十、袁崇煥
袁崇煥は軍内部に不正が横行し、兵士全体の士気が下がっていることに気がついていた。魏忠賢時代には仕方なかったが、崇禎帝がトップの時代であり、彼にはそれを一掃するだけの充分な権力が与えられていた。そして、一人の男を排除する方針とした。関州の毛文龍という男である。
二年前の錦寧の戦いで袁崇煥は辛くも皇太極を撃退していたが、毛文龍の支援要請に従い兵を出し切った瞬間に攻撃を受け、あわや錦州を失う所だった。彼の部下の機転が無ければ、そのまま攻略されていただろう。毛文龍は皮島に活動拠点を移していたが、それは遼東東部での作戦が全て失敗し、大陸部の土地をほとんど失っていたことを意味していた。袁崇煥側がきちんと確認できた毛文龍の勝利は一つもなく、彼が報告した数々の大勝利が本当なら、本土失陥という失態はあり得ないはずだ。よって、戦果を水増しして虚偽の報告を行い着服する小狡い男だと判断した。
崇禎二年一月、五万両という莫大な軍の借金を返す都合をつけるため、軍全体がどれだけ資金を持っているか会議を開いた。袁崇煥は毛文龍の軍がいくら所有しているか調査委員を送ることを提案したが、毛文龍はこれを拒否した。新たに就任した東林党大臣の数人が、毛文龍の不正を弾劾しており、それは密貿易への協力や使途不明金、軍人への給料未払いなど多岐に渡るものだった。疑念はいよいよ深まった。
袁崇煥は東江鎮に食糧援助を行いながら、物資を送るよう命令した。矛盾していると思われるかもしれないが、袁崇煥は東江鎮の苦しい現状は直接目で見て知っており、その矛盾の原因が毛文龍の横領だと確信していた。折しも中国北部では大旱魃に襲われており、毛文龍が欠けて足りなくなる戦力はモンゴル諸部族に江南から来る食糧を売ることで十二分に賄えた。
六月一日、袁崇煥は毛文龍と大連近くの島で話し合った。毛文龍は細身で一見柔和だが、目の奥には不信感が隠し切れておらず、口数も少ない油断ならない男だった。
「東江鎮が苦しいのは私もよく分かっている。だが、寧遠にいる我々の軍も暴動が起きたぐらいには苦しいのだ。互いに正確な物資の把握を行えば、配分を最適化することができる。貴官も本拠地を失い、軍の再編成に忙しく、予算や食糧の管理まで手が回っていないだろう? そこで皮島に文官を置いて、彼らに管理させるのはどうか。」
「我々だけで問題ありません。お断りします。」
翌日も話し合った。
「では、寧遠から更なる食糧と資金を援助してやる。そして、こちらから足りない兵士と武器も融通してやろう。しかしそうなると、二つの軍集団が一つの島に居ることになり、指揮がバラバラでは都合が悪く、何かとトラブルも起こる。そこで、一旦君たちの軍を休養させるためにもこちらに預けて、軍を再編成したうえで、精兵を皮島に駐屯させるのはどうか。そして、軍は今まで通り君が指揮してよい。どうか?」
「食糧と資金は嬉しいですが、覚悟の無い兵士は要りません。お断りします。」
さらに翌日も話し合った。
「平遼左都督よ。どうも君は意固地になっている。一回北京に帰ると良い。」
「できません。現在我々は軍を建て直しつつあり、後金軍は再度西へ向かうとも聞いています。そうなれば、我々は満州を圧迫し朝鮮も攻略できるようになります。私が離れれば、部下は士気を保てません。何卒、兵部尚書のお力で現状を維持していただきたいです。」
その日の夜、袁崇煥は艦内に戻り、副官を呼び一晩かけて密談を行った。
翌朝、袁崇煥は明日は親善のため軍内で弓術大会を行うことし、開催地は雙島、呼ばれた人は集まるよう発表した。
六月五日、審査に招かれた毛文龍は捕えられた。縛り上げられて尚抗弁したため、袁崇煥は彼に十二の罪を告げた。
一つ、数多の民間人を虐殺してそれを戦果だと偽ったこと
一つ、私兵を許可なく育てて自らが指揮し皇帝を軽んじたこと
一つ、兵に給料と食糧を渡さず横領していたこと
一つ、軍馬の密貿易に関与したこと
一つ、多くの部下が毛文龍の名を騙り派手な衣服を身につけていたこと
一つ、朝廷から賜った宝を勝手に売ったこと
一つ、寧遠に向かう途中商船を略奪したこと
一つ、法を知らず女子を襲い部下もそれに倣って人民を不安にさせたこと
一つ、高麗人参を窃盗させ従わない者は殺したこと
一つ、魏忠賢に賄賂を贈り彼を奉る像まで建立したこと
一つ、鉄山での敗北を隠蔽したこと
最後にこう告げた。
「八年も職にありながら土地を一つも回復できず、敵をただ眺めおだてる以外お前は何をやってきた?冠と服を脱いで、北京の方を向いて膝をつけ。誅罰を与える。」
「結果が伴わないのは申し訳ありません。ただ、それだけの苦労があったーーー
袁崇煥は毛文龍が持っていた天啓帝から賜った宝剣を振り下ろし、処刑した。
毛文龍の部下たちは只々涙を流して呆然とした。
一族の復讐を誓ったゲリラ戦と諜報戦の達人は志半ばで死んだ。ゲリラ戦を強いる儒者、復讐者でありながら統治者、政府に頼れない軍人。常に二律背反を抱え苦悩し続けていたであろう男の哀れな最期だった。
袁崇煥は、毛文龍の部下たちが反乱を起こさないよう、亡骸を丁寧に埋葬してから銀10万両を与え昇給を約束した。罪は毛文龍一人として、彼の副官を後任とし、軍団を四つに分けて吸収し、総勢15万人が関遠錦防御線に配属された。朝廷には、「毛文龍は監督する文官の設置を拒否し、食糧と資金を横領し、私兵を蓄え、善良な人物を殺害し、明の名誉を貶めておりましたので、已むを得ず処刑しました。」と報告した。そして、再配置によって兵力は減る一方で、更なる資金援助を要請したのである。
この話を受けた崇禎帝は、若干不審に思いはしたが了承した。
しかし、袁崇煥が宝剣で毛文龍を処刑したと聞くと激怒した。
「尚方宝剣は二本一組で、兄の天啓帝は毛文龍に、朕は袁崇煥に下賜したのだ。弟の剣をもって兄を葬るとは、なんと恐ろしいことをしたのだ!」
崇禎帝は毛文龍を断罪した事は尤もだとして、一旦は引き下がることにしたが、禍根ができてしまったであった。