一話 『生(:1)』
7月6日──、
甲高い電子音が部屋中に鳴り響く。
それに目覚めさせられた僕は、米粒ほど小さいボタンを手探りで押して、その腕時計のアラームを止めた。
「起きなきゃ……」
突っ伏していた顔を上げて、腕時計を手に巻き、寝癖でぐっちゃぐちゃになった黒髪を生やした頭をふらつかせながらベッドから立ち上がり、リビングへと向かう。
冷蔵庫から食材を取り出して、それをコンロとフライパンで調理して作った簡素で素朴な朝食を、僕はテレビを見ながら食べる。
『昨日未明、坂見市神港町の路上にて、惨殺された社会人男性の遺体が──』
等と、流れるニュースとその物騒さは、相変わらず。見聞きし慣れた物だった。しいて言えば、今日のそれは隣町で起った事件だったという事だった。
「最近物騒だな」
なんて独り言を呟きながら、コップに入ったホットミルクを飲み干し、食器を洗い片付ける。
その後、胸から上しか見えない小さな鏡に映る自分と睨み合いながら歯を磨き、ボサボサの髪を整え、自室に戻り、クローゼットから制服を引きずり出してそれに着替える。
水筒の中に水を入れた後、制鞄の中へとその水筒を放り込み、それを背負って、靴を履いて僕は部屋を出る。
『606号室』の玄関を出た先のマンションの廊下では、特に誰ともすれ違う事は無く、僕は『いつもの場所』へと向かうべく、エレベーターへと足を運ばせた。
エレベーターの『↑』ボタンを押し、それに呼ばれて来たエレベーターの中に入って、そのフロアボタンの一番端にある『9F』のボタンを押した。
上へと上がって、押したボタンの階に着くと、エレベーターから出て、近場の階段を上を登った。
そうして、僕がたどり着いたのは、実質上の十階とも言える屋上だった。
そこは柵が張られ、二人用の小さなベンチが一つ置かれた屋上で、自分が住む町と夏の大空がよく見渡せた。
「スー……──」
大きく息を吸って──、
「ハァー……──」
──吸い込んだそれを吐く。
朝の空気は季節を問う事なく冷たく、それを一気に吸い込むと、僕の気道は優しく冷やされた。コレが心地良いし、何より癖になる。
高校に入学して、ここに一人で引っ越してから、雨の日を抜いては、この朝の屋上に僕は立ち、この自分しかいない、自分だけの空間に僕は虜になっていた。
人ばかりがいる町の中で、自分一人だけがいる場所、それがこの場所なのだ。
そうして僕はいつも通り、贅沢に二人用のベンチに一人で腰掛け、カバンの中から読みかけの短編集の本を取り出し、それを最後まで読み切るつもりでページを捲るのだった。
物事の最後には色々な終わり方があって、僕はその最後という物に、心を惹かれていた。
最後という物は不思議な物で、それは死であったり、生であったりもするから、一つの事が終わりを迎える代わりに、新たな事が始まりを告げて行く。
短編集というのはその『終わりと始まり』の連続の、塊の様な物で、その最後の一編を僕は心を踊らせ、黙々と読んでいた。
ページをめくっては、読み、また捲って、読む──、
「……」
──黙々とその動作を繰り返して、数分後。
僕はあっという間にその本の最後の一文を読み切るのであった。
「……ふぅ」
大きな余韻を背負いながら、僕は本を閉じ、大きく息を吐き、背もたれに深くもたれ込んだ。
「……」
暫く経って、思い出したかのようにまた息を吸い、また吐いて、青空を見上げた。
「スゥ……ハァー……」
そしてまた、深く深呼吸して──、
「……終わった」
──と、大きく一言呟いた時だった。
「あのー?」
階段の方から声がした。
「……ッ?!」
僕は慌てて声がした方を振り向いた。
この時間に、自分以外の人間がココに来るのが初めてだったので、それとなく慌ててしまう。
「あ!すみません!急に声をかけて!」
階段を上がって直ぐの場所に立っていたのは、このマンションで一度も見覚えが無い人だった。
朝日に照らされた顔、黒髪のショートボブに、黒縁メガネがよく似合う少女、そんな人がこの時間に、このマンションにいる事に僕は驚いたが、落ち着いて考えれば合点がいく事に気づく。
「あ……もしかして、昨日引っ越してきた人……?」
「……ハイ! そうです! えっと……! 『六○一号室』の日出です!」
その少女こと、日出さんは少し嬉しそうに言った。
「あー、やっぱり」
*******
七月五日──、
話は昨日の夕方に遡って、
僕がベッドの上で考え事をしていると、突然とインターホンが部屋に鳴り響く。
「はーい!」
配達業者と、たまに来る大家さんをの除いては、基本的に僕の部屋のボタンを押す人はいない。というのもあって『通販を頼んだ覚えも無いし、今日は大家さんは家にいる筈なのに、珍しく何だろう』と思って扉を開けると、そこには中年程の男性と、女性が立っていた。
「……あの……何用でしょうか?」
と僕は二人に聞いた、
「はじめまして今日この階、この部屋の隣、六○一号室に本日付けで引っ越して来た“日出”と申します。自分は“日出利秋”と申します。利口の“利”に、“秋”という字で“トシアキ”と読みます」
と、男性方、利秋さんは丁寧に頭を下げた。さながら会社員の様に、深く頭を下げていた。
「妻の“日出マキ”と申します、特に漢字では無いので、そのままでよろしくお願いしますね」
マキさんもそれにつられる様に頭を下げる。
よくよく考えたら、一昨日に来た大家さんが“同じ階に新入居者が来るからよろしくしてあげて”と言っていたのと、最近引っ越しの業者が荷物を持ってこのマンションを何度か出入りしていたなと思だす。
「は、はじめまして、えーっと」
コチラも返さねばと思い、頭に自分の名前と、自己紹介の文を連ねて、それを読み上げようとする。が──、
「“紺野さん”ですか?」
と、見抜いていたかの様に僕の名前を呼ぶマキさん。
「え……っと! はい! そうです!『紺色』の『紺』に……」
「『野原』の『野』ですね?」
と、マキさん。
「え、あ、は、ハイ!」
「ウフフ、大丈夫ですよ、表札に書いてますんで」
と、微笑むマキさん。
「あ……その……」
よく考えたら表札に名前なんて書いてるし、こちらから名乗り出る必要なんて『今後無いに等しい』事を言われて気付いたなんて言えない。
「……」
顔を少し赤くしながら、まだ未熟ながらに大人の対応というものをし損ねた自分を責める。
「マキ! 初対面の人に、そういうのはやめて差し上げろ!」
と、利秋さんがフォローに入ってくれた。なんというか律儀な人なんだなぁ。
「あ! ごめんなさい! つい……その……善意で……」
マキさんは頭を下げる。
「……ハハ、大丈夫です、案外慣れてるんで」
善意ならば仕方が無いと、僕は笑って許す。
「初対面で妻がご無礼を働き申し訳ございません、その……、どうかこれで……」
と言って、利秋さんが差し出して来たのは、一つの紙袋だった。
「『つまらない物』ですが」
おお、やはり律儀だ。
「あ、ありがとうございます!」
と、僕は躊躇いつつも、その紙袋に入ったつまらない物を受け取り、礼をする。
「ところで、他のご家族は?」
利秋さんは不思議そうに僕に聞いた。
「あ、僕一人暮らしで──!」
「そうなんですか?!」
「──ワアッ?!」
『一人暮らしをしている』と言い切る前に、声を上げて間を詰めて来たマキさんに僕は思わず声を上げて驚いた。
「コラ! マキ! いい加減にしなさい!」
「ハ、ハイィ……すみませんでした……ぁ!」
「毎度妻がご無礼働いて申し訳ございません!」
利秋さんはマキさんの後頭部をがっしりと押さえながら、自分も頭を下げて二人で僕に謝った。お仲が宜しい様で何より。
「だ……! 大丈夫です……!」
僕がそう言うと、利秋さんはマキさんの頭を押さえながら自分は頭を上げて「……失礼しました。で……その……紺野くんは、一人でここに?」とマキさんに改まって、僕に聞いた。
「ハイ、両親は他県に……」
「なるほど、それは失礼いたしました」
僕が一人暮らしをしている事を聴いて、利秋さんはまた頭を下げる。何と言うか、年上相手に謝られてもそんなに嬉しいものではない。
「このご時世に若い子一人で一人暮らし、大変でしょう」
また頭を上げ、利秋さんは僕に聞く。
「いえ、僕も慣れているので……」
「ホント、“うちの子”も見習って欲しい所ですよ……」
──うちの子?
「もしかして、お子さんがいらっしゃるんですか?」
「ハイ、ちょうど紺野くんと同じ歳ぐらいの娘が……、あぁ! もし見かけたら声をかけてあげてください! 明日からこの近くの高校に通う事になっているので!」
この近くの高校と言えば……?
「近くの高校……、もしかして、新郷高校ですか?」
「そうです!もしかして紺野くんも?」
「は、ハイ、二年です」
「ならよかった! 娘……いいや、カンナの先輩ですね。優しくしてあげてください! どうかよろしくお願いします!」
今度は嬉しそうに頭を下げる利秋さん。何度を頭を下げさせて申し訳ないと、僕も頭を下げた。
「こ、こちらこそ! 頼りない先輩かも知れませんが! よろしくお願いします!」
「いえいえこちらこそ!」
「い、いや! こちらこそ!」
「いやいやこちらこそ!」
その後、暫く頭の下げ合いが続いて、僕と日出夫妻は別れた。
*******
そして現在──、
今、目の前に、彼等と同じ様に、彼らが言う様に、僕と同じ学校の制服を着た少女が、頭を下げていた。
「新郷高校一年!えーっと……!二組の“日出神奈”と申します!下の名前の漢字は……!『神様』の『神』に!『奈良県』の『奈』で“神奈”です!よろしくお願いします!」
驚いた。まさか初対面への挨拶の仕方が親に似ているとは……。
となると、僕も返さねば──、
「えっと、日出さん、こちらこそよろしくお願いします、僕は二年四組の紺野──、」
「紺野先輩と呼ばせてください!! 私の事は! 呼び捨てでもなんでも!!」
おおっと?! 言い切る前に話を進めるなんて、どうやらこの娘さんは見事にあの夫妻の血を受け継いでいるらしい! けれど、とりあえずは──、
「お、落ち着いて?!」
と、その慌て様に耐えかねた僕は言う。
「ハイ!落ち着きます!」
日出さんはそう言いながらも変わらず声を荒げていた。ので──、
「と、とりあえず、座って?」
一先ず、僕は独りで占領していた二人用のベンチを一人分開けた。
「いいんですか?!」
「い、いや、そんなに恐縮しなくてもいいから!? お願いだから、とりあえず一度座って、落ち着いて!?」
「ハ! ハイ! では! お隣、失礼します!」
日出さんは恐る恐るした様子で僕の左隣に座った。
僕はと言えば、彼女の間に、人半分ぐらいの間が空いているにもかかわらず、横に少女が座る事に緊張していた。どうして集合住宅の屋上にベンチが一つだけで、それも二人用だけなんだか……。
「……ひ、日出さんって、今日から転校生って事で良いんだよね?」
「ハ、ハイ! その……! ホントは今年の春にはここに引っ越して来て、そのまま入学式を迎える予定だったんですけど! ちょっとトラブルというか、色々ありまして……!」
「な、なるほどねー。じゃあ、それまでどうしてたの?」
「家で通信教育を受けていました! ので! 現状の学校の授業には、きっと着いて行けるとは思います!」
「そ、そう……なら良かった」
「ハイ! 良かったです!」
マズイぞ……気まずいぞ……。
俺が初対面の女の子と話すなんて、何時ぶりだろう、少なくとも僕が高校へ入学して以来ぶりなのは確かだ。きっと彼女も緊張しているだろう、実際、こっちを振り向く事なく、正面のバリケードの一点を見ながら青ざめた真顔で話しているが。その一方で僕は下ばかり向いて話していた。
『このままじゃダメだ』と『緊張しているのは僕もだろう』と、心に気合を入れながら、大きく深呼吸し──、
「そ、その……。日出さんは、どうして今、此処に来たの?」
自分の心に、率直に気になっていた事を聞いてみた。
「えっと……早めに学校に行こうかな? と思ったら、丁度その……屋上があるというのが書いてある貼り紙がありまして……!」
「寄り道って事?」
「ハイ! ちょっと気になってしまったので『ちょっとぐらいなら』と思いまして……!」
「な、なるほどね」
「で、その……! 恐縮なのですが……!」
「ん?」
「先程は一体、何をなさっていたのですか……?」
『それを聞くか?』と、思わず心の中で呟いた。まぁ、見られた挙句聞かれてた事だし仕方が無い、ここは大人しく答えよう。
「本を読んでて、丁度読み終わっ──」
「本ですか?!」
「て……」
『おっと? いきなりがっつく所もやはりお母さんに似ているな』と驚きを抑えた一方で思った。
「私! 本好きなんです! アクタとか! ナツメとか! あ! にもライトノベルとかも読みますし! 詩集も! 小説とかにも限らず、漫画とかも──!」
「わ!わかった!わかったから?!落ち着いて?!」
「──ハイ!」
隣で深呼吸する日出さん。少しせっかちなマキさんに似ているのか、それとも礼儀正しい利秋さんに似ているのか……。いや、どっちもか……。
「その……本を読んでて、ちょうど今読み終わった所なんだ」
「どんな本ですか?」
「コレなんだけど」
僕は本を取り出し、日出さんに見せた。
「たまたま本屋で見つけて、気になって買った本なんだけど……」
「なるほど!衝動買いってやつですね!わかります!」
「まぁ、そんな感じになるのかな?」
学校帰りに寄った本屋で見つけてタイトルで気になって一節程立ち読みし、それとなく面白かったので買った本だった。
「その……」
日出さんは先程と違った感じで少しもどかしそうに僕に聞いた。
「少し、私にも読ませて貰ってもいいですか?」
「え、え?!」
「いやいや! 別にダメならダメで良いんですよ?! 本にも官能だったり宗教だったり色々種類がありますから!!」
「いや、そういう訳じゃないし、別に良いんだけど……」
別に本の内容等は問題ないのだが……。
「その……あ、あんまり人に本を貸した事無くて……」
むしろ相手が同じ年ぐらいの少女なら尚更だ。
「そ! それなら大丈夫です! 私も……その……」
「……?」
「人から本を借りるの、初めてなので……」
知らされた事実と、正直どこからその勇気が出たのか、僕としては聞きたいものだが、所謂『アレ』だ『趣味が合う人間であればこれぐらいは大丈夫』というヤツだ。
「あー……」
「……」
少しの無言が続く中、だったらこっちも『後輩に負けじと勇気を出す他無い』と、思い──、
「じゃあ、どうぞ……」
と、僕はその本を彼女に差し出した。
「……え」
「一節ぐらい読んで、それで気に入ったなら貸すよ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
日出さんはその“生の始まりと終わり”という本を受け取り『では早速』と言わんばかりにそれを読み始めた。
「……」
「……」
時間が経ち、僕が来た頃よりは暑くなった夏の朝の屋上に、申し訳程度のそよ風が吹く。
柵の向こう側の景色を眺める僕の横では、日出さんが無言で本を読み進めていた。
しかし気が可笑しくなったのか、何を思ったのか、何を考えたのか、僕は日出さんの横顔を横目で覗き見た。
「……」
先程から話してはいたが、一度も彼女の顔をしっかりと視界に入れた事が無かったからこそ、その衝撃は大きい物だった。
彼女の優しく美しい風貌は、たとえ眼鏡をかけていたとしても誤魔化すことは出来ない様で、結局は横目だけじゃなくて、顔全体を向けて見てしまう程には、その『優しくも美しい』顔つきつきに僕は惹かれていた。
恥ずかしながら『一目惚れ』というヤツだ。
「あのー?」
正直言ってこんな事は初めてで、それに伴って湧き上がってくる感情も始めて味わう感情だった。
「紺野先輩?」
ほら、彼女は僕の方を見て……。
「先輩?」
……唖然としている。その顔を見て、僕は正気に戻るのであった。
「どうしたんで──」
「あ! ご! ごめん!!」
僕は慌てて目を逸らした。
「も! もしかして! 私の顔に何か付いていましたか?!」
「いや違う! ちょっと本を横から見ていただけで……というか! 読むの早いんだね?!」
「い、いえ、時間は大丈夫かなぁ? と思いまして……」
「……あ」
僕は慌てて腕に巻いたデジタル時計を確認した。
『08:00』
「八時だ……」
「えーっと、紺野先輩はここから学校まで徒歩で行くんですか?」
「……そうだよ」
「それって何分ぐらいで──?」
「早く行こう! 遅刻する!!」
「ですよね! 行きましょう!」
僕達は慌ててイスから立ち上がった。
******
僕の住むマンション“サンライズ新郷”から“坂見市立新郷高校”までは徒歩で約十五分程はかかる。ルートで言えば、住宅街を通り抜けて、商店街を潜り抜けた先だ。
で、学校の朝のホームルームが始まるのは、八時ニ十分なわけで。
そのニ十分前に慌てて立ち上がった僕達は、絶賛、住宅街を走っていた。
まさか知り合ったばかりの後輩とあの場所で遅刻寸前まで話し続けるとは、予想外で予定外だった。
「ハァ……ハァ……」
息を切らしながら走っては少しゆっくり歩いてを繰り返して数分。
住宅街を抜け、商店街の前までたどり着いた僕は足を止めて腕時計を見た。
『08:09』これぐらいなら大丈夫だろ。
「……よし! ここまでくれば……歩いて……大丈夫だと……思う!」
「ハァ……ま、間に合いそうですか?」
普段から運動不足気味なのもあって、流石に少し疲れた。
「こっから大体五分で着くから、もう大丈夫」
「よかった……このまま走りきっちゃうのかと思いました」
「流石にそんな事したら朝からくたびれるよ……」
「ですね……!」
日出さんは苦笑いを僕に返す。これが無性に可愛く見てしまう。
「ところでその……」
「ん?」
「……本、返しますね?」
日出さんはカバンの中から先程貸した本を取り出し、僕に差し出した。
「いいや、このまま借りてて良いよ、途中までしか読めてなさそうだったし」
「本当ですか?!」
本を貸すと言った途端に、嬉しそうにして僕を見る。そんな目で見ないでくれ、本気で好きになってしまう。
「うん、貸すよ、それに、学年が違ってても家が近いからすぐに返せるでしょ?」
「じゃぁ!有難く借りさせて頂きます!」
「うん、返すのはいつでも良いから、ゆっくり読んでね?」
「はい! 私読むの早い方だと思うので! 明日か明後日にはお返ししたいと思います!」
「ん、わかった」
そんな事を話している内に、気がつけば商店街を通り過ぎ、神郷高校の正門が目の前に迫っていた。
「『8:15』これなら余裕で間に合うか」
「ハイ、間に合って良かったです」
「じゃあ、また会えたら」
「ハイ!ありがとうございました!」
互いに言葉を交わして、僕は自分のクラスへと、彼女は職員室の方へと向かって行った。転校生は担任と一緒に自分のクラスへ向かうらしい。
「……」
つかの間の夢から覚めた僕は、無言で二年四組を目指して歩きはじめる。
一年生のクラスが三階、二年生のクラスが二階、三年生のクラスが一階にある。
階段を上がって、二階の廊下の突き当りにある教室、そこが四組。
教室の前に立って、ほんの少しだけ立ち止まった後、僕はそのドアを開けた。
「あ! 今日も“ゼロサイ”が来たぞ!!」
「よぉ“ゼロサイ”! 今日もまたいじめられに来たんか?!」
「うわきっも、近寄んなよ“ゼロサイ”」
結局は、やはりこうなるのか。
『一日の予定』というものは、大体その日、家を出た途端に想定がつく。
今朝のような『想定外の事』は時折起きるが、その程度だ。
今日も僕は『予定通り』に落書きだらけの自分の椅子に座り『予定通り』にゴミが積められた机に突っ伏す。
そして『予定通り』に担任が教室に入り学級委員長の『起立』の号令が聞こえるまで待つのだ。
それまでは、僕は寝たふりをする。例え少し『嫌な気持ち』になったとしても、反応することなく、出来る限りの沈黙を貫く。
「見てこれ!」
「おお! いいねそれ!」
「ははは! バカだろお前!」
隣のバカ共達が僕を動かそうと、また何かをしようとしている。昨日は茶を頭にかけられたが、今日はどうだろう。
僕は身を構え、気を引き締めながら今日僕にされる“悪戯”を予想していた。すると──、
「「あははははは!」」
──三人の笑い声とともに、僕の頭から首元にかけて何かが垂れてきた。
「お前なんでそんなの学校に持ってきてんだよ! はははは!」
どろりとしたそれはまるでよだれの様で、頭を伏せた僕の目の前までそれは滴る。頭は伏せているだけで目は開いているので、滴ってきたそれが何かは一目でわかった。
「いいだろ? 親父が映画関係で働いてるもんだからこういうの家に結構あるんだ!」
血糊だ。
「見ろよ! 血まみれだぜ!」
笑い声。
「うっわ! 病院いったほうがいいんじゃね?!」
また笑い声。
「でも動かねぇからもう死んでんじゃねぇの?」
またまた笑い声。
「まぁ才能が一個もない奴なんて死んで当然だろ」
「「ハハハハハハハ!」」
耐えるんだ。今ここで顔を上げたとしても、何かをしたとしても何も変わらないどころか、奴らの手玉だ。
だからひたすらに『耐える』たとえ服が汚れたとしても。
『耐える』
そうして笑い声と、滴り続ける血糊の、粘りつくような嫌な触感を耐えて暫くして、教室の扉が開いた。
「ヤベ、矢島だ」と言って、途端に横の馬鹿どもを含め、教室は静まり、一人の女性の声が聞こえた。
「号令お願いします」
と、彼女が言うと。
「起立」と学級委員長が声に出した。
それと同時に僕を含む教室にいる生徒全員は立ち上がる。が、さすがに今日ばかりは、立ち上がった僕に教師である彼女は反応する。
「紺野君? それは──」
「血糊なんで大丈夫です。続けてください」
「……わかりました」
「礼!」と言った途端に全員が頭を下げて上げ、「着席!」の号令と共に全員が席に座る。
「では、出席を取ります」
長い黒髪に、すっらっとした立ち姿の女性。二年四組の担任“矢島翔子”は、いつも通り冷静そうにして、生徒一人一人の名前を読み上げ、名を呼ばれた生徒達は返事をする。
「六番、紺野零くん」
「ハイ」
それにしっかりと答える様に、僕は淡々と返事を返す。
やがて最後の人の名前が返事を返し、出席確認は終わる。
「報告ですが、先日の進路調査のプリントを提出していない生徒は今週中に提出するように、それと名指しにはなりますが、紺野君は後で廊下に、以上です。号令」
「起立!」と、言われるがままに委員長。
一方僕は『だろうな』と思いながら立ち上がり「礼!」という号令が終わると共に、血糊を滴らせながら頭を下げる。
「着席!」の号令が委員長の声が聞こえる間もなく、生徒たちは先程同様、さわがしい自分達の時間を始めた。
一方で、僕はといえば、地面に血糊で血痕を残しながら教室を出た。
「紺野君」
教室を出た先で待っていたのは、矢島先生だった。
「……今日は一段と酷いですね。ごめんなさい」
先生は僕の顔に滴る血糊を自らのポケットから出したハンカチで僕を拭こうとしたが、僕はその手を抑えた。
「いいんですよ。アイツ等の思い通りにはさせたくはないので……」
「でも……」
「先生までアイツ等の標的になったらそれこそおしまいです。幾ら教師だとしても、親に言われたら……」
「……」
先生は悔しそうな顔をした。
さっきの三人、二年四組にいる問題児達のタチが悪い所は『各々成績が良い上に親の権力が強い』所にある。
僕に『紺野零は才能が無い』という意味の“ゼロサイ”というあだ名を着けた“青木大河”の父親は、神郷町の隣町、上伊吹町の町長。そして母親は、この学校の保護者会の副会長。 本人の一年学年末時点の学年成績は学年三位。
さっき僕に血糊をかけたであろう“亀田洋治”の父親は、日本でも名が知れた映画監督。母親は、彼の姉が一つ上の学年にいることもあり、保護者会の会長。一年学年末時点の成績は学年五位。
そしてその二人をまとめ上げる男“三城優希”の両親は共に政治家だ。一年学年末時点の成績は学年一位。
もし、この三人の気にでも触れたら、その時は相手が教師であろうが問答模様で権力で締め上げようとするだろう。
「じゃあ、僕はトイレで洗ってきますんで、先生は、できれば替えのカッターシャツを持ってきてくれると助かります」
「わかったわ」
と、トイレへ向かうべく僕が歩き出した途端。
「……紺野君」
すこし呼び止められる。
「……ハイ?」
僕は振り向いて、彼女の顔を見た。
「キミは……本当にそれでいいの?」
「…………ええ、僕以外に同じ目に会ってる奴は、今頃僕ぐらいしかいないでしょうし」
僕は『大丈夫だと』いう意思を見せるべく、平然とした表情を先生に見せつけた。
「……ごめんなさい」
と、先生は言うが、僕は気にもしないでおく。
「あ、洗うの、職員室前のトイレでいいですかね? そこだと職員室も近いですし、着替えも渡しやすいですよね?」
「……ええ」
僕は血糊が出来る限り廊下に落ちないようにしながら歩く……と言っても固まりつつあるが。その隣を矢島先生は出席簿を持ちながら無言で歩き始める。
職員室は一階にあるので、階段を降りたが、ここで予想外のことが起きた。
「紺野先輩?!」
階段を降りた先に廊下を挟んで職員室があるのだが……。
「どうしたんですか?!何があったんですか?!だれにやられたんですか?!」
その廊下をちょうど歩いていた日出さんがいた。
「大丈夫なんですか!?」
と、目を合わせる間もなく、日出さんはとてつもない勢いで声を上げながら僕に迫り依る。
「大丈夫、これ血の──」
「今すぐ名前を言ってください!さぁ!!」
『あーダメだ、そういえこんな人だった』と、焦る僕だった。。
「日出さん!何してるんですか!」
が、そこに割って入ったのは『寝癖を生やし、緩んだネクタイを着け、白衣を着こんだ』一人の男性教師だった。
「すいません先生! でも、ご自身の先輩が頭から血を垂らしているのを見て! 先生は無言のままでいられると思いますか?!」
「頭から血って……。そんなわけ……って! ええ?! ホントに頭から血を垂らしてる生徒が?!」
「だから落ち着いてくれ日出さん! それと式田先生も! これ血糊だから?! 偽物だから?!」
そんな様子を見兼ねた俺は、思わず口が出た。
状態を余計にややこしくしたこの白衣の男は“式田正之”先生だ。一年と二年を担当する化学の担当教師で、僕の元担任だった先生だ。
「武田先生、おはようございます。今日もうちの生徒達をよろしくお願いします……確か、5時間目ですよね?」
「おぉ! 矢島先生! こちらこそ! いつも国語の授業をありがとうございます!」
「なんでこの状況であなた方はそんな恒例行事のように挨拶を交わせるのか僕は知りたい」
と、話す僕たちの横で、やっと状況を飲み込んだ日出さんがホッと落ち着いていた。ホント、事情を話す前に行動しようとする性格はどうにかならないのだろうか。
「じゃあ、先生、僕は洗ってきますんで」
日出さんが落ち着いた様子を見た僕は、矢島先生にそう言って、トイレへと向かう。
「わかりました。では武田先生、と……」
「あ! 失礼しました! 今日からこの学校に通わせていただきます! 一年二組の日出神奈と申します! えっと……」
「二年四組の担任、国語科の矢島です。この後一限目の国語の授業、あなたのクラスだから、よろしく」
「よ! よろしくお願いします!」
「では、私は彼の着替えを用意するので、また後で会いましょう。それと武田先生──、」
「ハイ!」
「ネクタイ、緩んでますよ」
「ハイ!」
武田先生はネクタイを締めなおす。
一年の頃から気づいてはいるが、武田先生はどうやら矢島先生に惹かれているらしい。同じ教員大学の同期だったらしく、大学時代からの片思いだとか。
僕はその噂に対して『まぁ、僕が知ったことではないな』と思いながら、男子トイレの中へと入って行った。
僕と日出さんが話す光景を、僕と矢島先生を面白がってつけて来ていた例の3人が見ていたとも知らずに──、




