人生には何の役にも立たない知識・思考をつらつらと書くエッセイ集
このブレンドを、ペーパーフィルター用で
皆さんはスーパーでインスタントのコーヒーを買うとき、その横にたくさん並んでいるコーヒー豆を見て、いったい誰がこんなものを買うのだろうと疑問に思ったことは無いだろうか。
インスタントコーヒーをカップに入れて、お湯を注げば済む事を、わざわざ豆からコーヒーを抽出するなんて、そんな面倒な事は喫茶店に任せておけばいいのに。それを家で使う酔狂な人がそんなに沢山いるのだろうかと。
インスタントコーヒーと違って、コーヒー豆からコーヒーを淹れるには時間がかかる。ゆっくりとお湯を注ぎ入れ、蒸らし・抽出しなければいけない。しかも淹れた後に茶殻ならぬコーヒー殻が残るので、その掃除までしなくてはいけない。
たかがコーヒーを飲むのにそんな時間と手間を使うなんて実に酔狂に感じていた。
しかし、その酔狂だと思っていたコーヒー豆からコーヒーを淹れる人。自分がそうなるなんて、そのころの私は思いもしなかった。そんな私がその“酔狂な人”になった時の話をしてみようと思う。
私が初めてインスタントでないコーヒーを淹れたのは、法事のお供え物を頂いた市販のドリップパックのコーヒーであった。
ティーパックのように個別の袋に入っていて、開けるとフィルターには挽いたコーヒー豆。フィルターの上の方を手で切って開け、紙で出来た枠をマグカップに乗せる。
上からゆっくりお湯を注げばコーヒーの出来上がり。それがご存じドリップパックである。
自分で買ったのではなく頂いたもので、捨てるくらいなら使ってみようという程度だったが、この味がずいぶんと家族に好評で、我が家はあのダバダで有名な黄金色ブレンドのインスタントコーヒーから移行し、ドリップパックでコーヒーを淹れるようになった。
ドリップパック。これは手軽でとても良い。但し、値段が張る。スーパーで買うと14袋入りで500円ほど。という事は一杯40円ほどである。インスタントコーヒーは40杯分が700円ほどで買えるので一杯18円くらい。お金の話だけで言えば倍以上高い。
だが我が家は、貰ったドリップパックを経験した事でその美味しさに気付いてしまった。初めはインスタントと併用されていたが、そのうちドリップバッグばかり買うようになった。
そうすると、そのドリップバックの横で売っている、例の豆だけのコーヒー袋が気になってくるのは必然であるといえよう。今まで、存在を不思議に思っていた、どこの酔狂な人が使うのかと思っていたあのコーヒー豆である。
いやいや、ドリップパックだって同じだ。豆からコーヒーを入れるじゃないか、とツッコミを入れる読者の方もいらっしゃるだろう。だが、コーヒー豆を買うとなると色んな道具をそろえなければいけない。
例えば普段ティーパックで紅茶を入れている人も、紅茶専門店で茶葉を買ってきて専用のティーポットで淹れる紅茶はなかなかハードルが高く感じないだろうか。
そんな高いハードル(おおげさな!)を乗り越えて、ついに私もあの“酔狂な人達”の仲間入りを果たそうと考え出した。それほど、豆から淹れたコーヒーは魅力的であったのだ。豆から淹れると、ドリップバックよりも安くなることも背中を押した。
さて、コーヒー豆だけを買ってコーヒーを淹れるにはいろんな道具が必要である。
最低限必要なものは、コーヒーフィルターとドリッパー。
フィルターは言わずもがな、紙で出来たコーヒー豆の受けになるもの。
そのフィルターをさらに受ける容器がドリッパーである。
ドリッパーには種類があって、カリタ式(台形)・ハリオ式(円すい形)などというらしい。ドリッパーの形に合わせてフィルターも決まる。
まず、利便性を考えればカリタ式である。スーパーのコーヒーコーナーに置いてあるフィルターは必ずと言っていいほどカリタ式で、ハリオ式を置いているところはほぼ無い。いつでも近くの店で手に入るというのは強みだ。喫茶店の店主が使っているのもカリタ式が多いらしく、プロっぽくてカッコいい。
一方、ハリオ式は円すい型なので穴の位置が中央にある。コーヒーをマグカップなどに直接抽出して使うのであればこの形はとても便利である。カリタ式のように、口の大きな容器にまず抽出して、そののちカップに淹れなおすという手間が省ける。
といっても、高級なコーヒーカップの上にドリッパーを何度も置いて使えばカップが欠けてしまうだろう。幸い我が家のように、欠けても気にならない安物のマグを使っている場合には問題ない。
さて、ドリッパーの素材にはプラスティックの物もあれば、金属製や陶器製のものもある。そそっかしくかつめんどくさがりの私には、雑に扱っても壊れにくく錆もしないプラスティックが妥当か。
フィルターはaのつく通販で簡単に手に入れば良いとして、私はハリオ式をチョイスした。
これにはなんとコーヒー用の計量スプーンがおまけで付いていた。買わずに済んでちょっとお得だ。
さて。スーパーで買った、挽いてあるコーヒー豆。a通販で買ったドリッパーとフィルター。
これらをそろえた私は早速、コーヒーを淹れてみる事にした。
コーヒー豆の袋を開けると、鼻腔をくすぐる苦味を感じるコーヒーの香りがする。
ドリッパーに端を折り曲げたフィルターをセットし、既に挽いてあるコーヒーを1さじ。そしてとんとんと、豆を平らにならす。
次に雪平鍋で沸かしたお湯を用意する。
そのお湯をコーヒーポットへ移し……なんて気の利いたものは我が家にはない。
コーヒーポットの代わりを果たすのは計量カップ。
くの字の注ぎ口が付いた、耐熱計量カップに180mlのお湯を計る。
火傷しないように、くの字の注ぎ口からお湯をコーヒー豆に注ぎ込む。
世界的動画サイトで勉強したとおり、少しずつコーヒーを抽出していく。
途端に良い香りが部屋中に広がり、家族からも「凄い良い香りね!」と声が飛ぶ。
さあ完成だ。「コーヒーをどうぞ」と言って、家族に給仕する。
この一連の作業には、数分の時間がかかる。
インスタントなら湯を注ぎ込んだだけで出来るコーヒー。それにほんの数分、ちょっとした時間を付け足せば、眠気覚ましの黒い水はちょっと贅沢なアロマ水に替わってくれるのだ。
こうやって時間を使ってコーヒーを楽しむ酔狂な人になった私が、次に向かう先はもちろん、コーヒー豆専門店で豆を買う事であった。
スーパーで売ってる大量生産品でもあれだけの良い香りである。専門店で焙煎された豆の香りはいかほどだろうかと興味が出てくるのは当然だ。
酔狂な人初心者の私は、新たな興味への欲求を満たすべく、初心者でも行きやすい店をチョイスした。それは、ショッピングモールによくあるあの「K」から始まる食料品ショップである。
いろんな国のスナックやワインやチーズが置いてある、ちょっと狭い通路のあの店は、海外のお菓子が欲しくてよく行くので入った事がある。本当の専門店や喫茶店で豆を買う、これは初心者である私にはハードルが高いが、この店なら心理的ハードルは低い。
いろんな国のお菓子やジャムやソース。何に使うか見ただけでは分からない調味料が並ぶ店内。その中で、コーヒー豆はレジの横に設置されている。何も持たずにレジに並ぶのは始めてだ。
しばらく並んで、ついに私の順番が来た。
「えーっと、コーヒー豆を下さい」
店員さんは笑顔で応対してくれた。
「はい。それではどの豆になさいますか」
そう、コーヒー豆専門店には何種類もの豆が並んでいる。グアテマラだとかコロンビアだとか産地の名前の豆。そして店独自のブレンド豆。モーニング用だとかアメリカン用などだ。ここで難しい名前の豆をチョイスするのは上級者である。初心者の私は無難に、一番売れ線であろう物をチョイスした。
「この、一番左上を下さい」
「はい。豆はこちらのブレンドですね。曳き方はどうされますか?」
そう聞かれて、私は心の準備をしていなかった質問にドキッとした。
豆の曳き方だって? 何のことだ?
初めて行った鉄板焼きの店で、シェフにステーキの焼き加減を聞かれて、どう答えたらいいのか戸惑った若い頃をリバイバルするように、私は口ごもってしまった。コーヒー豆初心者の私は、コーヒーに挽き方の指定がある事を知らなかったのだ。
一方、店員さんはこのような状況に慣れたものである。こちらが固まっているのを素早く察し、こちらに質問を投げかけてきた。
「フィルターは何をお使いですか?」
「あ、えーっと。円錐の形で、紙のやつです」
「ペーパーフィルターですね。中挽きか中細引きが一般的ですがそちらで宜しいですか?」
「あ、はい。それでお願いします」
「豆の量は如何なさいますか」
「(100g単位で売ってる。でも100gは少ないよね)えっと、200gで」
「では200g、ご用意いたしますね」
あたふたしているさまをスルーしてくれた店員さんに丁寧に教えてもらい、何とか初めて専門店のコーヒー豆を買った。店員さんは滑らかに対応してくれたが、慣れないさまは少し恥ずかしい。
そんな、やっとの思いで買った私。新しい豆を挽いてくれている間、手持無沙汰のままカウンター横で待っていた。
次は私の後ろに並んでいた女性である。ちょっと上品な感じのその女性は、店員さんが問いかける必要も無いほど慣れた様子で、コーヒー豆を注文をした。
「このブレンドを、ペーパーフィルター用で200g、お願いします」
「はい、畏まりました」
……そうか。そう言えば良かったのか!
目から鱗が落ちる。
知るは一時の恥、知らぬは一生の恥。
私はその日、新たな呪文を覚えた。
新しい事を覚えるのは、ちょっとうれしい出来事だ。
その日買ったコーヒー豆は、とても甘い香りの良いものだった。
今もその香りを嗅ぐと、この日の事が頭に浮かび上がってくる。
今もコーヒー専門店で豆を買う時、私はあの日覚えた呪文を唱えるのだ。
「このブレンドを、ペーパーフィルター用で」
酔狂な遊び人の道を進めば、呪文を覚えるのです。