迷宮へと落ちてゆく
神の作った道具とされる神器には、摩訶不思議な力がいくつも宿っている。
その一つが、迷宮を作り出す力である。
地中深くに埋まっている神器は、長い年月をかけて、天へと向かって空間を階層状に作り出していく。
自身を見つけ出してもらうためなのだろうか。階段もその空間に設置されており、足のある生き物ならば、神器の元まで歩いていけるようになっている。
だが、何の準備も無しに、迷宮の最下層の中心に鎮座する神器まで辿り着くのは困難だ。
迷宮内は仕切り壁によって迷路になっており、″罠″も至る所に張り巡らされている。それらの罠は24時間ごとに再設置され、迷宮の中に危険が無くなることはない。
唯一、簡単に踏み入れられる。と断言できる領域が、迷宮の最上階、第零階層。
積み立てられた巨大迷路が、地上まで到達した時、一番上の階層の屋根と壁と罠はチリとなり、地面と下への階段だけが空にその中身を晒す。
こうして出来上がるのが、迷宮の入り口となる大穴であった。
大穴の淵に立つキュラスは、陽に照らされたその第零階層を見渡した。
「誰かに先越されないよう、急がないとね。特に、あの糞野郎には」
地面までの高さは20メートルほど。
壁に梯子がかけられているが、そこに手をかけて降りるのは面倒だったようで、彼女は跳ねて底に向かって飛び降りた。
衝撃が分散するように、手足を同時に地面に着地させると、彼女はすっと立ち上がり、足早に進んでゆく。
今の時間帯は真昼を少し過ぎた頃。まだ高くにある太陽は、この大穴の地面の半分以上を明るく照らしていた。
厚着の服の上に鉄の防具を部分的につけたキュラスは、他の冒険者に比べると軽装とはいえ、陽の下では十分に暑い格好だろう。
にもかかわらず、彼女は汗ひとつかいていない。
体の暑さを気にしないほどに、心がメラメラと燃えているからだ。
「絶対、先に神器を手に入れて、あいつをギャフンと言わせてやるよっ!」
キュラスの脳裏に浮かぶのは、自身が時間をかけて書き上げた地図の中身を盗み、挙句の果てに自分が書きましたといわんばかりにその中身を配布した男の憎い面だ。フルフェイスの兜で実際の顔は見えなかったが、醜悪な面をしているに違いないと決めつけて想像する。
嘲笑ってくるその顔を、今度は自分が神器片手に嘲笑ってやる。そんな思いを抱きながら、鼻息を荒くして大股で彼女は進む。
彼女のつま先の向く先には、四角くくり抜かれた穴があった。各階層毎にいくつかある、下の階層への階段だ。
キュラスは階段へと足を踏み入れた。
入ってすぐは上から降り注ぐ陽光が照らしてくれたが、階段を一段降りるごとにうす暗くなっていく。
階段の脇に設置されている松明の炎では足元が見えづらくなったころ、彼女は、降りる足を止めずにランタンに火をつけた。
足元の視界を確保すると、階段脇の光の列を目で追う。下方には、迷宮の第一階層を構成する地面が見えた。
「とりあえず、目指すは三階だね」
キュラスはそう言うと、階段を三段飛ばしで降りていく。あっという間に彼女は地面まで降り立つと、足の進む先に向いていた頭を上げる。
さぁ、ここからが迷宮だ。
壊れぬ壁や地面が複雑な道を織りなし、張り巡らされた罠が暗闇へと手招きしてくる。危険で、身のひり付く場所。
キュラスは降り立ったその場所から、いくつもある道に目を向ける。壁に設置された松明が、妖しくその分かれ道達を照らしている。
常人なら、身の竦む場所。
だが、彼女はすぐさま、微塵も警戒する気のないトップスピードで、そのうち一つの道に向かって走った。
地図に手を伸ばすこともなく、ただひたすらに突き進んでいく。やけになっているわけではなく、彼女の顔は目の鋭さ以外は平静そのものだ。
この一ヶ月間、毎日通った第一階層の道なんて、彼女は完全に覚えている。今更身が竦んだりするわけもない。
(一階から二階へはあっちの方の階段を降りて、二階から三階へは……ん?)
迷うことなく走るキュラスだが、ふと感じるものがあった。彼女は足を止めて眉をひそめた。
「……瘴気だね」
キュラスは自身の警戒心に従い、腰のベルトからナイフを抜きつつ真剣な表情を浮かべる。
瘴気とは、魔物が発するとされるナニカだ。正確に言うと、”瘴気を発する生物”が魔物と分類されている。
瘴気の中では、魔物以外の生き物達は独特の不快感を覚える。
キュラスは皮膚の下を何かが蠢くような生理的な嫌悪感から、自身の近くに魔物がいることを感じ取った。
瘴気の小ささから、大した魔物ではない。手に持ったナイフで楽々対処できるだろう。
彼女が迷宮の角から顔を出すと、通路の端っこにいる獣が目に入った。
リスの姿をした1メートルほどの大きさの魔物で、キュラスと目があった瞬間、小さく震えた。その左足は折れており、引きずって歩いたのであろう床の掠れた血の跡が、壁の松明に照らされ暗い光を返している。
迷宮には魔物を産みだす機能はない、が、所有者のいない神器は魔物も惹き寄せる。結果的に、迷宮には魔物を誘引する機能があるのだ。
魔物達は外から迷宮の最奥へ向かおうとやってきて、大穴を落下し、階段を転げ落ちる。
この第一階層にいる魔物はそうして負傷し、登ることも下の階層に降ることもできなくなった弱い魔物が大半である。
キュラスがナイフを構えたままそのリスの魔物を睨むと、魔物はつぶらな瞳を潤わせ、両腕で頭を抱えて縮みこまった。
彼女は脱力した。弱いものいじめをしてる気分だ。
口元を緩いへの字に曲げて、彼女はつぶやいた。
「魔物はぶっ殺し推奨、だけど、こりゃ、ねぇ…………他の冒険者に任せよう」
彼女はナイフをしまい、先を急ぐことにした。
負傷した魔物と出会ってから5分ほどで、キュラスは下の階に降りる階段の一つにたどり着いた。
四角い入り口から下の階を見下ろしつつ、彼女は深呼吸する。
「さて、降りる前に落ち着かないとね」
見下ろした先、第二階層までの階段の側面に付けられた松明の数は、第零階層から第一階層に降りる階段のそれよりもはるかに少ない。
第一階層までは冒険者組合の職員が管理している松明が存在するが、第二階層より下は冒険者達が自主的に取り付けた松明しか存在せず、火を維持できているものに限れば更に減ってしまう。ランタンが無ければ探索は困難なレベルだ。
先を見通すのが難しくなり、更に、とある理由からキュラスはこの先の道を片手で数えられる程度しか通っていない。
第一階層のように最高速度で駆け抜けるのは難しく、地図もたびたび確認する必要がある。
第二階層に降りてしまえば、物理的にも記憶的にも先の見辛い暗黒の中、高所からの落下に耐えられるレベルの魔物が襲ってくるようになるのだ。
ここから先は絶対に冷静さを失ってはいけない。
それを念頭に入れつつ、キュラスは未だ残る怒りによる心の揺らぎを、極限まで抑えた。
ナイフを抜いて、ランタンを片手に、キュラスはゆっくり階段を降りていく。
しばらくして、そろそろ地面につくくらいまで降りた時、階段を降りた先の曲がり角から明かりが漏れ出してきた。一応階段の上からナイフを構えるキュラスだったが、向こうから現れたのは上機嫌な様子の冒険者パーティだ。
彼女はそれを認識すると、ナイフを下げる。
瞬間、ガードを解いたそこに、見知らぬ冒険者パーティの会話が殴り込んできた。
「随分と楽だったな。魔物の肉も大量だ」
「へへ、こんな短時間でこの成果。もう一回潜れちまうな」
「地図に罠の場所まで書いてあるから、魔物を誘導してやれば簡単に倒せちまう。地図をくれたあのイナバって冒険者には感謝だぜ」
重そうな箱を背負った3人組の会話が耳に入って、キュラスの心の揺らぎを抑えていた枷が爆発四散した。
彼女の中で、再び怒りの炎が膨れ上がった。
糞野郎に功績が奪われていることに、彼女は我慢ならなかったのだ。
脳から冷静さが抜け落ちていく中、彼女は青筋を浮かべながら、階段の残りを降りた。
そんな彼女の正面からやってきた冒険者3人組の男達は彼女を視界に入れると、男達同士で目を合わせて、すぐに軟派な笑みを浮かべて彼女に話しかけてくる。
「おっ、そこのお嬢ちゃん、独り?」
「君も地図を貰ってきたのか、でも女性一人は危ないぞ」
「そうだぜぇ、俺たちと一緒……に…………ひっ」
男達を見上げたキュラスの顔には、青筋が次々に浮かび上がり、殺意が顕現していた。
目は鋭く、噛み締める歯は八重歯が立ち、顔は真赤で鬼のようだ。
絶句する3人の冒険者をそのままにして、キュラスはその場からかき消えた。全力で走り、壁の向こうから壁の向こうへ。
彼女の心は冒険者組合内で感じた悔しさを、そっくりそのまま取り戻していた。
そうだ。1秒でも早くアタシのお宝を手にしなきゃってのに! チンタラやってる場合じゃない!三階までは探索済みなんだ。とっとと走り抜いてやるッ!!
人の一生は蝋燭に例えられることがあるが、彼女の蝋燭の芯にはニトログリセリンでも染み込んでいるのだろうか?
危険性なんて知ったことかと、衝動のまま1階よりも速い速度で突き進む。地図も開かず、記憶頼りで道程を決めて、罠の警戒もほとんどしていない。
勢いだけなら快進撃。しかし、理に基づかない行動をする者はどこかで躓くものだ。その時はすぐにやってきた。
キュラスの皮膚の下に悪寒が走った。
「っ!」
焦りが生まれたキュラスは、足を止めた。金の瞳が忙しなく辺りを見回す。その行動は理の有る行動だった。
そのお陰で、斜め前方から突如飛び掛かってきた節足の魔物に────今感じた瘴気の発生源と思わしき魔物に、彼女はナイフの振りを合わせることができた。
ぱきり、と快音が鳴る。魔物の甲殻を砕いたのだ。
ナイフに両断され中身を飛び散らせるその魔物は、尾先が平たいことを除けば、蠍の姿をしていた。
キュラスは小さく息を吐く。
「よし……っ、いや、まだ!?」
蠍の魔物の遺体が地面に転がっても、魔物が絶命すれば消えるはずの瘴気は収まらない。
まだ、他に魔物がいる。
キュラスが思考を巡らせた時、彼女の死角の壁から同時に、数体の蠍の姿をした魔物が飛び掛かってきた。
微かな風切り音に振り返り、飛びかかってくる蠍を迎撃しながら、彼女は次々とやってくる同じ姿の魔物を見て、自分が今どこにいるのかを完全に理解した。
ここは巣だ。
1つ道を間違えてしまった彼女は、顔剥ぎ蠍という魔物の巣に入り込んでしまったのだ。
蠍を迎撃しきると、次に液体が飛んできた。ランタンの光で綺麗に輝くそれらは、蠍が尾の先から出した毒液である。彼女は後方へ跳んでそれを避けた。
すぐさま、彼女は”ナイフの背を舐めて”、毒液の水溜まりの中へとナイフを投げる。蠍の魔物達はそのナイフへと次々に飛び掛かっていき、彼女の方へ飛んでくるものはいない。
その隙に、キュラスは自身の息を止めて口元を押さえながら、目をつぶって、非常にゆっくりと後退していく。この蠍たちは動いている物と、自身の麻痺液がかかっているものしか認識できないのだ。
自身のミスで陥った状況に、キュラスは素早く、適切な対処ができた。
危機的状況で命を繋ぐ選択を撮り続けられるのは、彼女が優れた冒険者の才を持つことの証明だ。以前潜った時の経験を、今瞬時に引き出すその能力。
その力を以って、彼女は躓きから立ち上がった。失っていた冷静さを取り戻したのだ。
まぁ、取り戻すのが僅かに遅かったが。
キュラスが瘴気から抜けて、一安心の息を吐いた直後に、自身の足が硬いものを踏んだのを感じ取った。
罠の起動板! 巣の近くにあったのは確か…………
「落とし穴────」
床が開く。
浮遊感に包まれたキュラスは、周囲が遅くなったような錯覚を覚えた。
下の階への、数十メートルの落下。
今は真っ暗で見えないが、この落下の先には長い針が敷き詰められていたはずだ。以前第三階層探索時に見たその存在を、彼女はよく覚えていた。
このままだと、針に貫かれて死ぬ。
「ぐ、う、ああっ!」
手から離れていくランタンも気にせず、キュラスは全力で壁を蹴った。
落ちていく身体に、鋭い針がわずかに掠める。
すんでのところで、その針山の脇の通路に転がり落ちることができた。
防具の向こうから響いてきた激突の衝撃を受けて、彼女の肺から空気が抜ける。
彼女は両手で地面をついて、酸素を可能な限り取り込もうと肩で息を繰り返した。
暗闇の静寂の中で、彼女の呼吸音だけがはっきりと自己を主張する。彼女は何とか、窮地を脱することができたようだ。
「はーっ、はーっ……ふぅぅ」
気分が落ち着いてきた頃に、彼女は立ち上がり背後の針山に目を向ける。辺りは暗く、彼女の目には何も映らない。
彼女は、落としたランタンを探すための明かりが欲しくなった。
……仕方がないね、魔法を使おう。
「宣言、4鎖。《火》=〈魔纏〉=〈操作〉=〈瘴気対抗〉」
彼女がそう唱えると、彼女の右手から青白い鎖が伸びてくる。
針山があるであろう方に手を向けて、二の句を述べた。
「【炭追い】」
【魔法名】を宣言すると、鎖は砕けて、彼女の右手から細長い火柱が現れた。
彼女はその火柱を持って、辺りを見回す。
キュラスは、なるべくならこの魔法は使いたくなかった。手には非常に馴染むのだが、使うたびに初めてこの魔法を使った時のことが頭をよぎるのだ。
取り落としたランタンが回収できれば、この魔法を使い続けずに済むのだが……。
「ダメそうだね。くそ、しくじった」
残念ながら、光源の取り替えはできないようだ。
ランタンは針の先端に突き刺さっていた。3分の1ほどが割れて無くなっており、もう光源として使えなさそうだ。
キュラスはため息をついて、そして、何かに気がついた様子で、腰のベルトから地図を抜き取って片手で広げ見た。
地図を持つ手が、わなわなと震えだす。
「……しかも、この場所は”行き止まる方”の三階通路。最悪だ。一階まで戻らなくちゃならない…………くぅぅぅぅぅ」
この迷宮の第二階層と第三階層はそれぞれ2分されていて、もう一方の通路群へとは行けないようになっている。
第三階層の”こちら側”には第四階層への階段は存在せず、進めない。
第三階層の”むこう側”にはあるのだが、第二階層へ上がったとしても第二階層の”こちら側”から第三階層の”むこう側”に降りる階段は無い。
先ほどまでキュラスが進んでいたルートが、第四階層へ降りることのできる唯一のルートであり、今彼女がいる場所からそのルートに戻るには、第一階層まで一旦上らなくてはならないのだ。
衝動に突き動かされた結果、彼女は大幅なタイムロスをすることになった。
気力が彼女の全身から抜けていく。
肩を落とす彼女の視線は、再び針の先に突き刺さった割れたランタンへと向かう。
第一階層へ戻るなら、地上に戻るも同然だ。
ランタンの換えを持ってくることはできるし、何なら、迷宮探索自体を明日に回すこともできる。
ケチのついた今日の探索はここで切り上げて、明日以降、気力十分になってから再度潜る。かなり無難な選択肢だろう。
キュラスは、頭に浮かんできたその選択肢を……何故か、選ばなかった。
彼女には直感があった。『今日を逃せば、神器は二度と手に入らない』という直感だ。
根拠のないそれに、彼女は付き従うことにした。
「一階に戻って、降りなおさないとね。ランタンだけ取りに戻るのも面倒だし、灯りはこの魔法で済まそうか、はぁ」
地図をしまうと、彼女は替えのナイフを取り出して、それと炎の柱の二つを構えたまま、第二階層へ上る階段へと向かっていった。
◆◆◆
全身鎧を着込んだ男、イナバは迷宮の第一階層から第二階層へ降りる階段を、ゆっくりと降りていた。
「道理で、今まで四階へ降りる道が見つからなかったはずだ。まさか道が分断されているとは」
イナバは、自らの考えの至らなさを嘆くように、ため息混じりでそう呟いた。長期間探索してなお、その発想に至らなかった自分を悔いているようだ。
彼がこの迷宮の探索を始めたのは、キュラスよりも早い時期である。この迷宮が出現した2ヶ月前、彼はこの近くの別の街にいたのだ。
彼はその街へ、病気で療養中の姉に会いに行っていた。
遺伝性の病気が悪化して倒れたと聞いて、自身の働いていた『王都』から慌ててその街に向かったあの日の焦りが、彼を今も灼いていた。
母を奪い、母のために無理をしていた父の気力を命ごと奪っていったその病気。母と同じなら、姉の命は倒れた日から半年ほどしか保たない。
そして、助ける方法は、彼が今持つ全財産をはたいて、ようやく半分担えるほどの高価な薬を投与するしかない。
そんな時、偶然近場に出現した迷宮は、彼にとっては救いの手であった。
冒険者登録をして、薬代のために神器を手に入れようと毎日毎日朝から晩まで同じ道を必死に潜っていくうちに…………第三階層で、行き詰まってしまった。
いくら探索しようとも、第四階層への道は開けない。
第三階層で足止めされて、数週間。
無為な探索を続けるうちに心身共に疲弊して、そんな時に、神官服の男に声をかけられたのだ。
『お困りのようですねぇ。……ワタシが誰かって? ご家族のため迷宮に潜るあなたに心打たれた者ですよ。ワタシがお金を差し上げても構いませんよ。ワタシに協力していただければ、ね』
イナバは藁にも縋るつもりで、名も知らぬその男の言葉に同意した。
モノを『複製』する力を持ったその男は、翌日には迷宮の地図の束をイナバに渡してきた。
地図に軽く目を通して驚いたものだ。かなり詳細に書いてある上、地図上の第二階層と第三階層に自分の知らない道があったのだから。
『これは……! 一体どこから、こんな地図を』
『ふぅむ、然るべき筋からとでも言っておきましょうか。さて、これ一組を提供する代わりに、あなたにはこの束を冒険者組合で配ってもらいましょうか』
奇妙な提案だったが、当時イナバは理由を聞くこともなく首を縦に振った。停滞する現状を打ち砕く鍵となるその地図が、何としてでも欲しかったからだ。
そして────
「地図の製作者の彼女には、本当に悪いことをしてしまった。共にこの地図を埋めたであろう、彼女の仲間にも」
全身鎧の内側で、イナバは苦々しげな表情を浮かべる。
キュラスと呼ばれた赤毛の少女。冒険者組合で見た彼女の目を思い出すたびに、彼の心臓は震えた。
彼女が向けてきたあの否定の視線は、自分に向けられて当然のものだと、彼は頭では理解していた。
「…………何よりも優先すべきは、金を手に入れて病気を治すこと。彼女達に謝りに行くのは、それからだ」
第二階層に降り立ったイナバは例の地図を取り出し、兜の隙間から道を確認して進んでいく。
暗闇の中、ランタンを頼りに、彼の瞳は地図を追う。彼は自身の知らなかった道を示してくれるその地図に釘付けだ。
「次は3つ目の角を左に……む」
イナバは、自らの肌裏にぞわりと響いてきた不快感に足を止めた。
魔物の放つ瘴気だ。近くにいる。
彼は地図をしまうと、腰から剣を引き抜いた。闇を拭うように、ランタンを動かして瘴気の発生源を探す。
やがて、壁の上方にそれらしきものを見つけた。
「あそこにいるのは……蠍?」
明かりがかろうじて届く4メートルほどの高さの壁に、節足の生き物が張り付いている。
それの足は壁に接したまま微動だにせず、ヘラのように平たい尾先だけをゆらゆらと揺れている。
イナバにとって、見覚えのない魔物だ。第二階層の”向こう側”では出会ったことがない。
無視するか? いや、他の冒険者があの位置にいることに気がつく前に攻撃されるかもしれない。仕留めておこう。
彼は魔法で攻撃するため、剣を掲げる。
「宣言、2────」
呪文を唱え始め、剣の先から鎖が伸びる予兆である青い光が出現した、その瞬間に、彼の掲げた腕に背後から蠍の魔物が飛びついてきた。
イナバは面食らって、腕を慌てて振る。
「他にもいたのかっ!?」
イナバが腕を縦に振るううち、飛びついてきた蠍は振り落とされた。
彼が地面に転がったそれを仕留めようと剣先を向ける。だが、剣を刺しこむ前に、頭上から油のようなぬめりのある液体が降り注ぎ、彼の全身鎧を濡らした。
兜の隙間からイナバは頭上を見る。最初に見つけた蠍が、平たい尾先を真っ直ぐ彼に向けていた。液体はそれが放ったもののようだ。
この液体は何なのか?
彼がその疑問にたどり着く前に、答えがやってきた。
なんだ、これは、身体が……!?
鉄兜の中で呼吸するたび、隙間から入り込んだ、苦い空気が舌をなぞる。
味を感じるたびに、舌の上に何かが積もり、同時に彼の身体から力が抜けていった。
液体の正体は、麻痺毒。
瞬時に気化し、獲物が出した涎や汗などの体液と混じり合った場合、微細な匂いを発する固体へ変質する。
その匂いは、蠍の魔物たちにとっては獲物の香りだ。
立つ力を失い仰向けに倒れ込んだイナバへと、二匹の蠍が飛びかかった。
ヘラのような尾が、何度も、何度も彼の兜に叩きつけられる。少しずつ凹んでいく兜の裏面を目にしながら、彼はここに至ってようやく″詰み″に気がついた。
ここで、こんなに呆気なく死ぬのか? 俺は。……罰が当たったのか?
彼の目にも、気化した毒液が付着して固まってゆき、目の前が暗くなる。
痺れにより、皮膚の感覚も消える。
蠍の尾が鉄兜を叩く音と、兜に穴が空いたような掠れた金属音を遠くに聴きながら、彼は何も見えない瞳に、病気で青い顔をした姉と……地図の持ち主であった女性の、涙の浮かんだ顔を映していた。
ごめん、姉さん。俺は、最低な──
彼は後悔に沈み、意識を失っていった。
……
…ー
あー、ごほん
「あー、あー。聞こえるかい、最低泥棒ヘドロ糞野郎」
数時間後、イナバの意識を覚醒させたのは、聞き覚えのある声色だった。