2章 levity(Jul.28th.2009)
n.【levity】
1 [おおげさに]軽率、無思慮、場違いな陽気さ、気まぐれ
DNRが届いだ次の日。あの一文はどうしても忘れられない。
「あの気持ちが。あの気持ちがあったから、これが完成したんだよ?」
昔。中学卒業の頃、文奈と別れてからずっと寂しかった。死にそうなほど。
そのぐらいぼくにとってもかけがえのない存在だった。
実は、という必要のあることかはわからないが。
こういう人は普通全然いないと思うが――電話とか手紙は、とても仲が良すぎて逆に必要なかった。
一応電話番号や住所は知っていたが、毎日会っていたから電話をかける必要も手紙を送る必要もなかった。
文奈が遠くに引っ越すことになって別れる頃には、電話以外の連絡手段を訊き損じてしまった。
当時の連絡網も今は灰と化している。
だから今は音信不通。
……そういったことにいつまでも拘るわけにはいかないので、今日もぼくは目を見開いた。
昨日と同じ午前八時前後を壁掛け時計が示す。
心臓からつま先や首筋まで段階的に神経が覚醒していき、睡眠の緊張からぼくの躰は解放される。
カーテンの隙間から射し込んでくる白く暗い日光が部屋を照らして明るくしている。
ただそれだけに反応して、そのちょっとした出来事が怖くて落ち着けなかったこと以外は、自分でも不思議なほど落ち着いていた。
それは、待ちに待っていたDNRが昨日既に届いていたから。ぼくの躰を包むマットレスを二枚敷いてあるベッドが心地よいのもあるだろう。でもDNRが届いたのが大きい。
そう。今まではひたすら待っているものがあった。だから落ち着かなかった。
でも、それが届いた今は、もう落ち着いていた。
……でも無理だ。落ち着けない。
ぼくはこれからDNRを使うことになる。それを考えるとぼくは落ち着けない。
千葉文奈はぼくを落ち着かせてくれない――それもいろいろな意味で。言葉では説明し尽くせないほどの語意がある。
空から飛んできた自分の棺に乗って天に昇るような気持ちだ。
例の説明書はさすがに小さい薄型テレビの上には置けずに、とりあえず一辺が一メートル前後の四角くて黒いテーブルに置いてある。
テーブルのデザインは布団とヒーターがついていない炬燵といえばまさに的を得た言い方というか、うまく表現できている気がする。
左上の端で数枚の紙を一枚に綴じているホチキスは取らず、律儀にまとめたままにしてある。
DNRはもう誰も来る予定のない玄関に放置。
部屋には物音一つ聞こえてこない。不気味を通り越して全く愉快であった。
でもDNRの存在のせいでテレビを見ることが馬鹿馬鹿しく思えて、今日、テレビは見たくもない。だから見ない。自己主張の強い電源ボタンは悉く無視する。
突然、その静寂の中一つ思いつく――今日中にDNRを使ってみることにするか、と。
そう思ったのち、不覚にも説明書の最後の一文とDNRの関係を一瞬考えてしまった。
頭の中に蜘蛛の巣が隙間なくきめ細やかに張り巡らされているような、どうしようもない感情に襲われた。その感情は天文学的な量の膨大なストレッサーの産物だった。
そういった頭の重さがいやになって、それは自然消滅するだろうと考えて――少しでも早くときが進んでほしかったから、カーテンのわずかな隙間の外に少し目を向ける。
ゆっくり見上げていくと、それほど高くないビルの一部、何もない空、雲が少しある空がそこにあった。
最後、頂上に君臨しているはずの太陽はカーテンレールに隠されて見えなかった。
見れば眩しくて、数秒の間視界に日の形が焼け付くだろう。だから見えなかったほうがいいのだろうか、それとも見てエネルギーか何か受け取ったほうがいいのだろうか。エネルギーなどないか。
悩んだ末ぼくは見なかった。何はともあれカーテンの外は極めて日常的で、見れば見るほど安心した。
日常を視ているぼくの頭の中でDNRの存在は殆ど非日常へと変わりつつあった。対比効果か。
いつも日暮らしの日常が普遍的すぎて、少しでも変なものはぼくの頭の中では即座に異端となってしまう。
繰り返し言うのもなんだが、例の文を読む度に自分が心配になり、その存在に日常が見出せなくなった。
時計が気になって眺める。八時半。そろそろ、か。全ての日常からぼくが隔離されるべきときは。
文奈がDNRを開発していれば、今ぼくは文奈と同じ会社に勤めていることはほぼ間違いない。こんなものを開発するとは文奈も出世している。あの無口人見知りで少し天然の文奈が変わったものだ。
しかしぼくは、文奈の何に感心してしまっているのだろう?
狭いが整理整頓が行き届いていることで名高い、あの六畳部屋。
そのわりと広いところにスクリーンフィールドなる純白の蚊帳を設置してみた。扉がないので中に入るために最後の一面は組み立てていない。完全に組み立てると入れなくなる、というのは重大な欠陥だ、そのうち報告せねば。
蚊帳の大きさはだいたい二メートル四方の立方体。だから少し家具をずらす必要があった。
黒いテーブルは立てかけたり、
A4サイズのノートパソコンとかプリンターは玄関に退避させたり。
スクリーンフィールドは家具・家電の配置を中途半端に変えてしまった。
そのスクリーンフィールドは軽い金属のフレームで形を成して、それに妙にざらざらとした材質の分厚い布が張られている。本式の蚊帳のように透けたりはせず、光もあまり通さない。
その見た目は「蚊帳にしては」モダンで、「コンピュータの周辺機器にしては」クラシックなつくりだった。
ダンボール箱を頭から被って女に捕まるより、この不思議な蚊帳の中で死ぬほうがまだいい。
説明書に電源コードを繋ぐべしと書いてある電源コネクタは下方の端にあった。まだ心配なので今は繋がない。心の準備ができたら。
ところで
本体
要するに
”DNR(ヘルメット型)”は
すぐ近くの
スクリーンフィールドの許に置いてある
DNRを見つめた途端、精神が破綻した。昨日より目眩がひどくなっているらしい。ぼくは動悸や目眩、立ち眩みといった貧血の代表症状を起こして倒れかけた。
ただし、右腕から背中へ、絵に描いたように上手く受け身をとることができたから完全に倒れたとは言い難い。それでも、貧血の症状のせいで倒れた瞬間反吐が出そうになった。
気道まで胃液が流動し、口から出る前に閉鎖された喉で止まった感覚。実際そうではないにしても、そんな感覚がする。
胸を叩けばすぐに口から排出されそうな感覚。
昨日でストレスが一気に溜まったのか。
それとも、だいぶ前から溜まっていたのか。
ぼくが倒れても、何も言わず寡黙に居座っているDNR。白く奇麗に光沢する本体表面もバイクのフルフェイスヘルメットそのもの。そのDNRがとても重厚に見えた。持ってみると実際の重さは二キログラム弱といったところか、見た目に反してかなり軽い。
躰をゆっくり起こしたが、右肩が痛い。コンクリートの壁にタックルしたような痛みだ、ただ、かなり痛いものでもない。耐えようと思えば平気。
DNRなら痛みを消せるだろうか?
DNRが痛みをつくるのだろうか?
それは使ってみなければわからない、今日日には。
ぼくは決意して、いよいよ準備に取りかかることにした。
いきなり準備しろといわれても、こんな文明の利器を準備するのは――手順に沿っていなければ――少し気が引ける。SF映画のように緻密に体系化され、何をするにも手順がある世界。そんな世界に、ぼくは入ったように思われた。
説明書に簡素ではあるが手順が記されていた。
その手順も文奈らしいといえば文奈らしかった。ここは文奈に従おう。
まずは乾ききった蛇の抜け殻のように曲がっている電源コードをコンセントのプラグに繋ぐ。「コンセント」――語源が不明な和製英語、なるほど実に不思議な言葉である。不思議。
そして、スクリーンフィールドの、電源コードを繋ぐべき黒い穴にコードを繋いだ。
ワインの瓶の口にコルクを詰めるような、どこか詰まったような感触。すると、パソコンを起動したときに鳴るような冷却ファンの上品なモーター音が鳴り始めた。それ以外は光らなければ音も出なかったし、動きもしなかった。
どこが作動しているのかと疑問に思ってスクリーンフィールドの周りを一周してみるが、表面の白い布全てから均一に音が出るようで、どこかの部品が出している音ではないようだ。
使い方を覚えきれていなかったぼくは再び説明書を読んだ。
1―蚊帳型スクリーンフィールドを設置し100V50/60Hz電源をスクリーンフィールドに接続してください
違う。そうじゃない。
2―スクリーンフィールドの中に入りフィールドの密閉を確認してから本製品を頭から深くかぶってください
中に入ってどう密閉しろというのだ。試しにDNRを右手に持ってスクリーンフィールドに入ったところで何か起きる気配はない。
汗も何もない、水分が存在しない世界で砂漠に放り出された気分だった。
文奈、どうすればいい? 昔はよく「のぶ、どうすればいいの」って遠慮がちに訊かれていたけど。今はぼくのほうが機械音痴になったみたいだ。どうすればいい?
「あたしだってわからないよ。ねえ、どうすんの?」
そう訊かれてもぼくはわからない。
「のぶしか訊ける人がいないから訊いてるの」
ぼくだって文奈しか訊ける人がいない。文奈以外にこれを解決できる人がいるとは思わない。
「じゃあね、えーと……適当、でいいと思う」
適当、か。
適当、ね。
そう頭の中で繰り返し何度か唱えて、スクリーンフィールドの一つの面を持ち上げてみた。二メートル四方、重さ一キロ弱。アルミのフレームを囲んで障子のようにナイロンの繊維が張られているから、ヨットの帆のように表面は揺れている。
ゆっくりと、内側から最後の面を塞ごうとする。ただ自分の手が邪魔で密閉はできない。元の位置にスクリーンフィールドの面を寝かせて、別の方法を考えた。
単純化だ。原点回帰しろ。
思考を巡らせていると、何か機械が落ちるような音がして、ぼくが入った箱は密閉した。
明るい。それが第一の感想。でも、急に閉まったんだろう。
そんなときには、
「気にしない、気にしない」
と、いつも文奈は言っていた。今はそれで正解かもしれない。とりあえず胡座をかいて、スクリーンフィールドを被った。この際思索や躊躇は関係ない。勢いも必要だ。
ヘルメットのシールド部分を閉じると、数秒後、そのシールドにある映像が映された。
正午ごろの、どんよりした空。一気に心理状態やテンションが静まる雰囲気。
ため息をついてその乾いた空気を吸うと、
音も聞こえる。
それは周りの音。砂嵐ときどき雷、のち雨。
次第に砂嵐は消えて、雷のち雨。
躰の感覚が覚醒した。躰のあらゆる部位がさまざまな感覚を受け取る。空気と触れる感覚、コンクリートを歩く感覚。
乾いた空気は濡れた空気に変わった。
そう。
あの頃の、
大人ではない頃のあの町。
ヘルメットを被っただけなのに。文奈は――こんなものを生み出してしまったなんて。
躰全体に雨が当たって、体温が下げられた。
雨を吸って重くなった詰襟の制服が気持ち悪い。
そして、ついにDNRの真相がわかった。まさか。
まさかこんなものだったとは。
中学校のセーラー服を着て、薄い水色の傘を差している文奈が後ろから歩いてきて、ぼくの近くまで小走りで近づいたところで言った。
「同じ学校で……よかった……ね。嬉しい。中学は同じクラスになれるかな?」
その声は雨に邪魔されて、少し聞き取りにくかった。
泣きそうなわけではないが、泣きそうに聞こえるような声。文奈はいつもこうだ。少なくとも元気なタイプではなかった。
それでも最大限に出す声は小さくなく、国語の朗読のときは声が大きかった。そのときに限っては元気で、聞いていると自然に和んでくる声だった。
「ねえ……のぶっ! 聞こえてるっ?」……これが文奈の最大限の声。
今日は確か小学校の卒業式、今はその後の帰り道。登校した頃には快晴だったのに、下校するときは最悪の天気だったと覚えている。
その状況にどぎまぎしながら、ぼくは声を絞り出す。
「う、うん。きっと同じクラスになれるよ」
文奈が急に話題を変えた。
「なんか……制服ってさあ、思ってたより恥ずかしくないなあ」
制服を着て歩く様子が妙に初々しい。幼くも見える所以は、このときの文奈の背が低かったからだ。
最近となると――一気に身長は伸びて、最後に見た頃の、中学と全然変わらない高校のセーラー服を着た文奈は一六〇センチぐらいの身長があったから――今もスレンダーで背が高いのだろう。
文奈が立ち止まってから屈んで、ずり落ちてきた白いハイソックスを片足ずつ引っ張って膝下まで上げた。
「文奈は恥ずかしい恥ずかしい言ってたよね。でも実際そんなもんじゃないだろうって思ってた」
「なんで?」
「みんな着てるし。文奈ってあまり恥ずかしがらないよね」
「あたしがそういうの隠すタイプってことは知ってるでしょ……」
不思議だ。不思議なくらい、あの頃の記憶が蘇ってくる。
「まあ知ってるけど。それにしてもうまく隠すよねえ」
文奈が周りを眺めて目を泳がせた。すぐに心配そうな表情に変わった。
心配そうな表情。
「親と一緒に帰る人多いね」
「そっちのほうがよかった?」
「……のぶと……一緒に……決まってんじゃん……親が来るのは、恥ずかしい」
ここまでくるとぼくはもう完全に確信した、DNRをつくったのは文奈しかいない。ここまで完璧な文奈をつくれるのは文奈しかいない。
だが……それを知ったところで今何をいえばいいのだろうか。結局何もいえない。
「確かに、そうだな」
「『そうだな』って……今言ったのも恥ずかしかったのに……」
「ごめんごめん」
信号が赤になって、雨の中でぼくと文奈は立ち止まった。十秒に一台ぐらい車が通る。
「あ……」
「ん?」ぼくは泣きそうな文奈が気になった。
「ごめんね、本当にごめん。こんなにびしょびしょになっちゃって……気づかなかった」
「いや、別にいいよ」
「ほらほら、入ってきて」
文奈のすぐ右隣に立つ。文奈は左手に持った傘をぼくのほうに寄せる。この光景は懐かしい。何か心の奥からこみ上げてくるものがあって、よく覚えている。
「左肩、濡れちゃうよ?」
「いいのいいの、手繋ごうよ」と言った文奈の顔は仄かに紅かった。
黙って文奈の右手を握る。どう比喩すればいいのかわからないほど柔らかい皮膚の表面に触れる。
「ねえ、なんか
この感じ
懐かしくない?
……そんなことないかな」
こう言われてしまったら――
「いや、懐かしいよ」
こう言うしかない。でも、言ってよかったのだろうか。ぼくは自然に罪悪感を覚えてしまった。
ひどく軽率で気まぐれな罪悪感。本心なのか微妙な罪悪感。
信号が青になって、ぼくは文奈と再び歩き出した。雨の中を、手を繋ぎながら。
ほぼ歩行者天国状態になっている人気の少ない小道を一歩一歩歩いていく。
「うーん、なんか不思議な感じがする。毎日会ってるはずなのにね。なんで懐かしいのかな」
「なんでだろうね」適当に答えることにもまた罪悪感を覚えた。
文奈は傘を畳んで少しの間雨を浴びると、突然雨が止んだ。それをぼくが不思議そうに見つめていると、文奈は目を合わせてただ悪戯っぽく微笑んだ。
「止むと思ったの」
「今日の文奈、なんか変だよ?」
「正直自分でもそうは思ってる。なんなんだろ」
「さあ」
この文奈はDNRのことを知っているのか?
DNRにつくられた文奈はDNRのことを知っているのか?
そういったあたりがとても不思議で、ずっと頭から離れない。
DNRで文奈は何が言いたかったのだろう。
ただそれが気になって質問したくなったが、それがこの世界ではタブーになりそうで。
でも、訊きたくなる。「文奈、なんか今ぼくに言いたいことある?」
「のぶもなんか変じゃん」
「まあ、ね。まあいいから」
「うん、その、えーと……」文奈はこみ上げる笑いを何とか抑えながら、「……大好きだよ」という。
単純すぎて、心外な答えだった。
「え、それはありがとう、でもそうじゃないでしょ」とぼくも笑いながら。
文奈はまだ笑っている。
「じゃあ何ならいいの? えーと」
「うーん、たとえば――」
「じゃあ訊くね。もしだよ? もし会えなくなって離れ離れになってもあたしのこと忘れない?」
大声だった。人気がない道だったが、それでも少し恥ずかしかった。
……今、大人になった文奈もこう思っているのか。
しかし、いきなりのこの発言、返事に困った。いや、言うべきことならすぐに浮かんでいた。でも口に出していいのかどうか。
それ以外に返事がないから言う。
「絶対に離れたりしないし、そんなこと考えちゃ駄目だよ」
「そんなこと言って……そのまま……別れたら……あたし、もう生きていけないよ……」
文奈の声は上擦って、目が潤んできている。その状況に慌てて真っ当らしい答えをすることにした。
「ごめん。会えなくなったとしても一生忘れない」
帰り道がぼくと文奈とで分かれた。
「……うん。ありがと。じゃあね、また中学行くとき会おっ」
「じゃあ! わかった」




