9 安全で清潔で気負いのない生活
それからはグラスウェル辺境伯のお屋敷で暫くを過ごした。
私にだってあの因習は染み付いている。
双子の妹、または弟は、生まれた時に殺されても仕方がない。生きていても自由意志など認められないし、かろうじて、私は衣食住は高水準な物を与えられていただけだ。
精神的にはいつも追い詰められていた。人として扱われない事も多く、あれとか、それとか呼ばれるのは当たり前で、ほんの少しの粗相でさえ3日は食事を抜かれたりした。
おかげで、ここに来る道中の飢えも堪えられたし、ヘンリーさまのお弁当で内臓をひっくり返すこともなかった。
私は殺されてもおかしくない存在だったと同時に、子宝に恵まれない両親の思惑で王太子の婚約者という立場によって生かされていた。
まだ、ヘンリー様の話を受け止められない。価値観がひっくり返るような話だったのだ。
だから……思い出すのはこのくらいにしておこう。今の私は、グラスウェル辺境伯次期夫人として、屋敷の中でかなり甘やかされて生活している。
食事はヘンリー様の手作りが基本で、毎日三食一緒に食べる。けれど、領主様なのだから本来は忙しいはずだ。私が侍女や使用人にもっと心をひらけば……と思うので、その努力をし始めた。
染み付いた怯えや卑下を、私のお世話を特によくしてくれる侍女……ルルーは、一つ一つ「いけません」と嗜めてくれる。
私が街に出られるようになるには、この染み付いた怯えや卑下を無くしてからだと言われた。
せっかくこの領では忌々しい因習が無いのに、領主の嫁がそれに囚われていては、領民だって落ち着かないというのがルルーの言だ。私もそう思う。
そういえば、ヘンリー様は見目も良くて、私のお世話をしながら執務をこなしている。能力もある。社交だけは嫌っているのかしている気配はないけれど、領同士の交易はあるらしい。
なのに『野獣』と呼ばれて王室や他の貴族から疎まれているのには何か理由があるのだろうか。
私から質問してもいいことなのかも分からず、まして、私は一度質問を「失敗」している。あの時の怖気を思い出すと、とても良くしてくれている今が嘘のように感じる。
だけど、私のために料理を厭わず、私が因習から解き放たれるために一生懸命にしてくれている数々のことが、それを否定する。嘘ではない、と。
「ねぇ、ルルー」
「何ですか? 奥様」
これを聞くのにはとても勇気が必要だったが、それでも、聞かないわけにはいかない。
この領に来てから少しだけ太く地色の良くなった自分の腕を見下ろして、私は彼女に問いかけた。
「ヘンリー様は……何故、私を嫁に迎えたのかしら。いくらでも婚約の申し込みがありそうなものじゃない?」
「奥様、それは私に聞いてもダメですよ」
苦笑いをしながらルルーは私を嗜めた。
たしかに、本人以外から自分に対する気持ちを聞こうとするなんて、少しずるかったかもしれない。
「そうね、ごめんなさい。今夜聞いてみることにするわ」
「でも、私から見たら、納得ですけどねぇ」
ルルーの言葉に首を傾げたが、彼女はそれ以上、何も教えてくれる気は無さそうだった。
夕飯の時に聞いてみよう。それから、ルルーとはちゃんとお喋りできるようになったことも、聞いてもらおう。
ヘンリー様の重荷になるのは、なんだか、……私が自己評価が低いことは除いても嫌だと思った。
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