職場
「お早う御座います」
「おー、おはよう火乃華」
職場に着いた火乃華は同僚の鬼と挨拶を交わし、財布と鍵をロッカーに入れ、そのまま喫煙所へと向かう。
その様子に同僚が苦笑いしつつ、
「お前なあ、そのうち煙草の煙で窒息しちまうぞ」
と冗談を言う。
「煙にまみれて死ねるなら本望ですけどね」
これまた火乃華も冗談で返し、喫煙所へと足を進めた。
始業までの10分、この間に一服するのが火乃華のルーティンワークだ。喫煙所のベンチに腰掛けて足を組み、懐から取り出した煙草を咥えて着火する。肺いっぱいに煙を満たしつつ、今日やるべきことを思い出していく。
――昨日の悪霊確保の報告書を作成して……
――班長に文書の確認を催促して……
――文書……文書?……あ。
「課長の所に行かなきゃ……」
本日中に課長決裁を取らねばならない文書があることを思い出し、溜め息とともに煙を吐き出す。
火乃華の職場は「悪霊対策課第一班」。あの世とこの世を行き来する、地獄直轄の部署だ。
この世界には、生者が生活を営む「この世」と、死者の霊魂や妖怪、そして鬼といった“この世ならざるもの”が生活を営む「あの世」が存在する。
あの世は更に天国と地獄に分かれており、人間は死後、「十王」と呼ばれる十人の裁判官によって生前の行いを裁かれ、天国行きか地獄行きかの判決を受ける。生前、悪行を働いた人間は地獄行きとなり、罰として地獄の鬼(獄卒)たちから拷問を受けることになる。
大抵の裁判は滞りなく行われるのだが、中には判決に困る事例が存在した。それは「悪霊によって殺された人間」である。
悪霊が個人的に恨みを抱いて殺された人間の場合、その恨みを買った原因を解明すれば判決は容易い。殺された人間が悪行を働いた結果、悪霊に恨まれ殺されたのであれば地獄行き、殺された人間に非が一切なく、悪霊の一方的な恨みによって殺された場合は天国行き、といった具合だ。
一方、悪霊の二次的被害によって死んだ人間の裁き、これがややこしかった。悪霊の中には呪った人間の子孫にまで影響を及ぼすものがいる。呪われた人間に非がある場合、その張本人の裁きは先述のように容易いが、その子孫に非がなかった場合、呪われた人間の業を子孫に課すか、それとも情状酌量とするかで裁判官の意見が分かれることがあった。また、悪霊に取り憑かれたことで悪行を働いた人間に関しても、その悪行を取り憑かれた人間の非とするか否かでこれまた意見が分かれることがあり、判決までの間、他の裁判が滞るという事態が発生するのだった。
この他にも悪霊関連の裁判には十王たちも悩まされることが多く、そもそも悪霊自体が裁かれる側の霊魂であり、此の世に存在させておくべきではない、と考えられるようになった。
そこで設立されたのが「悪霊対策課」である。この世に存在する悪霊を取り締まり、あの世へと引き渡すことが主な業務だ。四班で構成されており、それぞれの班が担当地区の悪霊の監視・確保を行う。
あの世とこの世を行き来するには専用の通路を通る必要があり、その出入口はあの世とこの世の各地に点在する。そのため、悪霊対策課の事務所は班ごとに設けられ、各担当地域への行来がしやすい場所に設置されている。
だが、火乃華が今日中に会わねばならない課長は、課長補佐とともに「悪霊対策課 本部事務所」で業務にあたっている。そこは火乃華の所属する第一班の事務所から歩いて30分ほどかかるため、余程の用事がなければ行くのを躊躇うところである。が、今日中に課長印をもらわねばならない以上、躊躇している場合ではない。往復一時間分、仕事が滞るのは痛いが仕方ない。
火乃華は一服を終えると悪霊対策課第一班の班長・金熊童子の元へと向かった。
酒好きの赤鬼である金熊童子は、昨夜の酒が抜けていないのであろう、ただでさえ赤い顔が更に赤くなっていた。
「班長、本日中に課長印を頂かなければならない決裁文書があるので、本部へ行ってまいります」
おぉ、と金熊童子は赤い顔を火乃華に向けると
「りょォかい!それなら、ついでにこの文書たちにもハンコもらってきて♡」
と言い、大量の文書が入った袋を渡してきた。
「親分と兄貴によろしく言っといてねェ~」
朗らかに手を振る金熊童子に溜息を漏らしつつ、大量の文書とともに火乃華は本部へと向かった。