三、毛文龍
天啓六年の夏、皇太極が即位する。この男は鎮江奪還のために派遣された経験があり、毛文龍の危険性をよく知っていた。この時、皇太極は主犯の毛文龍を追跡したが常にゲリラに悩まされ、遂に捕えることはできず引き返したのであった。翌年はゲリラ軍の大部分を壊滅させたが、やはり毛文龍を捕えることはできず、より強大な組織として復活した。しかも明の正規軍の動向は袁崇煥含めて常に把握できたが、毛文龍は皇太極の諜報網をもってしても補足できなかった。
皇太極はまず内憂から断った。努爾哈赤は女真族と漢族の全面対決を打ち出していたが、彼は路線を変更し、在地の漢族も有能であれば身分に関わらず登用するとした。そして、税は軽くして役人の不正を取り締まり、民族の差別を無くし、漢族の戦死者まで厚く葬り、明本来のシステムを用いてきちんと統治するようにしたのである。こうなると、住民は不正が蔓延し経済格差の酷かった閉塞的な明王朝ではなく、新時代の到来を感じるようになり、女真族憎しで団結していた勢力が割れ始めた。
そして遂に、後金内部にいる毛文龍のスパイが摘発され始め、逆に毛文龍勢力の情報が入るようになった。皇太極は毛文龍本隊が対して人数が居ないこと、朝鮮側とも関係が不和であること、恐らく明軍からは独立していることを突き止めた。彼は袁崇煥と和議を結ぶ協議をしながら、毛文龍を攻撃したのである。情報源を失いつつあった毛文龍は、この攻撃を予見することができず、堪らず明正規軍の袁崇煥に支援を要請した。そして後金に賠償金を払って住民の保護を約束させ、自身はわずか四千人の軍を纏めて袁崇煥の船に乗って東江鎮を離れてしまったのである。
皇太極が明に電撃的侵攻を開始したのは、この直後であった。
寧錦の勝利の後、袁崇煥は一旦退職したため、この件はひとまず有耶無耶となる。毛文龍の一連の動きは明正規軍から見たらどう映っただろうか?
自分達にとって都合の良すぎるタイミングで現れ、貧弱な装備で真偽不明の大戦果を報告する。いざ攻撃を受ければ何処からともなく大金を出して和平を勝手に結ぶ。少し後の話にはなるが、正規軍への編入や資金提供を拒否する。毛文龍が長らく虚偽の報告を続け、敵と通じて私腹を肥やしていると考えた方が自然だったのだろう。
毛文龍は常に孤立していた。地理的にも政治的にも明からの積極的な支援は期待できず、一方で後金を逃れ彼を頼る住民は多く、守ろうにも不十分な装備では正面から勝つことは難しい。朝廷と正規軍を信用しなかった彼が駆使したのがゲリラ戦と情報戦である。
ゲリラ戦とは有効ではあるが残酷な戦術である。敵と味方の区別が付かなくなり、一般住民を戦いに巻き込んで憎悪を煽り、罪なき市民を犠牲にさせることで新たな兵士を募ることができ、敵を無限の泥沼に引き摺り込むーー 現代に住む我々は、これが米軍もソ連軍も撃退する非常に有効な戦術であると知っている。
しかし、学問に明るく正規軍同士の戦いしか勉強していない軍事オタクの袁崇煥には、狂気と憎悪とイデオロギーで成立する非正規戦は理解し難かったかもしれない。しかも、毛文龍自身も理解していなかった。彼が真にゲリラを理解していたなら、後金国内で自作自演のテロを起こして協力者を募り、住民を見殺しにして募兵していたはずなのだから。
常勝を続けていた情報戦に関しても負けてしまった。その結果、東江への侵攻、朝鮮との唐突な和平、そして明への侵攻を予見できず、加えて軍を纏めて撤退してしまったことで、ゲリラ活動も諜報活動も難しくなり、一気に無力化されたのであった。寧錦の戦いは袁崇煥の勝利に終わったが、毛文龍は自軍を脱出させていながら、実は致命的敗北を決したのである。恐るべきは皇太極の諜報と策略で、彼はまず明の目を潰すことに成功していたということになる。
以降、毛文龍は活躍が無くなり、その独立性の高さから、袁崇煥ら正規軍から不興を買い不信感が加速した。崇禎二年、毛文龍は騙し討ちのような形で冤罪をかけられ、一方的に処断された。彼には虐殺者と裏切者の汚名が残り、功績は中華史の闇へと葬られた。
機密性が極めて高かった毛文龍の真実は誰にも分からない。ただ、大連には彼の死を悼んだ石碑が現在も残り、彼が愛した一人息子は、死ぬまで清に仕えることを拒んだという。
毛文龍。何処までがフィクションか、今となっては誰にも分かりませんが、次は袁崇煥に戻ります。