十二、袁崇煥
袁崇煥は薊州城を見回り、まるで戦う準備ができておらず、各地から集結させた軍は練度も指揮系統もバラバラで使い物にならなかった。そこで急いで現地軍の軍規を引き締めつつ再編成を行いつつ襲撃に備えた。
十二日、薊州から二十里も離れた場所で先遣隊の敵将に遭遇し祖大寿の部隊が勝利を納めた。中心部からかなり離れた場所に陣幕を設置し始めており、ここでとんでもない大軍が来ると判明した。崇禎帝からは、「薊州軍の責任ではあるが、軍長官が率いている以上、必ず勝て」という割と無茶な命令も届いた。
皇太極は送りこんだ偵察部隊が素早く砲撃されたのを聞くと、「袁崇煥か」と一言呟き、薊州城攻略は諦めた。夜陰に紛れて軍を引き、北京東の郊外、通州に少しずつ軍を展開させ始め、首都を圧迫することで袁崇煥を会戦に誘った。袁崇煥はこの挑発には乗らず、通州南まで密かに迂回して北京に向かった。
皇太極は通州の北、順義にも明軍部隊がいるのを知った。そこで阿巴泰軍を送り込み、大同鎮の満桂、宣府鎮の侯世禄と交戦して撃破した。侯世禄の部隊は軍の統制が取れておらず、敗走中に部隊が略奪に走り、町の人々は北京に逃げ込んだ。北京では「援軍が略奪」を「袁軍が略奪」と聞き違えて混乱が広がった。
十六日、袁崇煥は三百里を急行し通州南部の渡し場まで騎兵九千を率いて到着した。軍集結を通州で待つか首脳陣で会議を開いたが、碌な戦いの経験者がいない首都北京での決戦は無謀であるとして、急いで向かうこととした。兵馬は強行軍で疲れ果てており、北京の防衛体制を整えるため袁崇煥は軍を入れることを要求したが、崇禎帝は拒否した。蘇州から勝手に撤退し、付近の村を略奪している軍など信用に値しなかったのである。三日後、後金軍の先遣隊が北京郊外に現れた。
二十日、遂に北京攻防戦が始まった。皇太極は北京北部に陣取り、北の門は満桂、侯世禄率いる明西部軍が守り、南の門は袁崇煥を始めとする明東部軍が守った。因みに、満桂らが守った徳勝門は現在も残っており、その威容を留めている。
皇太極は北京城を見た時、攻略が難しいと悟っただろう。200年前の土木の変でオイラト軍を退けた守城はさらに強化されており、凸型をした城壁は南北六キロを寧遠や遵化と同等もしくはそれ以上の高さで囲んでいた。一方で、書物で憧れたかつての金の都、父が叶えられなかった後金の夢、その集大成を見て「ああ、こんなもんか」とも思ったのである。
皇太極は北を、阿済格らは南を攻略すべく攻撃を開始した。
皇太極はまず小さな軍を送って攻撃を誘い、大砲の飛距離を確認し紅夷砲が無いのを確認した。次に中規模な軍を送り、大砲を撃ち終えたタイミングで本隊をぶつけた。大砲を撃ち尽くしていた北京軍は大いに慌て、一万近くいた満桂、侯世禄の軍はあっという間に崩壊した。城壁に追い詰められた明西部軍の上から味方であるはずの北京軍の砲弾が雨のように降り注いだ上、後金軍、満州八旗への恐怖が蔓延しており、しかも碌な給金も無く士気が著しく低かったからだった。満桂は良いところなく百人ほどになって関帝廟に隠れ、侯世禄の軍は付近の村を略奪し、責任から逃れるために袁軍を名乗った。
こうして、北門に詰めていた軍の半分以上がわずか一日で壊滅した。
南門を守る袁崇煥は、北京軍は怯えきって練度も低く当てにならないと分かると、率いてきた寧遠軍を連れて郊外に出撃し、我こそ袁崇煥であると言わんばかりに目立つ旗を立てて中心に配置し、左翼を北の丘に陣取らせ、右翼を南の森に潜ませた。後金軍は袁崇煥が不用意な位置に陣取っているのを見ると、即座に攻撃に移った。
豪格は中央軍は陽動と見て左翼に殺到し、阿巴泰、阿済格、多爾袞はそのまま中央を抜こうとした。結局左翼と中央軍が合体する大激戦になり、後金は精鋭部隊を袁崇煥に殺到させ、袁崇煥自身も矢を受けたが寧遠最強部隊は守り切った。中央軍が徐々に後退していくと、満を持して祖大寿率いる右翼軍が後金軍の裏に回った。後金もこれを迎撃する軍を送り込んだが破られ、右翼側で半包囲が完成したことで、殿軍を置いて撤退したのだった。
袁崇煥は次の戦いに備えたが、急行軍で兵の食糧は無く疲れ果てており、北京城内で休息を取らせようとしたが、崇禎帝は許可を出さなかった。仕方なく近衛軍に頼み込んでようやく食糧を融通してもらい、北京城南に陣地を作り、そこで待機した。皇太極は試しに軽く陣地を攻撃させたが凄まじい弾幕のため撤退した。
南北で外回りの軍を一掃できなければ、北京城は補給を受け続けることができるため、包囲戦は到底不可能である。皇太極は真っ先に逃げ出したモンゴルの将軍を罰して処刑し、戦略目標を変更した。彼に散々煮湯を飲ませた男、袁崇煥である。
皇太極は情報を集めており、北京城に布陣する頃には袁崇煥の評判が著しく低いことを知た。民衆は蛮族の攻撃を防ぐことができなかった袁崇煥を口々に罵り、袁軍を名乗る盗賊があちこちに跋扈して略奪行為を働き、崇禎帝も独占的な権力を有する袁崇煥を疑っているーー
俄かには信じられなかったが、袁崇煥の軍が北京城にすら入れず立ち往生しているのを聞くと、皇太極は冷遇されているという確信は持てた。そこで、捕虜に袁崇煥が我々と結託しているという噂を牢で聞かせて、敢えて隙を作り脱出させ、様々な噂を北京城内に流させたのだった。
袁崇煥は北京城南にあった後金軍の補給拠点を潰していた。南海子というこの地域は皇族の裏庭のような場所で、名馬や食糧が山と存在しておりまんまと利用されていた。崇禎帝を囲む大臣達は袁崇煥への攻撃を加速した。
「袁崇煥は北京城に陣取る蛮族を倒そうともせず、付近の民草を略奪してまわり、あまつさえ皇帝の庭を犯しています。彼のような奸物に国家を守ることなどできません。」
そして、何とか後金軍から生還したと二人の宦官の話を聞いた。
「私が敵軍を観察していると、袁軍の兵士が敵と親しそうに話をしていました。しかも、何度も敵陣と往来してやり取りをしていたのです。」
「私は満桂の軍が敗れたのは、袁崇煥が敵と通じていて、大砲を自軍に向けて撃ったからだと聞きました。勝つのは容易だったと聞いています。」
崇禎帝は激怒し決断した。
十二月一日、南海子の後金軍を掃討して補給終え、運河沿いに敵軍が集まっているとの知らせを受け攻撃準備をしていた際に、崇禎帝から北京城に来るよう命を受けた。
崇禎帝は袁崇煥、満桂、祖大寿、黒云龍を呼び出していた。
「袁よ、朕が呼び出した時、副官を代わりに寄越したことが何回もあったな?お前は毛文龍に問うて答えられ無かったから奴を殺したと聞いている。今日こそ私の問いに答えられなければ、お前も毛文龍と同じ末路を辿るだろう。満桂、証言せよ。」
満桂は跪いて答えた。
「袁軍は敵と通じ我が軍を破滅に追いやりました。付近の村落を襲い、食糧を敵に渡していました。また、私には袁軍の印がついた矢が突き刺さっています。他にも証言は幾らでもあります。」
袁崇煥は反論しようと口を開いたが、体中に矢傷を負い憤激する満桂の顔を見て、どうしても、どうしても言葉が出てこなかった。
袁崇煥は逮捕され獄に繋がれた。