3章 entity(Jul.29th.2009)
n.【entity】
1 実在するもの、実体
ぼくは仮想世界の中学生活に慣れて夏休みに入り、DNRのこともすっかり忘れかけていた七月二十八日。
思い出せば、現実世界でDNRを起動したのもその日だったか。
普段カレンダーを見ずに手帳と腕時計と携帯電話で日付を把握している自分だが、奇妙な出来事が起こった日にはまるで人が変わったように日付をしっかり覚えている。
DNRを忘れた今でも、まるで奇麗な厨房から時々鼠が出てくるように、突発的に思い出すことがある。そして思い出すたびに考える。
現実世界では、あれからどのくらい経っているのだろうか。
しかし、現実で経っている時間が数分であろうが数年であろうが、思索の必要はない。そう思えた。
自分は他のことを考えずに現在を楽しむべき、だと。
毎回そんな結論に至った。
そうしてぼくは自分自身の生活を頭の中で整理しながら、広く極端に人口密度の低い校庭の端にある、ただ一つだけ置かれたベンチに座っていた。
学校指定らしく微妙なデザインをした真紅のジャージ姿の文奈はすぐ左隣に背筋を伸ばして座りながら、太股と太股の間に可愛らしく両手を置いて躰を前に傾けている。
今しているように――ただ一緒にいるためだけに、文奈の部活が終わった後にぼくは学校に来ることになっていた。
……というわけで、文奈に呼び出されて来たものの――後ろからうなじに照りつける直射日光が熱い。自然に肌から汗が吹き出て、それは空気と触れて温度が下がっていくが、どうも汗より太陽のほうが勝るらしい。
ぼくが密かに苦しんでいる様子に気が付いたのか、文奈は突然口を開いた。
「のぶ? ここ暑いよね? 違うところでもいいよ? 一緒にいられればどこでもいいし」
「いや、大丈夫だけど」
「でも暑いんでしょ?」
「ぼくは大丈夫」
「あたしが違うところ行きたいって言ったら?」
少しやられた心持ちだった。
「行く」
「……じゃあ行こっ」
しばらく文奈の後を追って歩くが、適当な場所が見当たらないらしく、
「うーん……」といいながら文奈は周囲を見回している。
「もうここらへんでいいじゃん。屋根もあるし」とぼくが指したのは、自転車置き場の割れかけたトタンの下にあるたまたま空いている空間だった。
「うん」二人で立ち止まった。座る場所はない。どこかに寄っかかっても、制服を土埃で染めることになる。
突然文奈が下を向いてうつむき始め、少し意味深な表情を作った。
ぼくは胸の皮膚の裏を保冷剤で冷やされるような感覚がするほど不安になった。
そしてまた突然。
「あのさ、今ちょっとのぶに言うことがあるんだけど」
その雰囲気にぼくは焦りながら、必死に平静を装いつつ答える。
「何、急に?」
背が低い文奈は上目遣いにぼくを見て、
「のぶ? あたしが本物じゃないってことは知ってるよね。偽物でもないけど」文奈は、普段こうして目を見つめながら話すことはまずない。
「え……」文奈の目に常ならぬ思いを感じて、それに圧倒された。
「何も考えないで、正直に答えてみて」
高まる心拍数を必死に心臓の奥底まで隠しながらぼくは口を開く。
「一応……ぼくがいる世界が本物じゃないってことは知ってたよ……まさか文奈がそう言うとは思わなかった」
「うん。未来のあたしが、今のあたしをつくってるんだよね」
ぼくは唖然とした。まさか言われるとは思わなかった。
そうして生まれた感情が悲しみとも寂しさともわからず、ぼくの目はいつもより少しだけ潤った。
「じゃあ、未来のことも――」
「今のあたしは未来のあたしと同じ人じゃないけど……知ってることはあるよ」
そう小声で囁くように言いながら、文奈は声に出すことなく少し泣き出していたようだった。まぶたから一滴ぐらいの涙が溢れた。
「たとえば?」
「言うよ。のぶが知ってることばっかりだろうけど。高校に上がってからあたしとのぶは全然話さないで、交流もない。ずっと会ってない。それでも、未来のあたしはずっとのぶのことが忘れられない。会えなくなってるも同然だけどいつか会おうと思ってる」
「あ、あれは……」
「あの気持ちが。あの気持ちがあったから、これが完成したんだよ?」
僕は頭の中で思い出して、それが思い出せたことが嬉しくて、まるで背広を着たビジネスマンがゆっくり頷くかのように首を上下に振っていた。
「え?」気になる様子の文奈。
ただ、その文奈がDNRというマシン自体を知っているかどうかはぼくにはわからない。
「何でもないよ。そこまでしてぼくに会おうとしてたのは薄々わかってるような気がしてた。文奈は人見知りするし、人と話すのは苦手だもんね」ぼくは言って、近くの雀が飛び去っていくまでの数秒、文奈を見つめる。
「へ? え? 何見てんの、はずいよ」
「うん、文奈ならやりかねないってね。ちょっと思ってた」
「気になるよ……ん、のぶは?」
「何が?」
「未来ののぶのこと」
「未来のぼくはね、文奈とだいたい同じ。文奈のことを忘れられないでずっとまともに恋愛できないでいる」
ほぼ直立のぼくの腕に、文奈が抱きついてくる。ジャージの赤いナイロン生地の手触りが滑らかで気持ちよかった。肩の近くには文奈の唇がさりげなく触れている。
「のぶ……可愛いなあ……大好き」
その言葉と一緒に文奈の口元が動くのを、ぼくは腕で感じた。
「ん……恥ずかしがり屋のくせに、こんな見られそうなところで……」
「そう言うのぶはどうなの?」
「……」ぼくのほうが恥ずかしがり屋だったのか、何も言えなくなった。
数秒の沈黙。体育館で余所の部活が練習をする音が聞こえる。バスケットボールが大地を踏みしめる音が。
「のぶ、ここで泣かせて……袖濡れちゃうかもしれないけど」
ぼくは黙りながら文奈の滑らかなショートカットヘアを撫でた。文奈の躰が少し強ばって、ぼくを抱き締める力がほんの少しだけ強くなった。
「泣きたかった……の」といいながらぼくの腕にしがみつくように掴まる文奈。
「辛いんだ?」
「うん。えーと、明日は……。七月二十九日は?」
「誕生日だろ」とぼくが静かに言うと、文奈は思い切り泣きたいと言うかのように、ぼくの腕を抱きながら呻いた。
その声はすぐに収まった。
「あの……その、ね。明日なんだけど」
何か悪い予感がして、「は?」とぼくは素っ頓狂な声を出してしまった。
「明日の夜ね……この映像が終わっちゃうの。のぶは現実の世界に戻って……あたしは……あたしは……死ぬことになる」
ぼくが黙りつづけていると、文奈が続けた。
「のぶからあたしが遠く離れると、この世界は終わる。自分たちでこの世界を終わらせないと、のぶは中途半端にこの世界から抜けて、現実には戻れなくなる」これぞ文奈のつくった、ずいぶんロマンチックなシャットダウンコマンド。
文奈と離れればDNRが終了するなんて。
どうしよう、そう思う前に、自分は何を言えばいいのか、何をすればいいのかもわからなかった。
ぼくはただ、この世界の終わりを受け入れたくなかった。
「明日、あたしがバスで遠くに行くから。ずっとここにいるのは……無理。下手したらのぶも死んじゃう」
心の奥にもやもやした、どうしても表すことのできないストレスがあって、返事できなくなったので何も言わなかった。
「いやだよね……でも、あたしはのぶを殺したくない。あたしが死んだほうがまだいい。現実世界なら、本物のあたしが生きてるし。返事して?」
文奈が言っていることは理解できる。でも、理由なくこの世界にいたかった。
「明日か。明日。明日ぼくは戻るんだ。明日ならもう考えごとしてる暇なんてないよね。ごめん」
「『ごめん』、なんて言わないで。罪悪感抱いたまま死にたくないの」
ぼくは自然に「ごめん」の一文字目を言いかけて、「うん」という。
「少しの間だったけど、ありがとう。それと、向こうの文奈に代わって。また会おうね」
「文奈。とても楽しかった。だから、ぼくは悲しまないよ」
「ありがと……しばらく――いや、夜まで一緒にいよ」
どんな夢だって、終わりがある。現実を見なければならない。そう自分に言い聞かせながら、ぼくの腕にいる文奈を抱いて目を瞑った。いつ睡眠についたのかはわからない。どこで寝たのかも、起きたときにはわからなかった。
昨日のように、太陽がこれ以上ないほど照っている昼頃。ぼくは文奈と、広い幹線道路の端にある、小さくて狭い歩道のバス停のそばに行った。
文奈は学校に行くわけでもないのに、セーラー服を着ている。本人曰く、「夏休みの昼に私服で外歩くんだったらのぶと一緒にいないといや」らしい。ぼくは不偏の私服。実に目立たないデザイン。
バス停に到着すると文奈は強くぼくの手を握ってきた。その力は強く、数分握られているだけでも疲れてくる。
「ちょっと痛いって。そこまで恐がるな、最後ぐらい」
「大丈夫だよね? のぶはあたしのこと忘れないんだよね?」
「うん、当然だから安心しろって」
ぼくと文奈が言う言葉の一つ一つが死期の決まり文句のようで、儀式的だった。
死者を見送る儀式。いや、人が死者として変わるための儀式。
文奈が息をゆっくり吸い、
「ふう」といいながらゆっくり息を吐いた。息を吐いた後も、握る力は強かった。
バスのダイヤはよくわからない。バス停にも表示がない。だからいつそのときが来るのか、ぼくにはよくわからなかった。
本来はそれこそ死なのだろう。でも、この世界では常識が崩壊しかけている。それもあって、文奈の生に縋るために、一般的な死のみかたはしたくなかった。
でも残念ながらも、死は死以上でも死以下でもなく、この世界でも死は死でしかなかった。
しばらくして、文奈はぼくの手を軽く握りなおして、無言でぼくに寄り添ってきた。
文奈の体温を感じながら目の前を眺めていると、右から左に速く走る車が死までの時間を早めているようで恐ろしかった。奥に見える、反対車線を左から右に走る車は――文奈と少しでも長く一緒にいたい、ぼくの心を表しているようだった。
文奈と、ずっとこのままの状態でいられたら他のどんなことより幸せだと思った。
逆に、文奈とあと少しで別れることがこの上なく悲しかった。
時間には誰も抵抗できないとはよく言ったものだが、まさにその通り、心の奥で予想していたとおりバスが遠くに姿を見せた。文奈は黙り込んでいる。しばらくしてバスがこちらへ車体を寄せつつぼくと文奈の目の前に止まった。バスの雰囲気はまるで動物園で立ったまま動かない象のようである。
死ぬ前の儀式のようなことをしたかったのか、ぼくは握っていた華奢な手を放し、文奈を抱こうとした。文奈は照れくさそうに拒絶した。
「ごめん……最期の最後で……あたし、恥ずかしいんだもん。あたしも抱きしめたかったけど……ごめん……もう抱きしめられなくなるってのに」
「あ、文奈……」文奈の言葉にぼくはしどろもどろした。文奈もぼくも、死を前にしたショックは大変なものになっている。
急に辺りが静かになって、その中でぼくの鼓動と文奈の鼓動、風の流れが強調されたようによく聞こえた。
チープでレトロなブザーが鳴って、バスのドアが開いてから、文奈のまぶたから今日初めての涙を溢れた。
今まで強がっていた様子の文奈が涙を流し、それがぼくにはとてつもなく可愛く見えた。
残酷なことにも、最期が恐ろしいほど可愛く見えるなんて。
不謹慎なことに、人を殺す人の気持ちがわかった気がした。
愛する人の死を目前にするとここまで精神がおかしくなるとは。
「……好き……大好き……だから、あたしのこと忘れないで……」文奈が泣き始めたことがわかる、鳥が鳴くような声。
これは現実の世界で中学を卒業するとき、文奈が言ったのと全く同じ台詞だった。
「あたしは絶対に忘れない」と、さっきとは変わって泣いていることを隠すように落ち着いた口調で言った。
歩道のコンクリートに一滴の涙が滴った。
文奈が目の周りを濡らしている涙を拭い、無理に笑顔をつくってぼくを見つめた。ぼくが「もちろん忘れない」というと文奈の笑顔は眩しくて自然なものになり、悲しさを棄てた顔でバスのステップを一段一段と上がっていった。
「天国でも……ずっと待ってるからね……ずっと……
また会おうね。
もう会えないなんてことはないよね、これが最後の再会だとしても」
ぼくの脳裏には文奈と初めて会った日の情景が浮かび、その情景から今までの時間を思うと悲しくなった。この世界から抜け出すことがひたすら悲しかった。
現実で、無口だった文奈と付き合い始めてから、彼女が言った言葉は、一つ一つが今もぼくの頭の中に鮮明に残されている。
次のこれが、現実世界でぼくが聞いた文奈の別れ際に言った最後の声であり、仮想世界でぼくの聞く文奈の死に際に言った、おそらく最後の声だ。
最後の。
「じゃあね! ばいばい!」その声がしたときには、文奈はぼくからは見えない場所で座っていた。
いつも物静かで温和しい文奈にはひどく似合わない元気な声だった。その声がバスの中から聞こえて、ぼくが何か返事しようとした瞬間にドアは閉まった。ふと足許に視線を下ろすと、涙は乾ききっていた。
アイドリングストップをしていたバスのエンジンがかかり、黒い排気ガスを出しながら発った。次第に遠ざかっていくバスを見ると悲しくなりそうで、だからすぐに後ろを向いた。
ぼくにとって長い時間が過ぎて、バスの走る音は聞こえなくなった。気付けば、それ以外の車が走る音も聞こえなくなっていた。
そうして仮想世界の千葉文奈は、十三歳の誕生日に、その短くて長い人生を終えた。再会した文奈が死んだ。
ぼくは感じたことのない、何か苦しさを感じた。
かといって、その苦しさはぼくにとって悲しいのかも、寂しいのかも、恨めしいのかもわからなかった、
醒めたときの辺りが全面真っ白になっている光景は、まるで想像上の天国のような虚無に包まれていた。




