第三稿
千坂の同棲慣れを克服しよう。
そう思って、確かこの頃に『髭を剃る』を買ってきて読みました。
何か、暖かく空腹をくすぐる匂い。暴力的な眠気に襲われていた頭が次第に理性を取り戻し、まぶたを照らす日の光が鬱陶しくて目を開いた。枕元のスマホの電源ボタンを押して、首だけ回して時間を確認する。
朝八時。どう考えても、起きるには早すぎる。
腕やら脚やら飛び出しているタオルケットを被り直して、もう一度寝てしまおうか。枕に顔を擦り付けるも、やはり起きることにした。あの匂いの元が何なのか、気になったのだ。
身体を起こし、髪を撫で付ける。ベッドから足だけ下ろして、さわさわと足場を確認。昨日脱ぎ捨てたワイシャツを蹴り飛ばして、俺は立ち上がる。
「きったね」
薄手のカーテンからぼんやりと朝日の差し込む部屋に、その言葉は似つかわしい。テレビのでたまに取り上げられるゴミ屋敷ほどではないけれど、人が見ればウッと言う。そんな感じ。だから、今更どうしたという感じだけれども。
大学の講義資料とか、職場で刷りすぎたのをコソコソと持ち帰ったやつとか、服とか。俺はぬかるみを蹴っ飛ばす心地で歩いて、手狭な寝室の引き戸を開ける。
「おい美瑠、お前また勝手に……」
腹をボリボリかきながら居間を覗くと、しかしそこには誰もいなかった。憎たらしいほどにすうっと流れる黒髪を予想していたのに。
質素に整えた居間はいつも通り。ただ、安物の丸テーブルの上には濃紺のマグカップが一つ。艶やかに茶色いココアが、甘ったるい湯気を立てている。
「うぇえ、気味悪い」
サブイボが立った気がして、腕をさすった。ホカホカとしたココアは確実に俺が入れたものではないし、そも我が家にココアなんて置いてない。だというのに、あのマグカップは俺のものだ。
もしこれが美瑠の仕業なら自分のマグカップを使うだろうし、空き巣だとしたら呑気なことだ。
明らかな異常事態にしばし考えてみるのだが、うん、わからない。
「トイレ行こう、トイレ」
もしまだ不審者がいるなら、お金を払って帰って貰えばいい。さっきの寒気のせいか、無性に小便をしたくなった俺はトイレへ向かった。
後になって思えば、この時の俺はあまりに寝ぼけていたんだろう。
居間には明らかに異常なものがもう一つあった。それはマグカップなんかよりよっぽど大きい、ねずみ色の学生鞄。ポップでキュートで、ところどころ塗装の剥げたキャラクターアクセ付き。
俺はトイレの前に立ち、ドアノブを握る。
「あっ、ちょっ……!」
中から高い声が聞こえた時にはもう遅い。開け放ったそこにいたのは。
ちょうどパンツを履いたところの、JKだった。
「ひ、ひとっ……、人好せんせっ?!」
「うわっ、びっくりした」
口先で驚いてみたものの、よっぽど目の前の女子高生の方が動揺していた。スカートを足元に下ろし、ブラウス一枚。俺に向かって前屈みに、ほんのりソーダ色のパンツを上げきった姿勢で固まっている。すらりとのびた脚は、健康的な肉感を感じさせる。
ふるふると震えながら見上げてくる彼女の、そのつんつんとした亜麻色の髪を見て、俺は唐突に思い出した。
「あぁ、そういえばお前、いたん――」
「そんなことより、早く出てってください!!!」
彼女が咄嗟につかんで投げつけたものを俺は避けきれない。顔にズッポンを貼り付かせたのは、生まれて初めてだった。
◇◆◇
「千坂お前、ズッポンはないだろ、ズッポンは」
「いやあの、すいません。本当に」
洗面所で顔を洗い終えた俺が居間に戻ってくると、件の女子高生、千坂はしおらしく座り込んでいた。俺は顔を拭きつつ、彼女とテーブルを挟んで座り込む。
当たり前だが、千坂はすでに制服で身を包んでいる。なんなら、さっきは見当たらなかった臙脂色のブレザーまで着込んでいる。あれは確か、私立桜ヶ丘女子の制服だ。
そこまで考えて、胸の中に苦いものが広がるのを感じた。やはり、昨日の夜こいつを拾った俺はどうかしている。
女の子座りして、膝の上で手をもじもじさせている千坂が苛立たしくて、口を開いた。
「それで、お前のことだが」
「え、あの」
「ん、なんだよ」
「いや、だからですね、その……」
ぶっきらぼうな俺を、千坂が止まる。口を尖らせて何か言いたげにしているから少し待ってみるのだが、彼女は自分の右頬を、なぜか自分の左手で慈しむように撫で始めて。
急にパンと手を打ち合わせたと思ったら、千坂は表情を明るいものへと切り替えていた。
「せんせっ、わたし、ご飯が食べたいです!」
「そうか、アパートの階段降りて左に行ったらコンビニあるぞ」
「えー……。勿論わたしが作るので、食べさせてくれませんか?」
「それ食ったら、出ていくか?」
「保証はしかねますが」
何に対して千坂が胸を張っているのか知らないが、とりあえず悲しいくらいに胸はなかった。そんなこと言ったら今度は何が飛んでくるかわからないので、口にしないけれど。
このまま有無を言わさず追い出しても良かったが、お隣さんから聞こえる生活音が気になった。ここで騒ぎを起こして、通報でもされたらしょっ引かれるのは俺だ。
「まぁ、お前が作るなら良いぞ」
「やたっ! じゃあ、お台所借りますね」
許可が出るなり、千坂はテーブルの上に置いてあったココアを飲み干して、カウンターひとつ挟んだキッチンへぱたぱた駆けていく。その姿は、二年ほど前に日常的に見ていた姿と変わらない。
彼女が中学生の頃、俺と千坂は先生と生徒の関係だった。先生と言っても、俺はアルバイトの塾講師だけれど。
講師としての経験も丸一年を過ぎ自信を積み重ねてきた時に、初めて個人指導の形態で持ったのが千坂だから、よく覚えている。彼女の地頭が悪かったことも、勉強熱心でよく懐いてくれたことも。
ーーだからといって第一志望には、合格できなかったことも。
冷蔵庫を開けて、その空っぽ具合に不満を漏らす千坂の背中は、やはり臙脂色だった。九月も始まったばかりでまだ暑いんだから、脱げばいいのに。
「せんせー? このドアポケットの卵、食べれます?」
「知らん、多分大丈夫なんじゃないか」
「じゃ、ハムもあるので目玉焼きにします」
千坂は慣れないキッチンであるはずなのに、どこか板についた様子で準備を進めていった。ケトルに水を入れてお湯を沸かし始め、フライパンを温める。その間に冷飯を電子レンジに突っ込んでから、サッと油を引く。
すぐにハムがじゅうぅっと音を立て、コツコツとリズミカルに卵が割り入れられる。
「あの、せんせ? あんまし見られてると、やりづらいんですけど」
「あぁ、そうか」
どうやら、ぼーっと眺めてしまっていたらしい。スマホを取りに寝室に戻って、メールを確認しながら居間に出る。ちょうど水を入れたところらしく、千坂はフライパンに蓋をして一息ついたところだった。
「ねぇ、人好せんせ」
「なんだ」
俺はスマホの画面を見ながら答える。
「人好せんせ、なんか、変わりましたね」
「そりゃあ、二年もあれば変わるだろ」
「でもなんだか、その、冷たくなりました」
「歳を取ると、人は落ち着くもんだ」
「そういう話じゃなくって……」
千坂の苦笑を俺は受け流す。「ちーん」と電子レンジが鳴った。蓋の下から漏れる、目玉焼きの蒸される音だけ。
やがて千坂がテキパキと配膳を始め、俺の前には白米とインスタント味噌汁、そして目玉焼きが並ぶ。そういえば、まともに朝食を取るのは久しぶりだ。
「さ、どうぞ。大したものじゃないですけど」
「あぁ、たしかに」
「えー、それは流石にないと思います」
「そういう考え方もあるな」
ごねる千坂を無視し、手を合わせて「いただきます」をする。そんな俺を見て諦めたのか、千坂も渋々と手を合わせ、食べ始めた。
千坂の焼いた目玉焼きは、有り体に言って美味かった。
塩胡椒の散らされた白身はみずみずしく、素材の淡白な味をしょっぱさが引き締めていた。安くて薄いハムも、ちょうどよく焼き色がついて食べた感じがする。
「せんせ、どうですか?」
「……美味しいんじゃないか。よくできてる」
「えへへ、お母さんに教えてもらったんです」
「そうか」
その時、千坂はまるで森の奥にたたえられた湖面の静けさを思わせて、笑みを浮かべた。実感を噛みしめるように、口に運んだ目玉焼きを咀嚼する。
俺はそれを、女子高生にしては大人びすぎた笑みだと思った。
だから、目を向けずに自分の食事を続ける。視界の端に映る千坂の手は一向に動かなくて、ついに、箸を置いた。
「ねぇ、せんせ」
「なんだ」
「わたし、家出してきたんです」
「それがどうした」
昨日の夜、階段下にどこかで見た臙脂色の制服を見つけて、声をかけた時を思い出す。「お前、千坂か」と声をかけて。ピクリと肩を震わせて俺を見上げた時、たしかに彼女は涙を溢した。それで俺は、ここで泣き喚かれても面倒だと家に上げたのだ。
今の千坂は、その時と同じ弱々しさを声に載せている。
「理由は話せないんです。でも、信じられて、しかも見つからないような場所は、ここしかないんです」
「……」
「だから、お願いします。少しでいいので、ここに置いてくれませんか」
食卓に影がさす。千坂が、頭を下げていた。そのつむじを見て考える。
塾講師としての自分と、自分の生活と、千坂を天秤にかけ。寂しくなった口に次の目玉焼きを放り込んだ。
「千坂」
「はい……」
千坂が顔を上げ、その固まり切った表情を見て告げる。
「ダメだな。俺は目玉焼きの黄身を完熟に仕上げるやつとは、同じ釜の飯を食わないって決めてるんだ」
というわけで、第三稿です。
千坂の同棲慣れを是正しつつ、同棲の強みってエロコメじゃね?と言われてそっちの要素を足した作品。エロコメで取り敢えず読者を捕まえて、その後のシリアスへつなぐ構図。
ヒロインの陰を強くするため、臙脂色の制服などがここで登場。
代償として、塾講師という要素の存在感が消える。情報としては見せているので、二話、三話から主張しても遅くないのかなという判断。
また、第二稿で匂わせていた過去の女へのウエイトを減らすため、名前とトレードマークを採用。
出来上がったのが、ライト層に向けてそれっぽくなったやつ。
いややっぱ、語り入れたいなって。