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明清交代  作者: 牧山鳥
序章、袁崇煥
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九、袁崇煥


天啓帝を一言で現すなら、素直なお人好しである。母親代わりに親身世話してくれる客氏、彼女の夫で訳の分からない政務を一手に引き受けてくれる魏忠賢。いつしか五月蝿いことをいう大臣は居なくなり、彼は宮廷で自由に気ままな日々を送ることができた。美食を楽しみ、狩りを行い、宮殿の設計をし、兵隊ごっこをした。


 客氏は彼と妃の間に出来た六人の子どもを全て流産させ毒殺していたことも、見えなくなった大臣が全て魏忠賢によって葬られていることも、国政は滅茶苦茶で横領により宮殿造営が進まないことも、明の辺境が非常に切迫していることも何も知らなかった。或いは、目を瞑っていたのかもしれない。幼い頃から自分を助けてくれた一番に信じる人が、そのような非道な事をするはずが無いのである。


 そんな天啓帝は自分の弟達、特に朱由檢(しゅゆうけん)ーー と比較して、自分の出来がそんなに良くないことはよく分かっており、この生意気な異母弟が「私も皇帝になれるでしょうか?」と無礼な事を言うと、「数年後にはそうさせてあげる。」と答えたという。


 この言葉は現実になった。船遊びをしていた際、突然の強風で船が転覆し、天啓帝は重い肺炎になってしまった。弟の朱由檢が兄の病が癒えるよう、自分の身に移す祈祷をしていると聞くと、一言、「弟弟愛我」と呟いた。いよいよ危篤となると、彼を呼び出し、幼き日の約束通り皇帝位を譲ると告げた。朱由檢は涙を流し、「陛下、私の言は死罪に当たります。だから早く良くなってください。」と言ったが、天啓帝は「残される私の妻を頼む。魏忠賢ならきちんとやってくれるはずだ。」と返したという。


 天啓七年八月、熹宗天啓帝は二十三歳で逝去した。遺言には彼が彼なりに努力したと綴られていたが、紫禁城の狭く閉じた世界に住んでいた大きな子どもに、万暦帝が破壊した明朝の復興は不可能だった。そして即位した崇禎帝がまず行ったことは、東林党内閣の復活と魏忠賢の暗殺だった。政務を思うがまま壟断した男は権力基盤を失い呆気なく死んだのである。


 崇禎元年、故郷に戻った袁崇煥は再び朝廷に召し出された。彼はとうとう兵部尚書に任じられ、軍部としては最高位に着いた。文官としても右副都御史に任じられ、晴れて政府中枢に復帰できた。


 崇禎帝は即位する前に、袁崇煥を直々に謁見させた。英明と名高い次期皇帝に袁崇煥は得意の熱弁を奮った。 さらに温めていた大構想で、五年以内に瀋陽含む明の故地を全てを奪還する巨大な作戦である。そして、最後にこう締め括った。


「北狄女真には私が作り上げる防御線を突破する術はありません。正確に軍を配属し、兵站をきちんと確保さえすれば、河川を抑えて進軍できる我々は自然と有利になります。一つ懸念があるとすれば、朝廷が私の功績を妬んで、あらぬ嫌疑をかけて排除する可能性です。」


 崇禎帝は深く頷くと、そのような心配はしなくても良いから職務に励めと下知した。そして、宝剣に蟒袍、玉帯に銀幣を渡そうとしたが、袁崇煥は宝剣と銀幣のみを受け取ると、残り二つは固辞して何か業績を上げれば受け取ると謝辞を述べ、この決意を心強く思ったのである。


 さて、袁崇煥が寧遠を離れたのはわずか一年程度だったが、前線では早くも問題が発生していた。給料の未払いが続いた寧遠の兵卒が反乱を起こしたのである。明全土からかき集められていた軍は意思が統一できておらず、特に前線から離れた地域の兵士にとっては後金軍より自分の生活の方がはるかに大事だった。派遣されていた遼東総督も軍長官の朱梅も縛られて人質にされた。副長官は役所の宝物庫から銀2万両、それでは全く足りず商人から銀5万両の大借金をして兵士に配り、何とか反乱は収まったのである。


 すっかり軍律が緩んでいた寧遠城に袁崇煥は軍の総司令部として帰ってきた。攻城戦の鍵を握るのは軍の規律と士気、そして厳密な兵站管理である。寧遠、錦寧勝利の立役者の帰還に城は騒然とした。直ちに反乱を起こした兵士の主犯格が引き出され、軍令違反として十五名が処刑された。兵士の給料を直接着服し、不満に取り合わなかった中部隊長は斬首、その上司の参将も罰せられ、朱梅も厳しく叱責された。そして、軍への資金を横領していた知事ら四人を更迭し、再びきちんと給料が支払われるようになり、軍規を取り戻したのであった。


 また、異民族という理由で敵視され、寧遠に連行されて飢えに苦しみ反心を抱いていたモンゴル部の一族を呼んで直接謝罪をし、反乱を未然に阻止した。漢族異民族に関わらず、法に基づいた公平な裁判によって、寧遠の不穏な情勢は一気に改善した。北辺を瞬く間に安定させた手腕に崇禎帝は大いに喜び、残りの蟒袍、玉帯に追加の官職と資金を与えたのだった。


 袁崇煥は遼東総督と遼東巡察の役割が被っているため、死んだ遼東総督の地位の廃止と今回の一件での遼東巡察の更迭を進言し、崇禎帝に受理された。こうして、袁崇煥は遼東におけるほぼ独裁的な権力を確立し、邪魔が入らない環境を作り腰を据えて後金と組みしようとしたのである。


 急激に出世した彼と似たような境遇の人物が身近にいなかった袁崇煥には知る由も無かったが、軍トップというのは常にクーデターを疑われる。袁崇煥は兵部尚書という役職につい舞い上がって、孫承宗のような慎重さを忘れ、本来の独断専行という性格が顔を出してしまうのである。


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