2 『野獣』と呼ばれる辺境伯
「いっ……?!」
「けっ、ここまでだ。あとは迎えが来る手筈になっている。それまで魔物に食い殺されなきゃいいがな」
ギャハギャハと笑った下町の運び屋をやっている荒くれ者の男に、荷馬車から引き摺り下ろされ、地面に這いつくばったまま少ない手荷物を投げてぶつけられた私は、遠くに森が見える以外に何もない『グラスウェル辺境伯領』に辿り着いた。
婚約破棄から2週間、あっという間の出来事。
私は『病の療養』という名目の元、婚約解消となり、ブレンダが新たに王太子妃として婚約者となった。さすがに元からブレンダと婚約していた、というのは難しく、家同士の力関係を考えればブレンダが新たな婚約者になるのは誰にも止められるものでもなかった。
そして、私の存在は秘され、病という事で誰も詳しくは事情を聞かず、家では居場所を無くし最低限のもの以外を取り上げられて……そのきっかけはブレンダが告げ口したことにも関わらず、私が忌子だからということとなり……、結果、見窄らしいワンピースにブーツ、そして荷馬車で1週間以上野宿を繰り返して、ここに辿り着いた。
汗と埃でドロドロに汚れた服も体も気持ち悪い。荷馬車のささくれで裂けた服や皮膚も碌に繕えもしないし、洗えもしなかった。幸い化膿まではしてないけれど、産まれた時に殺されるのと、今の状況ならばどちらがマシだろうと、辛うじて『身分』に貞操を守られた私は泣きそうになっていた。
ここに誰かが迎えに来るなんて信じられない。でも、こうして自然の中に一人ぽつねんと居るのは、王都にいるよりはるかに息がしやすく思う。
「『野獣』に食べられちゃうのかしら、私……」
つぶやいた言葉に、自分でも何がおかしいのかわからなかったが、よく分からない笑いが込み上げてきてしまった。
ここには野生の獣も魔物も出る。王宮の討伐隊もここまでは遠征しない。
しかし、グラスウェル辺境伯領からそれらの獣や魔物が国に溢れ出したりもしない。辺境伯その人が、獣も魔物も間引きしていると噂で聞いている。
だから『野獣』と呼ばれているし、誰も姿を見たことがない。領を離れられないからだ。
どんなにむくつけき男性が現れても、悲鳴はあげないようにしよう。それに、今の汚れ切った私の方が余程獣臭いだろうし。
そんな事を考えているうちに、道なき道を4頭の馬が立派な黒塗りの馬車を引いてやってきた。
御者席には帽子を被った若い男性……王太子殿下と同い年くらいだろうか? が、座っていて、まっすぐこちらに向かってくる。
ちぐはぐな取り合わせに、馬車の車輪が草に取られはしないのだろうか、とややズレた気持ちで見守っていると、馬車は真っ直ぐ私の元に来て止まった。
御者席から男性が降りてくる。よく見れば、刺繍入りの立派な服を着ていた。
「迎えが遅れてすまなかったね。よく来てくれた、僕がここの領主のヘンリー・グラスウェルだ。よろしく、メルクール嬢」
帽子を取って切り揃えた金髪と青い瞳を晒した細身の美青年が、場違いな服装と流麗な礼をして、私の手を取り流れるように口付けた。
彼が、『野獣』ヘンリー・グラスウェル辺境伯。
人心地ついた暁には、野獣、という言葉を辞書で引き直そうと、驚いて固まってしまった私は飛んでしまった思考で考えていた。
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