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003 夫の想い。母の想い。二つの心を繋ぐもの。

001~002話の続きです。



 補聴器の壁貼り説明書は、なんとかかんとか完成した。



 2時間もあれば出来るだろう、と甘く見ていた。

 正確には「普通の説明書き」ならば、余裕を持ってもそれくらいで間違いなく出来る。


 けれど、いまは「認知症の母が分かる言葉」で、「認知症の母が分かる手順」で「認知症の母が嫌でも目に入る場所に貼り、絶対見逃さないサイズと体裁」で説明されたものを作らねばならない。


 このハードルはめちゃめちゃ高い。

 エベレスト?いやいや。控えめに言ってオリンポス山だよこれ。なんだその山?って火星の山だよ。太陽系で一番でっかい山。未知って意味も込めて。


 作っては直し、作っては直しで6回目。

 初めから作りなおすくらいの直しを入れて、やっとできた。

 時計の針は朝の4時を指している。



(す、すこし…寝る…)



 フラフラとベッドに行くと、夫はとっくに夢の中。

 ん?そう言えば、いつ帰ってきたんだろう?

 全然気づかなかった。いつもよりだいぶ遅かったな…




 ***************************



「あ、おはよう。いまヘルパーさんから電話があってね。ちょうど話し終わったところ」



 横でスマホを握っている夫が言った。


 夫が電話で話している声で、目が覚めた。

 あれ、もう朝か。

 寝てたんだ。 ベッドに突っ伏した記憶すらないぞ?あのまま倒れるように寝たんだ。


 すごい。爆裂寝つきの悪い私が、秒で落ちてた。



「…あー、おはおー…あへ、ヘルハーはんはら?」

「日本語崩壊してる。3歳児でももっと喋れるよ」



 爆笑する夫。

 うるさいな、寝起きなんだから仕方ないだろ。てか質問答えろよ。

 その前に。ヘルパーさんからの第一連絡先は私なのに、何故夫が話を?

 そう思いつつ、ひとまずそれは思考の外に放り投げ、寝ぼけ眼で時計を見た。



 …って、11時!



 マジか!ビックリだよまったく。一瞬時計逆さまかと思った。

 昨夜は朝10時半には家を出ようと思っていた。

 早く準備して実家に行かないと。説明貼りに行かないと。



 …ん?11時なのになんで夫がいるんだ?



 ふと疑問に思い、半分枕に埋もれながら夫の顔を眺めていると、夫が答えた。



「俺も有給取った。『妻方の介護が必要な家族の緊急要件だ』と言ったらすんなり取れた。今日の分も仕事上げてたから、終電になっちゃったよ。帰ったら(こと)圧五倍増し(あつごばいまし)の顔してPC食らいついてるから、そのまま静かにして寝たんだ」



 終電だったのかよ。しかも有給取ったのかよ。

 なんだよ遠慮とかいいから早く言え、このすっとこすっとこすっとこどっこい。

 てか「圧五倍増し」って普段でも圧強ぇ、更に昨夜は五倍増しってことかい?

 ねぇ、旦那サマ?



「琴にばかり負担かけてごめん。今日一人じゃきついだろ。何なら、俺一人で行っても大丈夫だよ。琴は休んでな。いや、命令したいくらいの気持ちで、休んで欲しい」



 うわーん!スキすき大好きシーファンニー!!世界でいちばん愛してる!


 夫が優しく私の頭をなでる。もうこれ、心地好すぎて眠くなる。あくび出ちゃった。


 ニマニマしながら、また布団をかぶ……いや駄目だから!

 いけないいけない。罠だこれ。でも好き。


 夫のナデナデは、何よりも効く精神安定剤だ。


 え?すっとこどっこいだって?誰が言った。言ったヤツ蹴り上げるぞ。

 え、それ私?いやいや言ってない言ってない。


 言・っ・て・ま・せ・んー!!


 そら見ろ。言ってないことになった。



「んー…いや、行く。お母さんの様子、直接見たいし、補聴器のこと、何度か言い聞かせないといけないし」

「おーい無理すんな。俺でも…」

「どうせ明日休みだもん。電車でも寝れるし。それに、孝範(ノリ)と最近散歩もしてないじゃない?だから、一緒に行こう?」



 そう。夫の名は孝範(たかのり)染谷孝範(そめやたかのり)

 いつも「ノリ」と呼んでる。

 フルネームを言うと、なんかどっしり優雅なカッコよさ。


 彼とは、私の知人の歌うたいさんのサポートメンバーとして知り合った。

 彼はベーシストだ。普段はエレキベース(エレベ)だけど、コントラバス(コントラ)もやっていて、オーケストラ(オケ)やカルテットでクラシック曲もよく演奏している。

 だからコントラの弓弾き(アルコ)指弾き(ピチカート)も上手いし、変幻自在で情感豊かな聴かせる演奏をする。


 なによりエロい。すんごい色っぽい。演奏の話だよ?


 同じ歌でも、ベース1本で世界観を自在に変える。

 彼の音使いは憧れだし、指使いも見惚れるし最高だ。演奏の話だよ?


 はじめ「ノリック」と名乗っていて、何それ昭和かよ、と爆笑したけど、その愛称は彼が幼い頃憧れていた、世界的な日本人バイクレーサーの愛称と同じだと知って、心底申し訳ない気持ちになった。



「憧れの人に近づきたい。そういう風に思い焦がれ抱いた気持ちを、絶対に笑ってはいけない。私は人として最悪なことをした。ごめん。」



 私が謝ったら、ひどく驚かれ、物言いや仕草が、元々は箏弾(ことひ)きなんて思えない、そんな優雅さの真逆でおっさんっぽい、と面白がられた。



 なんだそれ。褒めてないだろ。



 てかお(こと)はそんな優雅じゃねぇ。


 お(こと)は道具も多いし大きい。なにより運搬が大変だ。

 演奏も、ギターの弦3本分の張力が1本の糸(絃)にかかっている。

 それをグイっと指先で押し込んで音を上げたりもする。

 二本の糸を指先2本で交互に押し込んだりもする。


 そしてこれ。業界は女ばかり。あははおほほで済む訳ないだろう。


 …とまあ、そんな悪態ついてドン引かせはしたけれど、不思議なことにさらに面白がられた。


 実際に、普通のお箏の十三絃箏(じゅうさんげんそう)と、低音で糸も太く、2m超える長さの十七絃箏(じゅうしちげんそう)などを、ノリにも弾かせたり運搬させたりした。

 すると優雅とは程遠い、体力筋力勝負なことも分かってもらえた。


 それから意気投合して仲良くなり、次第に男女の距離も縮まって…と言うか次第に詰められていて、いつの間にか夫婦にまでなっていた。



 彼は、大学に入りたての頃、事故で両親を亡くしたという。

 まだ未成年だったし、祖父母も既に亡くなっていたから、一時的に親戚引取られ、卒業まで面倒を見てもらったという。


 彼の方面への結婚のご挨拶も、彼の両親の墓前にご挨拶した日、その足で親戚の方の家に向かい、ご報告をした。



 彼は、両親のことをあまり語らない。

 それはそうだろう。10年くらいでは、多少整理できたとしても複雑な思いがある筈だ。


 愛する人の死、それもある日突然失うなど、そう簡単に受け入れられるものではないし、整理なんてつかない。


 例え外から割り切れているように見えても、本人もそう思っていたとしても、どこか心の隙間に忍び込んでくるものだ。



 彼だって、未だに事故が無く、それまでの日常がいまも続いている、そんな夢を見ることがある筈だ。



 そんな経験をしているからだろう。

 ノリは、連絡なく帰りが遅い日など、異常に心配をする。

 鬼電が入っていてウザいと思ったこともあるくらいだ。


 でも、これだけは思っても言わない。

 なんでも口をついて言葉に出してしまう私だけど、この鬼電をウザいと言ったことはない。

 これからも絶対に言わない。言うなら「心配してくれてありがとう」、それだけだ。


 そう誓ったのだから。



「…わかった。でも、きつそうなら問答無用で帰すぞ?」

「うん。まー眠かったら実家で寝るわね。」


 ノリは既に出られる準備が出来ている。

 私が作った説明書きも、しっかり彼のバッグに入っていた。

 私も急いで身支度を整える。

 どうせマスクするし、行くの実家だし。

 髪はまとめよう。アイメイクと眉だけは整えないと。

 あとはどうせ隠れる。目力だけ演出しよう。




 *********************************************




 駅までの道すがら、ノリにヘルパーさんとの電話の内容を確認した。


 驚いた。


 ヘルパーさんが来た時には、母は自力で補聴器を着けていたらしい。

 ご機嫌でチャイム1回でルンルンと出迎えたと。

 そんなことは珍しい。

 いつも駄々をこねるのだ。ただ話し相手としていらっしゃるだけなのに。


 ヘルパーさんは日曜以外は毎日30分でも行ってもらうようお願いをしていた。

 なぜなら、生存確認が目的だからだ。


 母の歳だと、いつ倒れてもおかしくない。

 でも、毎日行っていれば…こう言っては何だけど、そんなこと起きて欲しくないけれど…もしもの時、翌日には発見できる。

 そうすれば、遺体が腐敗…いや、見れない状態になることはない。



 考えたくないことだけど、そこまで考えなければいけないのが介護なのだ。



 私はノリの話に、安心と驚きが同時に来て、気持ちの流れが渋滞中だ。

 ちょっとごめん、交通整理させて。


 ただ、充電器はやっぱり引き出しに仕舞ってあり、私か兄嫁の沙絵さんの忘れ物だと思っている、との報告もあったそうだ。

 それでも昨日、兄嫁の紗江(さえ)さんが充電してくれたおかげで、今日の夜までなら持つと思われた。



 みんな母の行動を先読みして、的確に対応してる。これ、すごいチームじゃない?



 駅に着き、電車に乗った。

 私鉄の地下鉄直通線で、その終着駅で乗り換え。更に別路線1駅で実家最寄りの駅だ。

 1時間はかかるけど1回乗り換えで行けるし、直通線なら1本でほぼ間近の駅に行ける。とても便利で且つ、



 長い時間寝れる!



 …というわけで、寝た。

 それはもう寝た。

 乗って次の駅を覚えてない。



 ノリに揺り起こされたらもう終点の乗換駅だった。



 化粧しなくて良かった、と思ったのはその時。

 えっと、マスクの中が洪水…。

 よ、よく垂れなかったねこれ…。逆に、マスクがあってよかったかも。これを垂れ流しはいろいろきつい。


 トイレでマスクを替えて、ダッシュで乗り換える。


 あと一駅で、母の住む町。そして、私の育った街に着く。




 *********************************************




「ちょっと、遠回りだけど寄り道していいか?なんなら、先行っててもいいよ」


 乗り換えて1駅乗って、すぐに故郷の街に着く。

 改札を出ると、ノリがそわそわ。そわそわ。そわそわ。

 ここに来るといつもそう。もう笑っちゃう。


 分かってるよ。安心して。あそこでしょ?『マル花』さんと『上総屋(かずさや)』さん。

 私だって寄りたいんだから、大丈夫だって。


 この2件は隣どおしで、お客さんの流れがいつも連動している。

 おかみさんもご亭主も仲良しで、町内のイベントではいつも両家が一緒にいる。



 マル花さんはパン屋さん。ここのシナモンロールは平たい。東欧のどこかの地域がこの形だと聞いたことがある。

 縁はサクサク。中しっとり。最高。


 あとお店オリジナルのピーナッツバター。

 クランチ状のピーナッツがこれでもか、というほど詰まっていて、香ばしさハンパない。

 なんでも地元産ピーナッツらしい。

 さすがピーナッツ県。美味すぎる!



 上総屋(かずさや)さんは肉屋さん。

 でも、お肉もいいけどトンカツが最高だ。

 小芋を四つ切りにしたポテトフライは、グラムじゃなくて個数売りなんだけど、塩気とちょっとコンソメっぽい風味、サクサク、ホクホク具合がもうが絶品。

 こんな様子だから、もちろんコロッケも絶品。というか、ザ・下町の味。



 これ、地元自慢のお店。遊びに来た友人には必ず案内する。

 ノリも、案内したその日に、買って食べながら歩いたらハマってしまい、追加を買いに引き返したほどだ。



 二件とも、小さい頃から私の舌に染みついた味だ。母のポテトフライも大好きだったけど、あれはご飯のお供。上総屋さんのフライはおやつにちょうどいい。10個120円という値付けも絶妙だ。



 中学になると、この二つのお店は一人でも行くようになった。

 太るよ!って、散々お店のおかみさんたちに笑われた。

 でもポテトフライはいつも2個多く入れてくれたり、パンはおまけで耳を揚げたのを入れてくれたり。寄って(たか)って太らせる気満々だ。


 実際太った。あの頃の写真は、顔がもうハムスターか?っていうくらい丸々してた。

 健康的なふっくら…だったか?


 健康的かは知らないけど、笑顔は無邪気だったな。だって…まあ、これはいいか。


 ていうかおかみさんたち、太るよ、食べすぎ注意!とか言っといて太らせやがった。許せん。


 でもヤミツキレベルの絶品だし、おかみさんは二人とも、私が落ち込んでヤケ食いに走ってる時など察してくれたりして、温かいんだな。仕方ない。許す。


 大学入学前、明日地元離れる、しばらくここに来られなくて寂しい、と泣いた時は、一緒に泣いてくれた。母が一人で心配だと言ったら、母が一週間お店に姿現さない時にはいつも連絡をくれた。

 何も伝えてないのに、みんな見守ってくれた。



 おかみさんたちは、まだ私を子供扱いする。

 それに対し、ノリに猫なで声で接客するのだけは、ちょっと腹立つ。ノリは私のなんだから!

 でもおかみさんたちは、どっか乙女で可愛いんだ。


 仕方ない、許す。



 *********************************************




 買い物をして母に電話をした。



「あらまぁ琴音(ことね)?元気?」

「うん、元気だよ、お母さんその様子だと、補聴器してるんだね」

「え…あ、うん?…そうね、なんか耳に入ってて、…あー補聴器!そうよ!これ入ってるとよく聞こえるのよぉ。嬉しいわ」

「そっか!よかった!」



 自分で補聴器を入れたことも、いま着けてることも忘れてる。

 でもそれでいい。聞こえるという事実があれば、それでいい。


「うん。でね。いま古川通りにいるから、そっち行くね。上総屋(かずさや)さんのポテトと、マル花さんのパン買ったから。あとお寿司もあるよ。お母さんの好きな丸定(まるさだ)のお寿司だよ。孝範(たかのり)も一緒だし、みんなで食べよう」

「あら!ノリさんも一緒なのね。あそこのポテト、いいわね、まる花さんも、シナモンロール?最近食べてないわ。家にはなんにもないけどぉ…じゃあ待ってるわ」

「うん!あと5分くらいで着くから。待っててね」



 母の声が弾んでいる。


 主食かおかずかはたまたおやつか。

 いったいどういう組み合わせだ、と我ながら苦笑するけど、そんなことよりみんなの好きなものを並べる方がいい。


義母(かあ)さん、楽しみにしてたんだな」

「うん。あれ、今日私が行くってことは忘れてるけど、ウキウキした気持ちは覚えてたんだと思うよ」

「そうだな。気持ちだけは覚えている。…それ、いいな。俺たちも同じだな。細かい出来事の前に、気持ちがここにある。親の面倒を見られるって、こういうことなんだな」


 - 俺にそんな機会が来るなんてな。学生の頃にもう諦めてた。諦めるしかなかったんだよな。でも、いまこんなに…。琴。ありがとう。 -



 ノリは、呟くようにそう続けて、私の肩を抱いて引き寄せた。

 その手は、少し震えている。



 ノリは、親を世話することも、親の最期を看取ることさえもできなかった。



 そっか。今日来たのは、少しでも多くの時間を、記憶に焼き付けたいんだね。世話する幸せを、少しでも味わいたかったんだね。


 すごいよお母さん、ノリの想いも拾い上げてるよ。

 こんなことってある?


 ほんとに、敵わないや。お母さん。



 真横にあるノリの顔を覗こうと、そっと視線を遣ると、彼はプイと横を向く。

 なんだよ、照れなくていいから。

 泣きたきゃ思いっきり泣けよ。いいんだよ。ノリにはその権利があるんだから。



 彼が私よりも、母に心を砕く理由。


 

 それが少し、分かった気がした。







※ 次話は11/21(日)23時頃UP予定です!

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