晴天の霹靂
それは正に、青天の霹靂だった。
始まりは両親の離婚。
高校二年で社会経験もない俺には、その流れに抗う術を持たなかった。
父は女を作って出て行った。ドラマや漫画ではそう珍しくない展開だが、自分の身に起こるとこうも非現実的に感じるものか。
俺は当然のように母についていくことになり、母の田舎に引っ越すことになったのだった。
神住町は、ド田舎とまではいかなくとも人口のそう多くない、自然に恵まれた町だ。
大きめの一軒家がぽつぽつと並び、隣の家まではおよそ十メートル。自転車や車を使えばスーパーやコンビニも一応ある。
だけど、都会育ちの俺にはまるで刑務所だ。
今時のアパレルショップや行列のできる店、ゲーセンが恋しい。
スーパーの二階にあるおっさんが着るようなカーディガンとか、昼の二時で閉店する定食屋とか、河原の石投げとか、どんだけ。
ああ、辛い。
だが離婚した母は生き生きしていたので、何も言えなかった。
それでも俺が不満そうな顔をしているのを察したのか、「住めば都よ!」と明るく言われた。
母にとっては生まれ育った土地だ。愛着があるのだろう。実家に帰ってきた安心感もあるんだと思う。
祖父母も嬉しそうだ。嬉々として引越の荷ほどきを手伝っている。
「いやあ、孫と暮らせるなんて嬉しいなあ」
「こんな田舎じゃ若い子はすぐ飽きちゃうかねえ。あ、後でプリン買いに行かんとなあ」
小さい頃はこの家に遊びに来る度に、祖母がプリンを買ってくれていた。昔は喜んで食べたものだが、今はなくても別に不満はない。…言えないけど。
ちなみにこれから俺も住む祖父母の家は、田舎の割にはきれいな二階建てだ。最近リフォームしたらしい。
俺の部屋は二階の端、広くてきれいな部屋だ。すでにベッドと勉強机が用意されている。
…うん。部屋は悪くない。住みやすそうだ。
後は俺が田舎に飽きて引きこもらないかが心配だ。何故なら住みやすそうな部屋だから。
ピンポン、というチャイムの音で目を覚ました。
…俺、寝てた?
一階の茶の間の机に突っ伏していたらしい。肩には毛布。母だろうか。
そして俺の顔の横にはメモが置いてあった。
『夕飯の買い出しに行ってきます! プリン買って来るからね☆』
見たことのない丸文字。
母じゃない。え、じいちゃんかばあちゃん? 女子高生かよ。☆が若干古いわ。じいちゃんだったら引くわ。
ピンポン。
あ、やべ。俺しかいないなら出た方がいいよな。
だるい体を動かし、玄関へ向かい、引き戸を開ける。
そこには、いかにも畑を耕してそうな腰の曲がったおばあちゃんが、黒いバインダーを持って立っていた。
そしておばあちゃんの隣には、背の高い男。髪はぼさぼさ、無精髭を生やし、黒いコートを羽織った、おそらく三十歳前後と思われる怪しさ全開の男だ。
おばあちゃんがいなかったら確実に戸を開けたことを後悔していただろう。
「あー、おったおった。遠山さんのお孫さんやね?」
おばあちゃんはにこにこしながら俺に話しかけてきた。
「あ、はい。孫の光太郎です。お世話になります」
「はあ、しっかりした子やね。ワシは隣に住んどるトヨです。ほんでこれ、回覧板な」
回覧板! 初めて受け取ったわ。都会ではもうあまり見ない。
黒いバインダーの正体は回覧板だったか。
「ありがとうございます」
「遠山さんはこの町の町長さんやからな、せっちゃんに渡しといて」
せっちゃん、とは祖母のことだろう。節という名前だ。
そしておばあちゃんは隣の不審な男の方を向いた。
「言継さん、お疲れさんやったね」
言継、と言われた男はそこで初めて微笑んだ。お、意外とイケメン?
「トヨちゃん、ご馳走になったな。また回るからさ」
「待っとるよ」
にこやかにそう言うと、トヨさんは年のわりに軽い足取りで去っていく。
…そして何故か黒い男が残った。
え、何で?
「あの、言継さん、でしたっけ? うちに何かご用ですか」
言継は俺の言葉に眉根を寄せた。そういう顔をすると人相が悪くて怖い。
「何だお前、せっちゃんから聞いてねぇのか」
何でこいつまでばあちゃんのことをせっちゃん呼びだよ。人生の先輩を敬えよ。
「聞いてませんね。悪いんですけど、今祖母は留守なんで出直してもらってもいいですか」
「うるせえよ。早くどけ」
俺の不満そうな声にも動じず、むしろちょっと苛立ったように俺の体を押し退けて、何と勝手に家に入った。
「え、ちょ!」
制止しようとした俺の声にも反応せず、脱いだ靴を意外と几帳面に玄関に並べると、すたすたと茶の間に入っていく。
ええ!?
何だこれ、田舎ってこうなの!?
てか怖いわ! 不法侵入だわ!
言継は勝手知ったる様子で冷蔵庫を開け、ばあちゃん特製のどくだみ茶を取り出すと食器棚からグラスを一つ取り、慣れた手つきで注いでいる。
普通人ん家の冷蔵庫開けるか?
もうマジで怖い。田舎ってこうなのか?
言継は迷いなく茶の間に座ると、まるで自分の家であるかのようにリモコンを手に取り、流れるような動作でテレビをつける。
これはもうどうすれば正解なのか、まだ高校生の俺には手に負えない。
通報? いや、村人のようだし、祖父母に連絡するべきか。
そう思いスマートフォンを取り出すのと、聞きなれた声が玄関から聞こえたのはほぼ同時だった。
「ただいまー!」
「光ちゃん、起きとる?」
「遅くなったなあ。すぐご飯作るからの」
がやがやと茶の間に入ってきた母と祖父母が、どくだみ茶をすすっている言継と、困惑して立ち尽くしている俺に気づく。
最初に口を開いたのは祖母だった。
「あら言継さん、お帰りぃ」
「ただいま。回覧板はそのボウズが持ってるぞ」
「おお光太郎、受け取ってくれたんか。すまんなあ」
祖父に手を差し出され、混乱したまま生返事をして回覧板のバインダーを渡した。
祖父母は、この男がここにいることに、特に疑問は感じていないようだ。
じゃあ母は!? 俺の味方はもう、母だけだ!
母は目を瞠り、言継をじっと見つめている。
だよね母さん! こいつ不審者だよね!
だが、母の驚きは別のところにあったらしい。
「…言継さん!?」
え、知ってるの?
母の声に、言継の視線がテレビから母に移った。
そして、先程までの仏頂面が嘘のように、笑った。
「花江か! 久しぶりだなあ。すっかり垢抜けて」
「嬉しいわ、嫁いでから会えなかったから、本当に懐かしい!」
「あーお前、住民票移しちゃったもんなあ」
「そうなの。でもまたこっちに住むことになったからよろしくね」
「おう」
そして母、花江は俺に向き直り、目の前の男を紹介した。
「光太郎。この方は言継さん。回覧板の神様よ」
…んっ?
母は今、冗談を言ったのだろうか。この状況で?
「…いやいや、神様って」
思わず苦笑いでそう返すと、母も祖父母も笑う。そして言継も。
ああ、やっぱり冗談だった。
「そうよねえ。初めて会って神様なんて言われても、普通はなかなか信じられないわよね」
「この前嫁いできた山科さんとこの優子ちゃんも、そんな反応やったわ」
えっ? 何これ、初めて「サンタさんなんていない」と言われて信じない子どもを宥める大人たちのようなやり取り。
俺は恐る恐る、言継に視線をやる。
言継はこたつテーブルに肘をつき、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
は、腹立つ!
祖父が俺の肩にぽん、と手を置いた。
「あのな光太郎、この町には、神様がたくさん住んどるんや」
「は?」
目が点になる俺に、うんうんわかるぞと頷きながらも説明してくれる。
「不思議なことにな、この町では色んな物に神様が宿る。言継さんはその中でも古株で、今は回覧板のバインダーを依り代にしちょる」
…何か色々と突っ込みどころが多い。多いがとりあえず。
「そんなわけあるか!」
うん、この一言に尽きる。
「神様が人の家に上がり込んで茶の間で寛ぐか! そもそも、これまで何度もこの町には遊びに来てるけど、神様なんて一人も会ったことねえし!」
「うん、茶の間のくだりは置いといて」
俺の主張を置いておかれた! 密かにショックだ。
「神様たちはなぜか、町の人間にしか見えなくてな」
すると母もため息混じりに頷いた。
「そうなのよ。私も町を出てから見えなくなっちゃって」
そこで言継が口を挟む。
「住民票を町に移すと見えるようになるぞ」
「何でそんな事務的なんだよ!」
神様ってもっと、神秘的な存在じゃないだろうか。
「まあまあ光ちゃん、落ち着いて。これから一緒に暮らすんやし、仲良くね」
祖母の優しい一言に、しかし俺は落ち着けなかった。
「一緒に暮らす!? 何で!?」
「何でって、言継さんはうちにある回覧板のバインダーに宿ってはるんやから、うちにいるのは当たり前やないの」
そうなの!? そういうシステムなの!?
「じゃあ回覧板回すときは一緒に回んのかよ!」
「そうやで?」
突っ込んだつもりで言ったのに、祖母に冷静に切り返された。
俺はもう、開いた口が塞がらない。
口をぱくぱくさせながら呆然と立ち尽くす俺を尻目に、祖父母はさっさと台所に移動してしまう。
母は嬉しそうに言継の向かいに座り、俺を手招きする。
「ほら光太郎、こっちおいで!」
俺以外の全員を味方につけた(ように見えた)言継は、にやにや笑いながら口を開いた。
「よろしくな? 光ちゃん」
「うるせえええ!」
そう言った直後、母に頭をはたかれたのは言うまでもない。