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明清交代  作者: 牧山鳥
序章、袁崇煥
14/21

十一、袁崇煥

挿絵(By みてみん)


 崇禎二年も引き続き酷い旱魃が河北を襲った。恐らくフェーン現象に関連していたこの天変地異は、特にモンゴルと女真族の地域を襲い、彼らは飢えに苦しんだ。モンゴル族は通商を求めて袁崇煥を頼ったが、崇禎帝はほんの僅かな量しか許可を与えず、非常に苦しんだ。


 六月、東林党のある大臣は今こそ女真族を叩く絶好の機会であると侵攻を勧め、また別の大臣は皇太極がこの飢饉に対して何らかの軍事行動を行う可能性があると警告した。袁崇煥は特に行動は起こさず、見に徹した。皇太極の軍事行動は完全に謎に包まれてしまっていたが、袁崇煥は関遠錦防御線が突破できない限り大規模な攻撃はできないと踏んでいたのである。それに、毛文龍を殺害した混乱収拾と軍政改革が最優先で、攻勢どころではなかった。


 当の皇太極はと言うと、錦寧の戦いで敗れ、満州も旱魃で荒廃していよいよ後が無くなっていた。その時、毛文龍が死んだという朗報が飛び込んできた。西進すれば何処からともなく現れて首都を攻撃する存在のため、主力軍は半分に分けていつでも引き返せる距離でしか行軍できなかったが、とうとう大規模遠征軍の派兵が可能になったのである。天運我に有りと思わずにはいられなかっただろう。まず彼は得意の情報戦を開始した。後金軍が大きく迂回してモンゴルから明を攻めると噂を流したのだ。


 九月、袁崇煥は間も無くこの噂を耳にすると、朝廷に報告し、万里の長城の強化を開始した。そして機動部隊を謝尚正に率いさせ、巡察させるように指示したが、薊州巡察の王元雅はこれを拒否し、彼らは仕方なく帰っていった。皇太極はこの情報を手に入れると、薊州が弱点だと定めた。冬になると行軍が難しくなるため、時間との戦いである。


 十月二十日、皇太極は薊州にあったモンゴルの市を制圧し、軍律を固く守るように命ずると休息を与えて、二十四日には遊牧民伝統の三軍編成を展開した。左翼は弟の阿济格(アジゲ)、右翼は兄の済尔哈朗(ジルがラン)、本隊はもちろん皇太極である。目論見通り、蘇州の城壁は朽ち果てており、守備軍は飢えに苦しんでいる有様だった。さしたる抵抗もなく、二十七日に左翼は万里の長城を突破し、二十八日に右翼は大安口を攻撃、陥落させた。


 明軍はようやく大安口外の集落で接敵して敗れたためようやく異変に気づいだ。烽火台から煙が上がり、大砲の音が延々と木霊した。モンゴル軍と思しき集団が万里の長城を攻撃しているという知らせが入ると、崇禎帝は長城沿いに防御するよう命令した。


 山海関長官の趙卒教は知らせを受けると直ちに行動を開始した。彼は騎馬軍を率いてわずか三日後の十一月一日には350里離れた三屯営まで来たのである。しかし、この大安口に向けた援軍は緊急事態につきと入営を拒否され、三日に仕方なく遵化城に向かうと彼はあり得ないものを見た。とうの昔に長城を突破していた後金軍である。趙卒教は絶望した。遵化城は十万を超える後金軍に包囲され、明軍の敵襲警告だと思っていた砲音は後金軍が遵化城を攻略するための砲音だったのである。三屯営は既に降伏しており、趙卒教を騙していた。


 錦州市防衛の英雄、趙卒教を守る兵士は四千に満たず、あっという間に包囲されて討ち取られた。


 皇太極は遵化城が寧遠城並みに強固であるのを見ると、全ての梯子を立てかけて攻撃しようとしたが届かず、兵を足場にさせて一斉に登らせて、包囲から僅か三日で八旗軍が入城し、抵抗した兵は皆殺しに合い、投降した兵には手を出させなかった。王元雅は自害し、皇太極は勝鬨を挙げた。


「私は寧遠城に敗れたが、この城は寧遠より遥かに堅守であった。それを破ることができたのは、ひとえに勇敢な皆のおかげである!」


 遵化城に蓄えられた莫大な財と食糧は軍を潤すのに十分であり、皇太極に疑いの目を向けていた者たちも皆彼に臣服した。彼の命令に従わず、逃げようとしたり乱暴を働いた者に罰を与えて戦後処理を終えると、明の首都北京に向かうべく動き出したのである。十一月十一日のことであった。


*****


 さて、十一月一日、袁崇煥は趙卒教が凄い勢いで飛び出したので錦州から山海関に移動して代わりに指揮を取ることにした。部下は趙卒教の後を追い、もし見つけたら一緒に戦い、見つからなかったら合流するよう指示したのである。既に趙卒教が戦死しているとは思いもよらなかっただろう。


 三日になり、錦州の祖大寿も大軍を引き連れて合流し、四日には二万の軍を引き連れて山海関を発ち、各所に兵を残して山海関と蘇州の兵站線を残しながら進軍した。しかし、七日に永平に到着した時には三屯営の明軍が完全に崩壊していることを知り、崇禎帝から次のような親書が届いた。


「薊州軍が踏ん張っている。貴官に首都までの進軍を許す。早く忠誠を示すように。」


 袁崇煥は軍を配置しながら、さらに速度を上げた。

 九日、玉田城に入ったが、官僚も兵士も皆逃亡してもぬけのからだった。

 十日、遵化市から逃げてきた多数に難民に遭遇し、三屯営の反乱を聞いた。

 十一日、薊州城に到着し、袁崇煥は崇禎帝から勅命を受けた。


「後金軍が遵化城を陥落させた。薊州で必ず食い止めるように。」


 袁崇煥は、敵の侵攻から2週間が経った薊州で初めて、敵が皇太極率いる後金軍であることを知らされた。そして、長城は突破され重要拠点の遵化城も陥落し、趙卒教が戦死していることも知った。送り込んでいた偵察隊は長城外の戦いと油断しており、情報戦を重視する皇太極に徹底的に潰されていた。何より報告の義務があった地方政府の官吏はとうの昔に我先にと逃げ出していた。


 戦いは始まる前に決着がついているという。明の役人は金さえあれば何でもして良いという魏忠賢時代に適応しており、スパイなど放たなくとも内部情報は筒抜けだった。袁崇煥はあくまで軍事オタクであって、軍事を体系的に学んだ人間ではない。こういうタイプの人間は、現代風に言えば戦車や戦闘機に興味関心はあるが、電子戦や諜報戦、世論工作には関心が疎い。彼は新型大砲導入や守城の強化、練兵を行っていたが、後者にはそれほど意識が回らなかった。一方で、常にヌルハチに付き従い、少なくとも16人いた男兄弟の中で最も武芸に秀で、かつ手に入れたあらゆる中国古典を誦じたという皇太極は、袁崇煥と比較して遥かに恵まれた教育と実地経験を受けており、後者は非常に有効であることを知り使いこなしていた。


 勝敗は既に決した。関遠錦迂回で長城は突破され、重要拠点も制圧された。

しかし、敗北の被害をどれだけ抑えられるかは、袁崇煥の手腕にかかっていたのである。


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