005 幸せを運ぶ小人さん- 母と娘のチョコケーキ -
…またリビングの家具レイアウトが変わっている。
「お母さん、ここにあったタンス移動したの?」
「ええ?んー…さぁ?私やってないわよ?いつも、なんかいつも人?えっと、友達?が来てるみたいで、その人たちがやったんじゃない?」
ほい。母が移動した。確定。
「そっか。移動してどう?使いやすい?」
「そうねぇ。手の届くところに引き出しあるから便利ねぇ。こんなふうにしてくれて、助かるわ!」
助かる。うん、助かるよねぇ。それ、自分でやってるんだけどさ!
母はいつも、自分で家具を移動する。
母の中ではいつも来てる人、母は友達と言うけれど、まぁつまりヘルパーさんがやってくれたことになっている。
でも、ヘルパーさんとの連絡票にはそんなことは報告として書いてないし、特別電話などもない。
毎週何かが変わってる。
しかも、移動するのはほとんど大物だ。私でも一人で移動させるのは、遠慮したいくらいの。
いつも思うんだけど、認知症も発症して、200m歩くと足が痛くて歩けないほど、筋力も体力も衰えている母だよ?なのに、こんな重いもの運ぶバカ力、どこに潜んでるんだろう?
おまけに、自分で移動したことも忘れる。
他の誰かがやったことになってる。
「…あ、お母さん、ご飯自分で作ったんだ」
座卓の上に、煮物をみつけた。
自分で作っているのか、出来合いのものなのか様子を見ながら、母に聞いてみる。
「え、あー…いいえぇ、なんだっけ、それもね、友達が作ってくれたの」
ほい。母が自分で作った。確定。
「お友達? おー、ありがたいね、お友達来たんだね」
「そうそう。えーっと、最近よく来る…」
ヘルパーさんだ。
食事も、ヘルパーさんには依頼していない。
と言うか、食事の用意は別プランとなる。対応時間も変わって30分伸ばさないと、食事作りには対応してはくれない。
もちろん、利用料金も変わる。だから今の契約だと、彼らはいくらやりたくてもできないのだ。
つまりこれも、100%ヘルパーさんは作っていない。
それに、「友達がやった」と言うことは、いつも自分でやったことなんだ。
だからその時点で、自分で料理していることがわかる。いいの。それだけ確認できればいい。
「誰だっけ…そう、友達…友達よ。んー、まあね、とにかくなんか、作ってくれたのよ。えーっと、誰だったかしら…」
誰だか思い出そうとしている。
あ、ダメ。
そっから先、行ったらダメ。
思い出したら、母の幸せが逃げる。ここら辺で止めておこう。
「そうなんだ!うん、良い香りだね。おいしそう」
「そうなの。おいしいのよぉ。母さんの味みたい」
母の母。つまり、私の祖母の味。
私は、祖母は覚えていない。
肝の据わった方で、数々の武勇伝を母の話で聞いている。
とは言っても母娘の話だ。どこまで本当かわかったもんじゃない。
それに母は話を盛る。それはそれは盛る。この人の話盛り癖は、認知症だけのせいじゃない。絶対。
それでも、以前はもう少しマシだった。
いまは、それはそれはダイナミックに、躍動感あふれるストーリーを紡ぎ出す。そうなると、どこまでが本当かなんて分かるわけもない。
祖母は、小さい頃に膝に抱かれた写真や、手を繋いで歩く写真、そういう記録はあるけれど、私が3歳の頃に亡くなっておりあまりよく覚えていないのだ。
母の料理のいくつかは、祖母直伝らしい。この煮物も、祖母直伝だと聞いたことがある。
ということは、間違いなく母の料理だ。
でも、それは言わない。
言ったところで、意味がないのだから。
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私もはじめはビックリした。
腰が痛い。
足が痛い。
背中が痛い。
手も痛い。
あそこもここも、どこも痛い。
そんな「痛い」ばかり言っている母。なのに、行くたび大物家具が移動している。
それに加え、何でも捨てる。
この間なんて、ベッドが真っ二つになってた!鋸で切断して!
母は捨てるつもりと言ったけれど、いや真っ二つにしなくても廃棄できるから!と思わず叫びそうになった。
そもそもリウマチで手固まって、箸握るのも一苦労じゃなかったっけ!?
なのに、鋸を握ってベッドを切断することは出来たらしい。
もうなんだそれ。魔力か。ファンタジーか。ここは魔法使える異世界か。転生したんか私。
それくらいビックリした。
そもそもだよ?
そんなことしてるから、あちこち痛いんじゃないの? そうツッコミたくもなる。
認知症の専門の先生方や、介護の方々に話を伺うと、訪問する度家具の位置が変わっている、ということは、よくあることらしい。
それがどういう理屈かは分からないけれど…
移動して、ほっとする。
収まるべき場所に収まったと思う。
でも、翌日になると、居心地の悪さや、違和感を覚えてまた移動したり元に戻したりする。
永遠に終わらない積み木のように、身体が動く限りそれを繰り返すのだそうだ。
認知症独特の症状。なるほど。それなら、監視してない限り止められない。怪我が心配だけれど…。
とりあえず、移動されていることに気付かせることを言い続ければ、少しは心に引っ掛かるかな、そうすれば怪我のリスクも少しは減るかな、と思って声掛けだけは欠かさないようにしている。
でも。
声掛けをすると、いつもこう帰ってくるのだ。
「なんか、いつも来る友達…?…がやってくれたのよ」
友達? それ、ヘルパーさんのこと?
「友達?ヘルパーさんじゃなくて?うーん、でも連絡ノートはそんなこと書いてないよ?うーん、どうなんだろう…」
こんなやり取りを何度かするうち、「ん?」と思った。
これ、本当のこと教えていいのかな?
否定しちゃいけない、何か大事な意味があんじゃないのかな?
「友達がやってくれた」という言葉が出るようになってから、数回目の訪問時の帰り、少し母の心と思考を追ってみた。
認知症になっても、思考力はまだ残っている。
自分なりに、「その瞬間に」認識した現象を、まだらになっている記憶や、はっきり覚えている過去の記憶を組み合わせ、筋道立てて理解しようとする。
だから母の言うことは、その「まだら」と「過去」を拾っていけば、自然に描かれたストーリーが浮かび上がってくる。
事実かどうかは分からない。というより、重要なのはそこじゃない。
母の心の中に何があるかを見つけるために、少し考えなきゃと思ったのだ。
大物家具が移動され、それについて私に問われ、でも自分でやった記憶がなく、人にやってもらったことになっている。
これを整理すると…。
いつも来る人、つまりヘルパーさんのことだ。
でも母は、来たその瞬間はヘルパーさんと認識しているけど、一人の時は自分がヘルパーさんのお世話になっていることを忘れている。
たとえ誰かと会っていたことを覚えていても、それがヘルパーさんだということは忘れ、違う関係性の誰か、と思っている。
身内でも介助者でもなく、違う関係性の人と言ったら。
ここで分かる。それは友達だ。
もちろんいまこの家に、実際に友達が来ることはない。
この家にすぐ通える範囲内に、母が仲良くしていた友達はいない。既に亡くなられたり、遠くに引っ越したりしている。
でも母が「友達」と言う時の心は、友達が近くにいた頃に戻っているのだろう。
そして、こう考える。
そうよ。友達がここに来たのよ。
あの人が私の生活を見て、便利なように考えてくれたのよ。
そして、家具を移動してくれた。
ああ、そうよ絶対。
まぁ、なんて有り難いのかしら…。
こうして何度も辻褄を合わせるうち、母の中でその友達はリアリティを持った存在になっていく。
その友達は、いつしか足繁くここに通うようになり、甲斐甲斐しく大物家具を処分してくれたり、移動してくれたり、ご飯を作ってくれるようになったのだ。
そして。
やってくれてありがとう。気にかけてくれてありがとう。
そんなやさしい気持ちが心に溢れ、感謝し、ちょっと幸せな気分になるんだ。
まるでおとぎ話に出て来る、幸せを運ぶ小人さんだ。
そんな小人さんが、母の心に住んでいる。
はじめは、母のそんな言動や思考を、ものすごく切なく思ったよ。
胸が張り裂けそうになって、泣いたよ。
だって考えてもみて?
居ない誰かを作り出して、寂しさを癒して…そんなのって!
そう思って、思いっきり泣いたよ。
本当は、そんな人いないんだよ。全部ぜんぶ、自分でやったことなんだよ!
そう言いたかった。
でも、違う。これは指摘することじゃない。今ならわかる。
母は、精神を病んでそうなったんじゃない。
もう元には戻れない、老化から来る脳の萎縮や脳の血管の働きの鈍化によって、そうなっているんだ。
そして…人生のゴールが近いことも、確かなんだ。
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母の描いた妄想に話を合わせる。
はっきり言ってそれは、話を受ける私が、嘘をつくことになる。
さらに、嘘の上に成り立った心地よい場所、そこに母が安住することを許容することだ。
普通に考えたらそれは、アウトな許容だろうね。
「厳しい現実に打ち勝て」「現実を受け入れろ」
もし妄想を抱いているのが私たちだったら、そうなるだろう。
けれど。
母はもう、恐らくこの先十年はない。五年もないかもしれない。
しかもその間、自由が利く、自分の意思で生きられる期間はもっと短い。
戻ることが許されない人に、それより良くなることが望めない人に、そんな現実を告げたところで何になるのだろう?
自分の正義にしがみついて、相手の状況を正しく把握せず、正しさだけを通そうとするならば、それは害悪でしかない。
そうなんだ。努力や正しさこの先が良くなる、良くなって欲しいっていうのは、無意識に「将来の希望」を抱けるだけ先がある、そう信じてるから作れる話だし、共感する話なんだよ。
脳の働きが、いまこの瞬間より改善された未来はない。
良くて現状維持。でもそう遠くない将来、悪化は避けられない。
それが分かってるなら、許してもいいじゃないか。
幸せを届けてくれる小人がいる。それを許容したっていいじゃないか。
母だけの、母の心の中にだけに住む小人さんがいたって、いいじゃないか。
恐らく認知症になると、心のどこかに、ぽっかりと穴が空いた部分できるのだろう。
その穴を埋めようと、必死になるのかもしれない。
だから、幸せを作って詰め込むんだ。
その幸せは、母の場合「誰かが自分を気にかけてくれること」なんだ。
そんな幸せなら、誰にも害はないじゃない。
ならさ。このまま「誰かがやってくれた幸せ」を詰め込んでおいてもいいでしょう?
少し時間は掛かったけれど、今ではそう思えるようになった。
だから私も、母がそんなことを口にするたび、心の中で感謝する。
母の中の小人さん、いつもありがとう!
「うん、お友達の煮物、おいしいね!なんか懐かしくて、心がホカホカする。私これ好きかも。こういうおかずはありがたいね」
「あら、そうね、琴音も好きなら…また作ってもらおうかしら」
母の味のする煮物を頬張りながら、私たちはホクホクの笑顔で心の中の小人さんへの感謝を口にした。
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煮物を食べ終え…というか、殆ど私が食べたんだけど…、コーヒーを淹れる。
今日は、終始母の機嫌がいい。
先日散々喧嘩したことも綺麗さっぱり忘れ、私が来たことを喜んでいる。
きっとリハビリの日じゃないって、私の雰囲気から分かったのだろう。
リハビリの日は、母が嫌がることが分かっているから、私もどこか緊張している。そのピリッとした空気感を、母は察知するのだ。そして、身構えてしまう。
夫のノリにも言われるけど、どうしても気持ちを隠し表情を繕うのは苦手だ。
もちろん職場とか仕事の交渉では、いくらでも繕える。
ところが、この場合相手は家族だ。仕事での表情の繕いなど役に立たない。全部見透かされてしまう。何重に仮面を被っても、全然間に合わない。
でも今日は違う。私はユルユルのメンタルで母の住む実家に来た。
今日私が来たのは、体温計やお薬カレンダーを届けるためだ。
あと、家の中に壊れている電化製品だったり、家具に不都合がないかを改めて見に来た。そこに不具合があったら、私が写真を撮り兄に報告する。
それを見た兄は、後日兄自身が修理しに来たり、修理業者を手配する手筈になっている。
ただそれだけだから、緊張することなんて何もない。
一通り確認したら、テレビ見たり世間話をして帰るだけだ。
私がユルユルなもんだから、母もユルユルだ。の~んびり、私がさっき淹れたコーヒーをすすってる。
煮物のあとにコーヒー?と思われるかも知れないけど…それにはちょっとした理由があってね。
「あ、そうだお母さん、いまちょうどコーヒー飲んでるから…」
「うん?なんかあるの?」
私は、ディスカウントストアでたまたま見つけた、1袋2枚入りで50円の、ユー〇クのチョコケーキを取り出す。
このチョコケーキ、大好きなんだ。小学生の頃に発売されたらしいんだけど、その直後から私の大好物になった。
いつもいつも、このチョコケーキばかり強請って、母を困らせた。10枚でも20枚でも食べたかったけど、母は多くても2袋4枚しか買ってくれなかった。しかも、兄と半分こしろって。全部食べたら、ご飯食べなくなる、とか言って。
その恨み…思い出が記憶のどっかにこびりついていて、今では見かけると大人買いをしてしまう。
同じように大人買いする人がそこそこいるようで、売り切れ率も高い。
見つけたらホントに即買い。これは真剣勝負だ。
「あら。チョコケーキね。これあんた、よく強請ったわね。袋見ただけで、琴音の顔が浮かぶくらいよ」
「覚えてた?よかった!そう。私これ大好きだったんだよ。角の駄菓子屋さんで、よく強請ってお母さん困らせたよね」
母は認知症でも、昔のこと、特に私が小さかった頃のことはまだ覚えている。最近の短期記憶はすぐ消えるけれど。
母も、これを見てすぐ分かる。私の思い出と共に、二十年前のあの頃に戻るんだ。
嬉しくて嬉しくて、頬が緩む。母も笑みを浮かべてる。
「一緒に食べよう。懐かしの味!」
「フフ、変わってないのね、琴音は。すっかり大きくなったと思ってたけど、まだだまだ子供ね」
なに当たり前のこと言ってるの。そうだよ。私はずっと、お母さんの娘だよ。
そんなことを想いながら、そして…
私は幼い頃の自分の気持ちを。
母は、私が幼かった頃、一生懸命生き、私たちを育てていた頃の気持ちを。
それぞれ思い出浮かべながら、二人で想い出のチョコケーキを頬張った。
※ 次話は際どいの予定でしたが、思うところがありまた難航しているため、別の話を書いています。来週日曜には上げたいなと考えています。