二、毛文龍
天啓二年、毛文龍は組織拡大を急ぐあまり、活動に目をつけられた後金軍に襲われた。彼は明へ救援要請を出したが、朝廷からの返事はなく見捨てられ、山側にいたゲリラ軍は一旦壊滅状態となってしまった。この一件以来、毛文龍の組織は政府とも溝ができてしまう。そして、より一層慎重に情報を集め、活動を完全に秘匿して行動するようになり、捕捉が極めて困難な組織として再出発した。
天啓三年、孫承宗と袁崇煥が寧遠城を強化していた頃、毛文龍は旅順内部の反乱軍と呼応して、義勇兵と海軍を送り込んで要塞の占拠を完了した。後金は袁崇煥の寧遠城強化と察哈爾のモンゴルの対応に手一杯で背後を突かれ、簡単に海上の要衝を明け渡してしまった。この成功に自信を深め、旅順近郊の復州も反乱を煽り、同様の手法で占領し、これらの土地を明に返還した。
天啓三年九月、瀋陽に潜伏しているスパイが、明への攻撃準備をしている報告した。毛文龍は妨害のため、後金の旧都である赫图阿拉を急襲し、大勝利をおさめて撤退し、しかももう一度別の場所を奇襲して再度大勝利したとされる。彼はしばしば戦果を過大報告し(そもそも民兵であるゲリラ軍に正確な報告を期待してはいけないのだが)、何とこの二つの戦いは来たる寧遠城の戦いよりも遥かに大きな戦果を挙げたと明側の史料には記録されている。但し、これら一連の戦闘のために後金軍が動員され、寧遠城への攻撃が見送られたことは確かであり、兵部尚書の孫承宗は毛文龍の行動を以下のように朝廷に報告し、絶賛している。
「毛文龍は私と袁崇煥に蛮族の首と捕虜を差し出しました。彼らに敬意を払うため祝砲を打ち、この勝利に寧遠は大いに沸いています。蛮族が席巻して賊が暴れ回る中、狼の巣に潜り込む勇気ある人物は毛文龍という男ただ一人なのです。たとえ彼が志半ばで死んだとしても、その勇気と志は中華に鳴り響き、蛮族に怯える人々を奮い立たせるでしょう。」
孫承宗はバランス感覚に極めて優れた人物であった。彼は敢えて毛文龍の戦術を非難したりはせず、ただそれだけの無謀さ、勇敢さを普通の兵士に求めるのは酷であるとして、「こういうすごい人もいる、だから我々も自分の仕事を全うしよう」という論調で、毛文龍には褒賞を与えながら、比較的安全で堅実な袁崇煥の作戦を淡々と推し進めたのである。やや独断専行して他人に高いハードルを求めてしまう袁崇煥と、秘密主義で自分しか信用しない毛文龍という優秀な問題児が衝突しないように、彼は常に手を回していたのだった。
天啓四年一月、海が凍ったため後金軍が攻めてきたが、毛文龍の軍は異常に士気が高く火薬が尽きても降伏せず頑強に抵抗し、撤退時にゲリラ攻撃を仕掛けて後金軍を撃破してしまった。そして、遼南の支配が緩んだ後金軍は、袁崇煥の寧遠ー錦州ー大寧江という意表をついた大胆な進軍を許してしまうのである。
天啓五年、孫承宗が大規模な遼西反抗を開始し錦州を奪還し、遼河まで進軍できたこの年、毛文龍は思うように動けなかった。明から送られてきた魏忠賢派に属する遼南の一知事が平和ボケしており、運河の開削工事をするために水の流れを堰き止め、このチャンスに後金軍が殺到して旅順を含めた諸城を包囲してしまったのである。兵站線が長かったため、毛文龍はゲリラ軍を展開して撤退に何とか追い込んだが、冬になると今度は明の正規軍が後金を恐れて撤退してしまい、泣く泣く毛文龍は再度軍を派遣し、結局この土地は東江鎮の支配下に置かざるを得なかった。一方で、毛文龍が遼南で踏ん張ったからこそ、遼西の進軍は極めて順調に行ったという側面がある。
天啓六年、魏忠賢が勢力を握ったため孫承宗が更迭され、遂に努爾哈赤が寧遠攻略に動いた時、いち早く動きを察したのは毛文龍であった。彼はゲリラ部隊を潜伏させることで、後金軍が寧遠城へ出払った時にいち早く攻撃を開始することが可能で、錦州と旅順の間に位置する要衝海州を攻撃し、さらに本軍は瀋陽へと進軍した。結果として、努爾哈赤は寧遠城を素早く落とす必要に迫られ、焦った末に袁崇煥に撃退されてしまったのである。そして、この努爾哈赤の死をいち早く知ったのも毛文龍のスパイだったとされる。
情報の有無は戦いの趨勢を握る。毛文龍は瀋陽で十年以上勤めていた在地の武官であり、同一地域での勤務としては異例の長さになる。しかも彼は、門の責任者として極力冤罪を避けるよう心がけており、詳しい調査を行う立派な人物として、現地住民から愛されていた存在だった。そして、彼が受けた凄惨な被害は同情を呼び、瀋陽内外の漢族に無数の協力者を産んだ。毛文龍は後金に対して情報戦で常に勝利しており、しかも軍中枢と独立していた彼の動きは、明内部にいる後金側のスパイにも感知できなかったのである。
しかし、謎めく毛文龍の動きは常に明正規軍からの疑心を産み、情報戦に精通した敵も現れたことで、彼は悲惨な末路を辿るのである。