一、孫承宗
孫承宗、字は稚繩、彼は万暦帝の祖父、嘉靖帝末期に生まれた。実家は朝廷に使える地方役人の一族で、彼に家庭教師をつけてあげるぐらいには豊かだった。幼少から青年期は、仕事を頑張りすぎて過労死した明君隆慶帝と、彼を引き継いだ張居正による明の中興時代と重なり、万暦帝以前の政務の雰囲気を知る数少ない人物でもあった。
鉄面剣眉、須髭戟如と称された強面だったが、30歳で郷士に合格してすぐ地方官僚となった。大同という明の西北端の要衝で、彼は自ら剣を取って防御の穴を見つけては塞ぐという、地味な仕事を嬉々として行った。この辺境防備の経験が明末の混乱に役に立った。
41歳、科挙で榜眼となり、中央官僚エリートコースに乗ったが、時は万暦帝の治世で仕事は評価されず、サボタージュに抗議し結成された東林党とも交流した。考えには共鳴したが、急進的すぎるのを危ぶみ一定の距離は保っていたようだ。
58歳、彼は高齢という理由で天啓帝の教師となった。兵部尚書として軍のトップに立つと、魏忠賢によって罷免されるまで三年間、直々に山海関の守備の任務に就き、その間後金軍は全く手を出せなかった。彼は名伯楽で、軍事オタクの袁崇煥や砲狂いの孫元化、復讐ゲリラの毛文龍、猪突猛進の馬世龍、武勇馬鹿の満桂など実に個性豊かな人物を積極的に起用、配置して自身は調整役に徹したのだった。
崇禎二年、袁崇煥が皇太極の侵入を許したこの年、66歳だった。完全に引退して余生を高陽城で過ごしていた彼は、後金侵入の報せを受け取ると、政務への復帰を願い出て老体に鞭打ち、袁崇煥不在の400キロ離れた山海関に向かった。
孫承宗は山海関で急遽指揮を取り、袁崇煥に次々と援軍を送り出していたのだが、彼らは帰ってきてしまった。聞くと、袁崇煥は大逆罪で逮捕されて彼の配下の軍も散り散りになり、もはや戦える程では無いという。帰還した将兵は皆、崇禎帝の判断に怒り狂っていた。しかし、孫承宗は万暦帝、天啓帝と暗愚な皇帝に30年以上仕え続けた歴戦の大文官である。彼は大喝した。
「袁兵部尚書が逮捕されたのは非常に残念だ。しかし、君たちが崇禎帝に背けば、本当に謀叛人となってしまう。兵部尚書が守りたいものは何だ?何故君たちを鍛えた?今こそが本当の忠誠を彼に示す時では無いのか!」
悲嘆に暮れて皇帝を罵り、まるで統制の取れてなかった軍が静まりかえった。
まずは祖大寿の助命を願い出る文書を緊急で届けさせ、戦略を練った。兵は弱く、将はいない。もはや後金軍相手に明軍が効果的に包囲し勝利することはできそうも無かった。しかし、彼らの本拠地が瀋陽で、山海関が落ちない限りは、常に背後を取られている状態でもある。つまり、直ちに北京城を攻略して落城させることは無い。後金軍の精鋭の数は限られており、常に損耗を恐れている彼らは、戦いが割に合わなくなれば勝手に帰還するだろうと踏んだ。そもそもの発端は、モンゴルと満州を襲った旱魃なのだから。逆に、山海関が落ちれば、北京と瀋陽が連絡し、明朝は本当に終わりを迎えるのである。
孫承宗は明軍最後の希望となった山海関の強化を行いつつ、軍が撤退して永平城は無防備になっていたため、かつて毛文龍に仕えていた劉興祚という決死部隊を永平に派遣した。しかし、永平城はもう敵と味方の区別がつかなくなってしまっており、入城を拒否され、已む無く近隣から義勇兵をかき集めてゲリラ戦を展開することにした。後金軍を待ち伏せすると夜陰に紛れて敵の旗を掲げて暴れ回り、敗走する敵を散々追撃して追い払ったのである。これを受けて永平城は明側についた。
この戦いの勝利を報告し、孫承宗は大いに喜んだが、安易な戦闘は厳禁であると釘を刺し、引き続き正体を伏せて行動させた。この敗北の報せを受けた皇太極は、永平城の謎の軍に困惑したが、劉興祚を排除するため阿巴泰と済尔哈朗ら精鋭騎兵を派遣して急襲させた。鎧すらつける間も無く劉興祚軍は包囲され、奮戦したが討ち取られ、遺体はバラバラにされ辱められた。それだけ後金軍の被害が大きかったのである。
撤退した軍から孫承宗は経緯を詳しく聞いて勇気を絶賛し、親族の将兵に厚い褒賞を与え、兵卒は彼の死を悼み、皆奮起した。錦州、寧遠、山海関、関州と異なる地域の兵士が集められ、トップの祖大寿、袁崇煥、趙卒教、毛文龍全てを失い動揺していた軍は、人事と人心掌握に長けた老将によってようやく一つに纏まった。
崇禎三年正月、祖大寿が帰還した。孫承宗は指揮を高めるべく、山海関の全軍を集めて皇帝を拝すると、軍は整然と並び掛け声は万雷、軍馬軍旗は太陽の如く燦然と輝いていた。彼は一人嘆息した。
「私はこれほど精強な軍を見た事がない。中華最強の将兵はここに集まっている。」
同時期に、皇太極は永平、遷安、灤州を攻撃して、関州の諸都市を相次いで陥落させた。孫承宗も対応をしようとしたが、攻撃から投降までが早すぎてとても間に合うものではなかった。山海関と北京の連絡路は完全に寸断され、孫承宗は朝廷に、満桂が敗死した時点で全国から集める兵士は当てにならないと気づくべきで、袁崇煥とその配下の軍だけが奮闘しており、早く彼らの重要性を認識し積極的に支援するよう要請した。崇禎帝は後金軍の侵攻から関寧軍を不審に思い、支援物資を一切送っていなかったのである。基本的に物腰穏やかで、天啓帝からの信頼も厚かった孫承宗の激しい言葉には、朝廷も戦略を再考せざるを得なかった。
いよいよ皇太極の北京攻略は、残すところ山海関のみになった。