三話 『死』
「今日はありがとうございました!」
「うん、こちらこそ、こんな先輩に付き合ってくれてありがとう」
時計の針は周り、それに気付いた頃には十九時を過ぎていた。放課後にこんなに寄り道したのは僕自身初めてだ。
カフェを出た後、僕と日出さんは住宅街の公園で本の事で暫く話した後、マンションへと戻った。
エレベーターを使わず、話す為だけにわざわざ階段で登り、束の間に各々の家がある六階へとたどり着いた頃──。
「その……先輩」
「ん?」
「その……もしよかったら!明日も一緒に登校しませんか?!」
力のこもったその声は、彼女が勇気を出したというのが分かるものだった。
その僕はその勇気に答えるように。
「……もちろん!」
と、笑顔で言い返した。
「う……うう……」
すると途端に、こちらを見る日出さんの目はうるうると潤いはじめ──、
「うわああああん!!」
──彼女は泣き声を上げた。
「ええええッ!?」
初めてこんな事で泣かれた。
「え? ど?! どうしたの!?」
「いえ……その……余りにも嬉しくて……!」
「お、おおう!」
困惑するしかない。
「グスッ……えへへ……!ごめんなさい……!」
「いや、いいけど、その……なんというか……」
しかしその混乱した状態に──、
「……フフッ」
僕の口からは、思わず笑みが零れた。
「えへへ……えへへへへ」
それはお互い様の様で、僕のその様子を見た日出さんも笑い始める。
「フフフッ……ハハハハ……ッ!」
あぁ、こんな単純な事で僕は笑えたのか。
「はははははッ……!」
「ふふふッ……!」
気付けばお互いに笑っていた。日出さんは僕と明日も登校できるのが嬉しくて、僕はそれが理由で泣く日出さんが面白くて。
「ハハハハハ!!」
「フフフフフ!!」
そうして二人で笑っていると──、
「あら、なーに笑ってるの?」
「「ハフゥッ──?!」」
──聞き覚えのあるその女性の声に、僕達は驚きの声を上げた。
「あら、脅かしちゃった?」
そこには、扉を開けてそこから僕達の様子を笑いながら見る日出さんの母、マキさんの姿があった。
「お、お母さん! 急に出て来ないでよ!」
「おかえり神奈、ご飯できてるわよ」
「そうだった、もうそんな時間だった! では先輩! 今日はこれで──」
と、日出さんが言いかけた時。
「そう言えば、今日はちょっと作り過ぎちゃったのよねぇ……それも、丁度一人分程……」
マキさんの口からそんな事が言い放たれる。
「……え?」
と、唖然とした表情でマキさんの顔を見る日出さん。
「あーあ、どうしよっかなー? というかそもそも、晩御飯前にカフェに行って、パフェとコーヒーをご馳走になった『誰かさん』のせいで少し余ったんだけどなー? それも『紺野君の奢り』って聞いたんだけど?」
マキさん、その言い方だとまるで僕に非があるようにも聞こえなくもない。というかカフェに行ったのは僕の責任でもあるのだが。
一方娘である日出さんは、コチラを横目でチラチラと見ている。これはアレだ、そういうパターンだ。
「えっと……その……マキさ──」
「そうだ紺野君! もしよかったらこれから一緒に晩御飯どう?! 今日カレーなんだけど!」
「──わかりました! ご一緒します!」
カフェに誘った僕自身が断るのも申し訳ないし、今日は夕飯を作る事無く適当にカップ麺一個で済ませるつもりだった訳で『まぁカレーなら嫌いでも無いし、むしろ好きだし、パフェで膨れた腹にもある程度は入るだろう』という事で、半ば不可抗力という形で承諾した。それに──、
「ホントですか先輩?!ありがとうございます!!」
──恐らく主犯はこの子だろう。実際、パフェを食べている間に僕の好きな食べ物を聞いて来た訳だし、その度に携帯で連絡をしていた様だし。
「じゃあ、僕は先に制服から着替えて来ますんで、また後で」
と言う訳で、一先ず部屋に戻る事にした。
「わかりました、じゃあ神奈、準備手伝ってね?」
「はーい」
僕は二人を後に僕は自分の部屋の扉を開けた。
「ふぅ」
と、疲れた息を吐きながら自分の部屋へと向かう。
妙に長い一日だった。
まぁ、普段がなんの変哲も無さ過ぎたというか、何も気にしなさ過ぎたというか。少なくとも、別に誕生日でも祝日でも無いのに、今日は普段とは全く違った一日だったなと思う。
今日あったことを思い出しながら、僕は部屋で制服から部屋着に着替え、そのまま日出さんの家へ……行く前に、僕はベッドに吸い込まれるように倒れた。
「はぁ……」
こうやってベッドで寝転がると、その日の疲れというものが大体判るわけだが、これはとてつもなく疲れている。正直このままベッドで寝込んでしまいたい……。
「……」
先程カフェで澪ちゃんと会った時、彼女の兄、裕也が骨折で早退したことを伝えた訳だが、彼女にしては珍しく、というか、初めて『彼女の情報網に掛からなかった獲物もあるんだな』と思った。
『え?! アニキが?! 骨折?! 聞いてないっすよそんな話?! とりあえず……家に帰ったら声かけてやらなきゃッスね……』
ついでに最近冴木に何があったかも聞いてみたのだった。あんな話を冴木から持ち掛けられるのはおかしい話だったから。
『はて? アニキなら特にいつも変わり無いっスよ? 家に帰ったら一人で部屋に籠ってるか、バイトに行ってるかッス』
とのことらしいので、まぁ、あの提案は咄嗟の思い付きなんだろうな。確かに、元々例の三人の悪戯の被害者だった彼からすれば、朝から頭の上に血糊をかけられている人間を見れば、そういった事を聞いてみたくもなるのだろう。
まぁ、いいや、どうせもう会う機会も無い訳だし。
「さてと」
と、僕はベッドから立ち上がり、玄関へと歩いて行く。正直人の家のカレーとはどんな味がするのかが分からないので少し不安がある。その家に合った味付けの仕方がされている筈だろうし、果たしてそれが僕の口に本当に合うのか?それに『このまま行かずにベッドで横になっていても、彼女達のカレーが寝かされていい美味さになるだけでは? 僕なんかと食べるカレーより、一晩寝かされたカレーの方が美味しいのでは?』 なんて事を思ったが、そんなことをしていては、彼女達の善意を踏みにじってしまうし、何よりカフェに誘った僕が悪いみたいになってしまう気がしてならなかった。
玄関のドアノブに手をかけ、今から彼女の家へと向かおうと──、
『ピーッ……ピーッ……』
──した途端、にリビングの電話が鳴った。
「……はぁ」
溜息をして、どうせ“アイツ”だ。と確信を持ちながら、僕はリビングへ戻り、取るまでうるさく鳴り続ける電話の受話器を取った。
「……ハイ」
『零?』
しかし珍しい、確信のそれと違って母の声だ。
「……そうだよ」
『そう、じゃぁ今日も忙しいから手短に』
「……」
『この前のテスト、また学年5位以下だったらしいじゃない』
ああ。
『どうなってるの?学年5位以上を取り続ける代わりに、そうやって一人暮らしを『許してる』筈なのに』
「……それは」
うるさい。
『もし今度取り逃してみなさい、すぐに連れ戻すわよ』
「ハイ……」
しつこい。
『それと……、父さんはアナタの事を『全くもって期待していない』らしいわ』
「……」
だろうな。
『じゃぁ、また今度電話をかけわね』
「ハイ」
うざったるい。
『ツー……ツー……ツー……』
「……ッ!」
僕は思い切り、受話器を元の位置に叩き付けた。
「……」
今日の事ですっかり忘れていたけど、僕は縛られているんだった。
過度な期待を押し付けられて、できなければ締め付けられる。
でもいいや、もう気にしなくていいんだ。
「……フフフッ」
僕は嫌な気持ちを拭う為に少し笑ってみて、日出さんの元へと向かった。
*******
「ご馳走様でした」
僕は空になった白い皿の上で手を合わせ、その言葉を口にした。
「で! どうだった! 美味しかったかしら?!」
自信満々に聞くマキさん、それに対する僕の返答は勿論。
「美味しかったです!」
これしか出ないし、本当に美味しかったから困ったものだ。
口に合わなっかった時の言葉を幾つか考えた時間が無駄になった。というか、そんな台詞は忘れる程に、その何種類ものスパイスが入り混じった橙色の液体と、それに埋もれるなんの細工も加えられていない純白色の米が引き起こすその味わいは、とてつもなく美味だった。
「ならよかったわー!」
「ところで、見かけの割にはまろやかだったんですが……、もしかしなくても、隠し味に何か入れてたりします?」
「もちろん!」
「やっぱりですか、ちなみにその隠し味とは一体?」
「ヒ・ミ・ツ」
「なるほど……!」
とは、言ったものの、マキさんの視線の先の台所にはハチミツが置かれている。きっとこれなんだろうな。
「ねぇねぇ紺野君?」
「ハイ?」
「もしよかったら、これからも毎日一緒にご飯食べない?」
親子で何かを人に聞くときは目に出るのか、マキさんは目をキラキラさせて僕に聞いた。
その横で、娘の日出さんはというと、驚きを隠せない様子でマキさんの方を見ていた。どうやら予想だにしていなかったらしい。
「ハイ?!」
「あら、別に嫌なら良いのよ?」
「その……」
何というか、困る。
「何言ってるのお母さん?!」
一方で日出さんも同じ気持ちらしいが。
「あら、ダメだった?」
「ダメって……、ダメじゃないけど! ダメじゃないけど!」
「だってこの子一人暮らしでしょ?」
「でも……!」
などと言いながら、日出さんはキラキラと期待に満ちた目でちらちらと僕の方を見て来る訳で、正直断り辛くなって来た。この裏切り物め。
「で? どう? 紺野君?!」
「えーと……」
「あ!別に嫌なら良いのよ?!むしろ一人暮らしを邪魔してしまって申し訳ないから……!」
「それじゃあ……」
「じゃあ?」
「一週間に一回ぐらいなら……」
押し切られてしまった気もするが、正直、僕も毎日料理をする程の気量が余っているかと言えばそんな訳ないし、かと言って『毎日お邪魔するのも迷惑だろう』という事で、最適案としてコレを口に出した訳だ。
「本当にいいんですか先輩?!」
日出さんは先に聞いてきたマキさんより先に反応する。
「まぁ、一週間に一回ぐらいなら、あんまり迷惑かけなくて済むし……」
「わああああッ!」
声を出して喜ぶ日出さんと、
「ウフフ、じゃぁ、次は来週かしら?」
と、微笑むマキさん。
一方で、日出さんの方が嬉しそうな所を見ると、もしかしたら彼女は裏切り者ではなく、そもそもこの誘いの首謀者だったのかと気にはなるが、まぁ気にしないでおこう。
「じゃあ、もう夜も遅いので僕は今日はこれで……」
気が付けば時刻は21時頃、夏場は長く顔を見せる太陽の光ですらも、すっかりその顔を見せなくなる時刻。
僕は椅子から立ち上がり、玄関へと向かった。
「先輩」
「ん?」
「改めて、今日はありがとうございました!」
「うん、こっちこそ」
「また明日もよろしくお願いします!」
「……うん」
僕は扉を開いて外へと出る。
「……」
うす暗い蛍光灯の明かりに照らされ、静かに風が通り過ぎる廊下、そこを僕はとぼとぼと歩き、自分の部屋の前へたどり着き、ドアを開ける。
「……やっぱり疲れたな」
部屋に戻って、僕はベッドへと吸い寄せられるように向かいそのままそこへ倒れこんだ。
******
『ピリリリリリリ』
今朝と同じ電子音で僕は目を覚ました。
「……寝てた」
ぼやけながら手に付けたまま寝た腕時計のボタンを押し、止める。
「……」
『23:00』すっかり深夜になってしまった。
「……」
静かだ。
けど、この静けさで良いんだ。最後の最後ぐらい静かが良い。
「……行くか」
僕は立ち上がり、玄関へ向かう。
もう何も残したものは無い。今度は何も邪魔が入ることは無く、僕はドアノブに手をかけ、外へ出る事が出来た。
『ガチャリ』と、扉を閉めていると、たまたま居合わせたその人と目が合った。
「おぉ、紺野くん!」
その『カバンを片手に、一日ですっかりくたびれたカッターシャツを着て、ネクタイを締めた』利秋さんの姿は、さながら仕事終わりのサラリーマンというやつだ。
「ああ、利秋さん、こんばんわ」
「こんばんわ」
「お疲れですか?」
「ええ、今日は少し長引いてしまってね……おかげですっかりこんな時間さ」
「お疲れ様です」
「ハハハ、こちらこそ、娘の相手をしてくれてありがとうございます」
「……? 知ってたんですか?」
「知ってたも何も、娘から連絡があってね……今日あった事を聞いたよ。晩御飯までご一緒してくれたらしいじゃないか?」
「ハイ、ご馳走様でした」
「いやぁ……マキと娘が迷惑かけたようですまなかったね、あの二人が行動を起こそうものなら、それを止めるのは僕でも中々に難しいから」
利秋さんは苦笑いして頭を下げる。
「いえいえ、美味しいご飯を頂けて、その上、一週間に一度は、一緒にご馳走させて頂く事になったので……」
そう言って、僕も頭を下げる。
「らしいですね、振り回してしまって申し訳ない……所で──」
「……?」
「高校生一人で、こんな時間に何をしに……?」
まぁ聞かれるよな。
「……少し、屋上でゆっくりしに行こうかなと……」
ので、それとなくそれっぽいことを答えた。
「なるほど……」
「この時間になると程よく星が見えるんですよ、って言っても山側の町ほどじゃないですけど……」
「しかし、屋上に限らず、夜出かける時は気を付けて下さいよ? 最近物騒な話を聞くので……聞いた話だと、港の方で殺人事件が起きたとか……」
そういえば今朝のニュースでそんな事を言っていたな。
「ハイ、気を付けます」
「紺野くんに限らず、娘にも言っておかねば……っておっと、すっかり長引いてしまった。それでは、自分はこれにて」
利秋さんは僕に頭を下げる。
「ハイ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
次の内には利秋さんは扉を開て──、
「ただいま!」
──と言って部屋へと帰って行った。
「「おかえりなさい」」
と、階段を登ろうとした僕の耳にマキさんと日出さんの声が聞こえ、すこし足が止まる。
「…………行こう」
が、気にしない程度に気にして、僕は足を動かして屋上へと向かう。
「……」
無言で、ゆっくりと、一段、また一段と、長く続く階段を上る。
あぁ、もうすぐだ……もうすぐで僕は楽になれるんだ……。
その日には、恐怖心なんていう味の抜けたガムみたいな物は無くなっていた。
『終わりは新しい事の始まりに過ぎない』
今朝まで読んでいた短編集に綴られていたその一言を思い出す。
あの本の作者は今は新しい人生を歩めているのだろうか……。
あの本を買って直ぐ、僕はその本の作者の名前を調べ、その本が、自ら命を絶った“日鐘鏡夜”という人の遺作だった事を知った。
病によって引き起こされた体の不自由、世の中の自分を見る目に悩まされ、果てには大切な人まで失ってしまう。
きっと辛かったんだろうな、文面の一つ一つに、悲しさや、苦悩という物を感じた。
ただ一方で、物語自体は、悲しい物とは言い切れなかった。
あの短編集には、物語を通して『理想』という物が語られ尽くされていた。辛い現実を退けて、思わずのめりこんでしまう程の、その、彼の考えた『理想』を僕は見てしまった。
その果て、終わりを今朝見て『あぁ、やっぱりな』と、心の裏で思った。
短編集最後の物語は『鬱病の主人公が、新しい人生を求め高台から飛び降り、命を落とし、目を覚ますと、神がいて、その主人公の人生を、主人公と神の二人で決める話』だった。
結果的に、世に生まれ落ちる頃には主人公の記憶は消えてしまうが、それでも生まれ変わった主人公は自分で決めた新しい人生を自分で生きて行く事になる。現実ではきっとありえない話だろうが、理想とはそんな物なのだ。
理想なんてのは、現実しか見ようとしない人間にバカにされる為だけに生まれてきた。だからこそ、現実を見たく無くなった僕のような人間があの本に感化されるのだった。
踊り場に置かれた看板を通り過ぎ、最後の一段を上る。
生憎にも空は少し曇っていて、星何て少ししか見えなかった。利秋さんはそれに気づいていたのだろうか?
僕は一歩一歩前へと進み、柵の前に立ち、そしてその柵に手をかけ、上る。
「よっこいしょ」
と、柵を乗り越え、少し前に進むと、そこはマンションの屋上、その端と言っても、まるで崖のようなものだった。というか崖そのものだ。
「……ッ」
僕は思わず息を飲み込み、その崖の先の下を見た。
一面に広がる真っ黒なコンクリート、夜だというのもあって、蛍光灯が当たり切っていない所々の場所は底が無い様にも見えた。
時計を見ると『23:41』良かった、僕はまだ、この世に残る事が出来るらしい。
「……」
その崖に僕は座り、頭の中で今までの人生を振り返ってみる。
「……」
なんというか。
「……」
意外と楽しかったのかも知れない。
「……」
けれどもう限界だった。
「……」
この先も、同じ様な事が続くのならば──、
「……」
──死んでしまった方がマシだ。日鐘鏡夜の様に、理想を求めて。
「スゥー……」
改めて大きく息を吸って。
「ハァ……」
ゆっくりと吐き出し。
「……なんだか申し訳ないなぁ」
一言呟いた。
やはりどうしても、最後の最後で出会ってしまったあの家族の事が頭から離れない。
『どうしてあんな叶えもしない約束をしたんだろう』と少し後悔した。
『また明日もよろしくお願いします!』
と、言われたことが、日出さんの顔と一緒に頭に浮かぶ。
「ごめんね、守れないや」
けれど、僕は頭に浮かんだその顔に言って、立ち上がった。
少し悲しかった。
だからかは分からないが、涙が僕の頬を伝った。
少し後悔した。
だけどもう無理だ、耐えきれないんだと。
失敗ばかりして、誰にも赦される事も無く、かと言って成功を収め、誰かに褒められる事も無い。そんな人生だったんだ。
「……よし!」
だから最後ぐらいは、自分の願いを成功させたい。
僕は立ち上がり、その淵に立った。
「……っ」
遺書は数日前に書き留めておいた。アルバイトも一か月前にやめた。携帯のロックも外しておいた。後は──、
「そうだ、部屋の鍵……!」
──利秋さんと話していてすっかり忘れていたけど……。
「……まぁいっか!」
そんな事、どうでも良かった。
「……フフッ」
そういや、そうだとしたら僕は最後に、散々邪魔をされたんだな。それも可愛い後輩と、その優しい両親にだ。
「ハハハッ……」
いつか僕が夢見た理想を最後に味わえた気がする。だからだろうな──、
「アハハハハ……」
──嬉しくて、笑いが漏れ続ける。『最後にこんな幸せな、夢みたいな、理想の様な経験が出来て良かった』と、心の底からそう感じていた。
「……ハハハ」
『23:59』
『あぁ、もうすぐだ』と、深呼吸して息を整える。
もうすぐ腕時計のアラームが鳴る。僕はそれと一緒に僕は体を前に投げ出す。
そして生まれ変わって、新しい人生を歩むんだ!
『ピリリリリリ』
そうして、僕は腕時計から音が鳴ると同時に体を投げ出した。
一瞬、宙に浮いた気分……いや、事実、浮いているんだ。
しかしそれは束の間で、次の瞬間に身体は一気に下へと落ちて落ちて行った。
九階建てマンションの屋上から、何も付けずに、カチカチのコンクリートへダイブだ。絶対に成功する。
やがて僕の頭の中には走馬灯が流れ始める。さっき思い出した人生となんの変りもない、ただ苦しいだけの人生だった。
けど、それとももうおさらばだ! 僕は生まれ変わるんだ! こんな苦しいだけの世の中とはもうおさらば──、
なんて考えていると、逆さまに落ちていく僕の目の前に、その光景は流れた。
レースカーテン越しに見える、その3人家族の様子は、うらやましい程に幸せそうだった。
──あぁ……僕もそうありたかった……。
少し残念だった。ちょっと後悔した。だけど僕の体は勢いを止める筈もなく、そんな残念さなんかて一瞬で弾き飛ばす様に──、
『ベチャリ』
──と、堅く、冷たいコンクリートに叩き付けられた。
******
「……ッ」
目を開いている感覚で、そこを暗闇だと察知できた。
「ここは……」
体の感覚はある。けれどひたすらに暗くて何も見えない。
暗順応とやらも試してみようと、目を瞑り、また開くが、それでも何も見えなかった。
『何処なんだココは?』と、困惑していた中──、
『目覚メタノカ──、少年』
──その声が聞こえた。
「……ッ?!」
不思議な声だった。男性なのか、女性なのか、若人なのか、老人なのかは解らない。声という概念だけが、僕の耳を通して脳に入ってくる様だった。
『聞コエルノカ?』
「誰だ……?」
『同様シテイル様ダナ。マァ、仕方ガ無イ、死シタ人間ガ行キ着ク場所ナド、並ノ人間ガ理解デキル筈モ無イ』
「死んだ……?」
ふと思い出した。そうだ! 僕は死んだんだ! 死んだ筈なんだ! あの高さから飛び降りて──、
『シカシ、オマエハ、マダ完全ニハ死ンデイナイ』
「──ッ?!」
今、僕が思ったことを……?
『アァ、多少ハ考エテイル事ガ分カル』
驚いた。でも、そんな事よりもっと驚くことが……。
「『完全には死んでいない』って、どういう事だ?!」
僕は『成功した』のじゃないのか?
『ソウ慌テルナ、我ガ、説明ヲシテヤル』
「慌てるなって……」
『マズ、貴様ハ確カニ死ンダ、ソノ身ヲ派手ニ地面ニ叩キ付ケ、ソノ衝撃デ地面ノ上ニ血ヤ臓物ヲ散ラシタ……』
その声が言うと同時に僕の脳裏にとある光景が浮かぶ、これは一体?
『マァ、視テミヨ』
へしゃげた首、訳の分からない方向を向いた腕、破裂したように破けた腹からはみ出た内臓、肉を突き破って露出した骨。
体が潰れたトマトみたいになったその死体の顔は──、
「──ッ!」
──顔が分かるぐらいには、中途半端にへしゃげた僕の顔だった。
『オマエノ死ニ様ダ、ドウダ? 声モ出ナイダロウ?』
声なんて出せたものじゃない。あまりの衝撃とその有様に、僕は思わず吐き気さえ──、
「……?!」
──感じない。
思ったとしても、感じ取れない……どういうことだ?
『ソレハ、オマエノ体ガ此処ニハ存在シテイナイカラダ』
「……?」
『ココハ魂ノミガ存在デキル場所、故二、肉体ハ存在シナイ』
「なるほど……」
『一部ノ存在ヲ除イテハナ』
その瞬間だった。
「……ッ?!」
その化け物は、突如として僕の目の前に現れたソイツは大きな馬のような……いや違う、上半身が人間で下半身が馬だ、まるで神話に聞くミノタウロスの様な見た目をしていた。
ごつい手脚に赤い肌、顎から胸程まで伸ばした白い髭、肉付きの無い、骨の形が浮き彫りになった頭に生えた三本の角、そして真っ赤に燃え盛るような瞳。
「我ガ名ハ“バラム”五十一柱目ノ悪魔ナリ」
バラム。その化け物は自らをそう言った。そして──、
「悪魔……?」
──自らのの事を『悪魔』とも言った。
「サテ、ドウダ少年? 我ト『契約』ヲ結バヌカ?」
「け、契約?」
「ソウダ、契約ダ」
悪魔と契約? 僕が? というかそもそも、僕は死んでいるんじゃないのか? 死んだ人間と契約しても意味は無いんじゃないのか?
「否、死ンダ人間ダカラコソ、契約ヲ申シ出ルノダ。コノ空間モ、本来ハ感ジル事モ無イガ、契約ヲ求メル悪魔ガ介入スルコトデ、ソノ人間モ感ジ取ル事ガ出来ル」
「どうしてだ?」
「死ンダ人間ノ殆ドハ死ヲ拒ム、生キヨウトスル」
「それで……?」
「我々悪魔ハ、生ト引キ替エニ『罪』ヲ求メル。契約シタ人間ヲ生カシ、ソノ人間ガ犯ス『罪』ヲ糧トシテ、我々モ『生』ヲ得ル」
「つまり、今、お前が使用としていることは、『僕を蘇らせて、罪を犯させて、それを糧にお前も生きる』って事か?」
「ソウダ」
もしこれが本当なら悪くない話では無いのかもしれない、けれど──、
「……だったら、別を当たってほしい」
──僕はそれを拒んだ。
「……何故ダ?」
「僕はもう、生きたいとは思わない」
「……?」
バラムは僕のこの一言に疑問を感じたらしく、首を傾げた。
「『生きていても辛いだけ』だ。だから、もう生きたいとは思わない」
「……ナルホド、デハ」
バラムはその悍ましい顔を僕に近づけ──、
「コノ後、貴様ガ如何ナルカハ知ッテイルカ?」
──と僕に聞いた。
「どうなるんだ……?」
きっと生まれ変わって、新しい人生を歩めるんだろう。だったら僕は──、
「グハハハハ!!」
──バラムは笑い出した。
「……?!」
「良イ! 良イゾ! 面白イ! 面白イゾ人間!」
その悪魔は楽しそうに腹を抱えて笑った。
「ソンナ事!有ル筈モ無イダロウ!」
「有る筈が無いってか……?」
「生マレ変ワル? 魂ガ? フン! 笑セルナ! イイカ? 死ンダ魂ハナ?」
僕の理想を軽々しく壊す様に、その悪魔は言った。
「無ト成ルノダ! 消エテ微塵モ亡クナルノダヨ!」
「無になる……? 消える?」
「アァ、ソウダ! 消エル!」
「どうやって消えるんだ?」
「『ドウ消エル』カ……。ソウダナ……マズ自分ノ顔ヲ思イ出シテ見ロ?」
「僕の顔……?」
自分の顔を思い出すなんて単純な事だ。あの鏡を見た時の──、
「ドウダ……?」
──どうしてだ? 思い出せない、というか。
「僕の顔……無い……? あれ……?」
顔なんて、あったっけ?いいやあった筈だ、筈なのに。無い様に思えて仕方が無い。
「ワカッタカ?」
分かる、いや、分からない筈が無い。既に僕の記憶、いや、認識は、既に顔と、腰から下までが消えていた。
「ドウスル少年?我ト契約スルカ?」
「怖い……」
途端に死ぬ事が怖くなった。怖い、怖い、怖い。
「アァ、恐怖シテイルノカ」
「嫌だ……!」
途端に死ぬ事が嫌になった。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「グハハハハ!」
死にたくない! 消えたくない! 怖い! 嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
「ハハハハハ!イイゾ!イイゾ!ソノ恐怖ダ!」
「嫌だ、そんなの嫌だ」
消えたくない、僕は、僕は……僕はただ『新しい人生を歩みたかっただけ』なんだ。
「ナラ『契約』スレバイイ」
「契約……したら……新しい人生歩めるかな……?」
「アァ、モチロン歩メルトモ」
悪魔の囁きだ。
「サァ?ドウスル?少年?」
『悪魔に魂を売る』とは正にこういう事なのかもしれない。
たとえその事が自分の望む様な事では無くても、災厄な結果でも、駄目な事だと分かっていても、悪魔とならば、超えられる気がする。人は、その気になれば悪魔に魂を売ってでも事を成そうとする。
「ハハハ!何ヲ言ウノダ人間! 生キル事ガ駄目ナ訳ガ無イダロウ! イイカ? 生キルトイウ事ハナ──?」
悪魔の囁きなんて、聞く筈も無かった。
「──生キタ分、罪ヲ犯セルトイウ事ダ!」
悪魔の考える事なんて、同情する気も無かった。
「サァ!ドウスル少年!契約スルカ?!」
けど、僕は……人間だった。
「…………する」
人間だから、目の前の悪魔と違って、消える事を喜べる訳が無かった。
「……ン?」
それに消えたいと思う人間なんて、いる筈が無いんだ。
「…………契約する」
「オオオオオ!!」
死ぬのはいい、けど、消えるのは嫌だ。
「ナラバ契約ダ! 少年! 名ヲ上ゲロ!」
だから僕は、その悪魔と契約することにした。
「……零だ。僕は──、紺野零だ」
消えて行く僕の存在、すっかり小さくなってしまったを振り絞って、かろうじで覚えていられたその名を僕は口にした。
「コンノレイ……『レイ』……! 良イダロウ! 契約ヲ許可シヨウ!」
「どうすれば……良い……?」
「契約スル代償ヲ言エ、オマエノ体ノ一部ダ、ソウダナ、ソノ場所ニヨッテハ、オマエハ強クナレル」
「強くなれる……? どういう事だ?」
「罪ヲ犯ス時ニ、我ノ『力』ヲ貸ス訳ダ、ソノ『力』ノ強サガ、変ワル。ソウダナ……心臓ハドウダ?」
「心臓……?」
「アァ、心臓ダ、一番強イ『力』ガ手ニ入ル! ドウダ?『力』ガ欲シク無イカ?」
力か……。
『力さえあれば……』と、思った事は幾らでもあった。だからこそ、どうせ生まれ変わって手に入れるなら、強い力を……!
「わかった……! 心臓で頼む!」
「ヨシ、ナラバ──」
その瞬間、僕は『何か』と繋がったと感じた。
「──契約成立ダ……!」
その『何か』は、熱く、鋭く、そして悍ましい物だった。触れてしまえば自分が傷ついてしまいそうなそれに、僕は触れる事が出来た。
すると、失っていた存在が、燃え上がる炎のように再生していく。
「サァ、レイヨ……」
「……何だ?」
「耐エロ、少シ熱イゾ」
「……?!」
言われてみれば、少し胸のあたりが……熱くなって……いや! 熱い! 熱いぞ! 何だこの熱さは!
「あ……ッツイ!」
「耐エロ、ソレニ耐エレバ、貴様ハ立派ナ我ノ契約者ニ成ルノダ!」
「ああああああッッ!」
焼けるように熱い心臓、耐えるんだ、耐えれば僕は消えなくて済む、そうすれば、夢にまで見た新しい人生を歩めるんだ。
「オオオオオオオオッ!」
「イイゾ! イイゾ! レイ!」
「アアアアアアアアッ!」
ただただ、耐えた、新しい人生を歩む為に、その痛みを耐え続けた。けど、そんな痛みは、一度死んだ身からすれば──、
「フフフ、ハハハハ!!」
──笑いが出るほど『簡単な事』だった。
******
「……ハッ!」
目覚めると、そこは何の変哲も無い、自分のベッドの上だった。
「……」
そうだ、確か自分は──、
「……カレー、美味しかったな」
──確か、日出さんの家にお邪魔した後、そのまま寝て……。
『オイ、忘れるで無い』
「……?!」
『忘れるなと言っている、アレか? 人間お得意の現実逃避という奴か?』
オイ、オイオイオイオイ。
『何を驚いている? 契約したのはオマエだろう? コンノレイ?』
「……えっと……バラム?」
『ああ、そうだとも、我だ。バラムだ』
「……」
その声は、あの悪魔の声だった。




