を受け被害を出し、更迭された。続く劉之綸も攻略しようと兵を出したが、向かう途中で包囲され一万の兵と共に全滅し、もはや手の打ちようが無くなっていたのである。
皇太極は山海関を偵察させると今までの明軍とは雰囲気が異なっており、モンゴル兵を使って少し攻めさせてみたが瞬く間に撃破され、全く突破できそうに無かった。山海関が容易に落ちるなら北京城攻略も可能だが、落ちないのであれば両方とも不可である。そうなれば、できる限り資金を回収して、無事に瀋陽に帰るのが合理的である。そして、皇太極は極めて合理的だった。彼は可能な限り略奪を行い、明の国力を破壊する方針に切り替えた。
後金軍は撫寧城に目をつけ攻略に乗り出した。山海関から軍を派遣しようとしていたが入城を拒否されたため、付近に布陣した。孫承宗は朱梅らを乞食坊主の変装させて敵陣を探らせ、正確な敵の位置と数を割り出すと、攻撃位置を予測して砲を配備した。果たして後金軍がそこから現れたため、砲撃を行い、簡単に撤退したのだった。これに安堵した撫寧城城主はお詫びと御礼に火薬を山海関に贈ると、孫承宗は「後金撃退の手柄は撫寧城城主だ。」と褒め称えた。
真面目に後金軍が山海関に攻めてこないのを見ると、孫承宗は周辺の静観を決めている都市への調略を開始した。折しも後金軍が山海関近くの撫寧城攻略に失敗しており、明軍勝利を喧伝し、後金軍に靡けば死罪は免れないとしたのである。一方で、後金側も調略を開始したが、城の攻略に失敗したため一歩出遅れており、既に降伏をしようとしていた官吏や内通者らが孫承宗によって処断された後だった。
得意の調略がほとんど不発に終わり、もはや潮時と悟った皇太極は、一部の軍を永平城や遵化城に残して撤退を開始した。孫承宗は後金が唯一金によって調略を成功させていた建昌城を説得によって奪い返すと、もはや大安口から撤退するしかなくなり、急いで引き返し始めた。
馬世龍を始めとして朝廷は大安口を奪還し後金軍を閉じ込め殲滅しようと息巻いていた。孫承宗は諭した。
「諸君らは三度攻めて三度遵化城を落とせなかった。勇気は評価するが、敵の守りが硬いことも認めるべきだ。そもそも孫子の兵法にもあるように、敵の退路を塞いではならない。」
こうして孫承宗は殆ど戦わず、皇太極も大人しく瀋陽へと撤退していった。皇太極は略奪が成功した時点で勝利であり、北京城攻略はあわよくば… ぐらいのすごく迷惑な観光客だった。ただ、明軍が想像より遥かに弱かったため、部下の制御を考え暴れまわらせた結果、明は大損害を被ったのである。袁崇煥の更迭は皇太極にとって嬉しい誤算だった。孫承宗としては、後金が撤退さえすれば勝ちなのだから、守りを固めて調略を徹底し、兵の反乱が起きないよう心を砕けば良かったのである。名将同士、共に戦わずして互いに戦略目標を達成して勝利を収めた。
さて、阿巴泰らは撤退に納得がいかず、欲を掻いて永平城に居座り略奪をしようとした。孫承宗は食糧も資金も不足していたためゲリラ戦を展開し、付近の丘や森で少数に隠れた兵と、祖大寿率いる騎兵で翻弄して散々に破った。一方で、馬世龍はこの隊の撤退を邪魔しようとして大安口を攻撃したが、逆に挟み撃ちに合ってほぼ全滅してしまった。
こうして、明朝は総勢30万の軍を動員して何とか後金軍を撤退させた。崇禎帝は八千人近くを表彰したが、その中に袁崇煥はいなかった。
孫承宗は褒美を固く拒み、遂に受け取らなかった。
その後も彼は山海関以北を守る任についた。しかし、未払いの給料は銀百万両を超え、請求したはものの有耶無耶となり、その後も補給が滞るようになると錦州を守りきれず、遂に罷免された。何度か復帰の要請はあったが、高齢を理由に全て断った。万暦帝、天啓帝、崇禎帝に振り回され、常に失敗と処刑に怯える日々に戻ることはなかったのである。
75歳、居城が清軍に包囲され、降伏を勧告された。彼は断固として拒否して戦ったが、城壁は低く守りきれず、子も孫も全員悲壮な戦死を遂げた。一人残され、捕らえられた孫承宗は、隙を見て走り出すと城壁から身を投げて絶命した。
暗愚な皇帝の暴風を前に柳の如く従い躱し続けた孫承宗だったが、明朝への忠誠は誰よりも深く根を張っていた。故に、明という大地と共に滅びたのだった。