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五山の送り火  作者: 川嶋恭太
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女に生まれたこと、医師であること、そして貴方に出会えたこと、それが私の原点

 満開の桜に粉雪が舞い散る、そんな春先の清水寺へ通ずるねねの道を麻衣子は一人歩いていた。早咲きの桜が満開になった頃、何の気まぐれか一日だけ粉雪が舞い降りてきた日があった。一瞬、桜の花びらが空から舞い降りてきたのかと戸惑い麻衣子はその場に立ち止まり両手を翳し、天を仰いだ。その場にいた観光客もみな一瞬足を止め、空を見上げていた。全ての時間が一瞬止まった。雪雲の隙間から差し込む光に照らされた桜は粉雪の中に浮き立って見えた。

そこにあなたがいた。大きな望遠レンズをつけたカメラを持ち、その情景に向かって必死になってシャッターを切っている姿が何処かおかしかった。あなただけがカメラのレンズを通してその不思議な情景を眺めていた。舞い落ちる粉雪は途中でその姿を消し、桜の花びらにその姿を変えて地面に落ちた。麻衣子は両手を翳し、粉雪と桜の花びらの両方をつかもうとした。欲張りだなとその時麻衣子は思った。    

三十路を過ぎた女性が両手を伸ばし空中に消え入る粉雪をつかもうとしている。そんな無邪気な姿にあなたは興味を持ったのかも知れなかった。ふと気が付くと望遠レンズが自分に向けられていることに気づいた。

「あの…、写真撮らせてもらってよろしいですか?」

そう声をかけられる前に何度となくシャッターが切り続けられていた。

麻衣子は少し躊躇ったが、不思議と向けられたレンズの方向から避けようとはしなかった。

「もう少し、その桜の木の方に寄って頂けます。そうそう…、OKです」

麻衣子も悪い気はしなかった。少し、モデル気分で黙って言われるがままに桜の木に近寄っていった。

「桜と粉雪なんて、不思議な情景ですね」

「こんな美しい京都、僕も初めて見ましたよ」

そのとき初めてあなたはカメラのファインダーから視線を外し、私に向かってにっこり微笑んだ。


第一章:東山如意が嶽


東山大文字:

「危ない!こら、押すな」

「ちょ、ちょっと、危ないわよ」

大文字焼きの点火直前の鴨川沿いは人混みで溢れていて、橋の上では怒号に近い観光客の声が飛び交っていた。見晴らしのよい鴨川にかかる橋には次から次へと人が押し寄せ、瞬く間に身動きができないくらいの人混みになっていた。

欄干から人波に押し出されそうになっている人もおり、恐怖感を抱いた女性の悲鳴に近い声もした。その中に、麻衣子の姿があった。春先の出会いから忘れかけそうになった頃、ふとその時の男性の言葉を思い出した。

「毎年、大文字の写真を撮りにいくんや。点火される瞬間と消えていく瞬間、まだなかなかイメージ通りの写真が撮れてない。加茂川の橋の上から毎年レンズを向けているんやけどな。でも、なんやろな。自分のイメージ自体が定まっていないのかもしれへんしな…」

携帯番号は聞いていた。しかし、連絡する理由が麻衣子の中には見つからなかった。

それでも、その夏休みに麻衣子は一人大文字を見に京都へやってきた。彼の言う大文字のイメージって何なんだろう、自分も目の当たりにしてどう感じるだろうか?

そう思い立った麻衣子は居ても立ってもいられずに新幹線に飛び乗っていた。


ゴツン、と人混みの中、麻衣子の後頭部に何かが当たった。

腕を上げることもできないくらいの状態で自分の頭の後ろに何か硬い物がぶつかった。

痛っ、と思っても振り向くこともできなかった。

一度だけでなく何度もぶつかってくる物に、

「こんなに混み合っている中で何なの、鬱陶しい…」

と内心思い身体をねじらせ後ろを見た。

大きな望遠レンズが自分の右肩を支えにするかのように迫っていた。

真後ろにいた男性がこの人混みの中で必死に大文字の点火の瞬間の撮影をしようとカメラを構えていたのだった。麻衣子の背中に身体も密着するくらいの状態なのに両手でカメラを支え、その男性の肘も麻衣子の背中をごりごりと小突いていた。

麻衣子はその無神経さに少し腹が立った。しかし、睨み付けようにもその男性はファインダーを覗いており、周囲の事は全く気にならないようだった。自分のシャッターチャンスだけを逃すまいと必死であった。密着した身体を離そうにも全く身動きが取れない。

耳元でカシャ、カシャと聞こえる重厚なシャッター音が逆に心地よく聞こえた。

「あっ、すいません」

何度かシャッターが切られた後、背中越しにその男性が謝ってきた。

恐縮し頭を下げ、カメラを大事そうに持ち上げていた。聞き覚えのある声に、まさか、と思い麻衣子は無理やり体をねじり振向いて見た。心臓の鼓動が高まっていくのを感じていた。

「いえ、混んでますね。こちらこそ」

と言って軽く頭を下げた。

「あっ、どうも」

麻衣子の笑顔に気づくとその男性は、きょとんとしてそれだけ言うと、照れくさそうに、あはっと満面の笑みを麻衣子に向けた。


点火された種火は瞬く間に大の字に広がり、激しく揺れる炎が夜空を焦がしていった。

おおーっというどよめきが一斉に起こり、麻衣子の胸に重く圧し掛かってきた。

麻衣子の耳元でカシャ、カシャ、カシャっと重厚なシャッター音が連続した。彼は麻衣子の存在を忘れているかのように夢中にシャッターを切り続けていた。

麻衣子は、自分もファインダー越しに大文字の炎を見つめているような気がした。

シャッター音に合わせて、一枚一枚異なる大文字の炎がカットフィルムのように麻衣子の脳裏に焼きついていった。

こんなに美しい炎は見たことがなかったと思った。


「もしか、とは思っていたけど、本当に会えるとは思わなかった」

二人は麻衣子が宿泊するホテルのラウンジに居た。

「携帯、教えておいたやんか。連絡あるかなと思って待ってたんやで」

「んー…」

「写真、めちゃくちゃ、綺麗に撮れてるよ。今日は、持ってきてないけど」

「見たいな」

麻衣子は、少し照れくさそうに小声で言った。

「何時まで京都にいるの?」

「あさってまで」

「何や、連絡してくれてたら休み取ったのに」

「すみません」

麻衣子はちょっとおどけた表情で謝った。彼の本当に残念そうにする表情がどこかかわいらしかった。

「明日の予定は?」

「ううん」

「明日、会おう。何とか時間作ってくる」

「うん」

もっと嬉しそうな表情で返事したらいいのに、麻衣子はそう思いながら、春先のねねの道での初めて出会いの場面を思い起こしていた。

「今日の大文字、イメージ通りの写真、撮れました?」

「あ、ああ」

ちょっと驚いた様子で返事をした。いままでの写真が自分のイメージ通りでなかったと麻衣子に話した事を彼は忘れていた。

「今日の大文字は、自分が追い求めていたイメージ通りだった」

「それであんなにシャッターを切っていたんですね」

彼は嬉しそうに麻衣子の言葉に頷いていた。

「明日、私の写真持ってきて下さいね」

「了解」

「了解って、仕事みたい」

二人は顔を見合わせ笑った。麻衣子は別れ際、コースターの裏に書いた自分の携帯番号のメールアドレスを彼にそっと渡した。


清水三年坂:

翌日、二人は始めて出会ったねねの道で待ち合わせをした。

もう一度、出会った場所をなぞってみたい。麻衣子は、ふとそんな思いに駆られ、

「私、清水寺にもう一度行ってみたい」と提案した。彼は、微笑みながら「いいよ」とだけ応えた。

二人が始めて出会った春先とは違い、花びらを落とした桜の木々は差し込むような太陽の日差しを浴びて鮮やかに輝いていた。小走りに待ち合わせの場所に急いだ麻衣子の額には汗がにじんでいた。

「すいません。ちょっと遅れちゃって」

無邪気な姿が微笑ましく映った。

二人は肩を並べゆっくりと清水寺へ向かった。

彼の肩にはやはり大きなカメラがぶら下がっていた。

「この前の写真、後で見せるな。今日もまた、いい写真が撮れそうやわ」

「ありがとうございます。期待してます、植村カメラマン」

麻衣子は少しおどけて答えた。


清水寺の参道へと通じる三年坂を歩いた。何かの雑誌の撮影の様な雰囲気で植村は麻衣子に注文をつけた。大きな望遠レンズがついたカメラや小型カメラもぶら下げ周囲から見たらプロのカメラマンのような出で立ちをしている植村に何人かの観光客も振り向いて麻衣子の撮影風景を見ていた。麻衣子はモデルになったような気分でポーズをとって見せた。みんなに見られている照れくささが心地良かった。

「そうそう、そのお茶碗を手に取って少し眺めるようにして」

「はい」

「OK,OK。良い感じやわ」

植村も次第に麻衣子に対して慣れた口調になってきた。

シャッターを切る度に、麻衣子との距離が近くなっていくように感じた。

三年坂から清水の参道を登っていき清水寺に着いた。



カシャ、カシャっと何枚かのシャッター音がした。

「すごく良い表情してた」

そう言いながら、植村は麻衣子の所まで近づいてきた。

「何か、昔を思い出していた…?」

きょとんとしている麻衣子に嬉しそうな表情で植村が聞いた。

見透かされているのかな?と思いながらも、

「昔の彼の事をね」

と、戯けて切り返してみせた。

「そうかなあ、男を思い出している表情じゃ無かったけどな…」

と、植村は首をかしげていた。

この時の写真に写った自分の顔を早く見てみたいと思った。


麻衣子は、横浜に帰る新幹線の中、頬杖を付きながら、車窓にさしこむ陽の光の方向に視線を向けそっと目を閉じてみた。電車が電信柱を横切る度にシャッターを切ったようにまぶたの裏を光が点滅した。昨日の夜の植村の温もりをもう一度思い出していた。激しく乱れる自分の姿も思い出し、麻衣子の身体は熱くなった。


第二章:妙 法


妙 法:

妙は松ヶ崎西山、万灯籠山。法は松ヶ崎東山大野山。

「また、一緒に大文字を見ような」

植村の何気ない言葉が麻衣子の頭の中にずっと残っていた。

一年間が長くも感じ、また短くも感じた。

日常の仕事の忙しさに追いかけられているうちにあっという間に月日はたっていった。

横浜の大学病院の循環器内科に勤務する麻衣子にとっては毎日が緊張の連続であった。

それゆえに、京都で過ごした時間が全く違う世界のようにゆったりとした心地良いものに感じられた。

ふと、本当に自分はそこにいたのだろうか、夢ではなかったのかと錯覚する事もあった。

忘れた頃にやってくる植村のメールが京都での出会いが現実であったことを麻衣子に思い出させていた。夜中に何枚かの写真を眺めては、思い出に浸っていた。

ねねの道、桜の花、音羽の滝、そして大文字…。

二年目の夏。麻衣子は植村と二人、大文字の炎を見つめていた。

腕を絡め、植村の身体にしっかりと寄り添いながらじっと炎を見つめていた。

一人ではない、そんな安堵感を感じていた。自分のことを理解してくれる人が手の届くところにいるということがこんなにも安心できることなのか。

そんなに一人で頑張らなくてもいいんだよ。麻衣子は自分自身にそう言い聞かせた。

「あんたが頑張っているのは充分にわかっているよ」

麻衣子は心の中でそうつぶやいた。

植村は絡めた腕をそっと外し、麻衣子の肩に手を添え麻衣子の身体をぐっと引き寄せた。麻衣子は植村の腕の中で小さくうずくまりそっと眼を閉じた。

瞼の裏にも大文字の炎が激しく燃え盛っていた。

「こっちが妙、松ヶ崎西山。そしてこっちが松ヶ崎東山大野山…。今年も一緒に見れるとは思えへんかったな」

「縁があるのかも知れませんね」

麻衣子は、眼を瞑ったまま答えた。

来年また、三つ目の大文字を一緒に見られるかどうか分からない。

二人はその夜、同じ気持ちで一夜を過ごした。何の躊躇いもなく麻衣子は植村の全てを受け入れた。


嵯峨野:

「でも、麻衣ちゃんが女医さんだって最初に聞いた時はちょっとびっくりしたわ」

「お父さんも医者だったから、何か医者になることは当たり前のようだったの」

二人は嵐山の川べりを歩いていた。

「でも、頭良かったんやろうな。当たり前って言ったって誰でもそんなに簡単に医者になれるわけではないし」

「私の同級生達もそうだけど、親が医者の場合、子供が医者になるのは当然と思っているみたい。自分がなってみて大変なのはわかってくると自分の子供には勧めるかどうかはわからないけど…」

「人の命を預かるんだから、ものすごいストレスやと思うで。仲間いうんか、一番の理解者が欲しいからと違うんかな、お父さんがあんたに医者になることを勧めたのは」

麻衣子ははっとした。医者として尊敬できる父親は、自分には強い存在だった。少なくとも父親の弱い部分を見たことはなかった。植村に父親の弱い部分を見透かされたような気がした。

「私、お父さんの弱音を聞いた事が無かった。だから、お父さんの期待に応えるように勉強もしたし、大学に入ってからもそりゃ、勉強は大変だったけど結構楽しかったの」

「でも、お父さんは幸せだと思うで、娘が自分と同じ職業についているんだから。

結局、自分の人生を何処で送っていくか、それが決まらないうちに一生を終えてしまう人がほとんどだけどね。俺もそのうちの一人かもしれへんな」

「そんな風に言われると、責任重大なように感じるわ。お父さんの意志をどれだけ継げているか自分でもわかんないもの。人生は一度きりなんだから自分がしたいと思った事はしなさいって言ってくれた事はあったけど」

「でもすごいと思うよ。結局は、あんたの御両親はあんたの人生の基礎をしっかりと作り上げてくれたんだから」

渡月橋を渡り、嵯峨野への道をぶらぶらと歩いた。

植村の言葉はひとつひとつ自分の気持ちをほぐしてくれた。自分は恵まれた環境で育ったんだと今さらながら気がついた。

「お父さん、二年前に心筋梗塞で急死したの。ありがとうっていう間も無かった。循環器の医者が心筋梗塞で亡くなったの」

「ごめんな、勝手な事ばっかり言って、そんな事も知らず」

恐縮して謝ろうとする植村を麻衣子は直ぐに制した。

「ううん、そんな意味じゃないの。植村さんの話を聞いていると、私って今までやっぱり身勝手に生きてきたんだなと思ったの」

「大切にしようと思う人いるか?」

「…」

麻衣子は直ぐに返答できなかった。

「大切にしようと思う人がいると結構、生きていく事が楽になるで」

自分の父親はそうして生きてきたんだろうなと思った。

今、肩を並べて歩いている植村が一瞬父親のように思えた。

植村と一緒にいると今まで自分が知らなかった父親に会えそうな気がした。

生きていて欲しかった、もっといろんなことを話し、教えて欲しかった。

父親がどんな事を考え、自分の事をどのように思っていてくれたかを、父親の言葉で聞きたかった。しかし、その時の麻衣子にはもう父親の思い出しか残されていなかった。

麻衣子は、少し前を歩く植村の手をそっと握りしめた。嵯峨野の風が麻衣子の長い髪をなびかせた。

植村は眼の前に近づく小さな踏切に眼をやった。

「二十歳の原点って知ってるか?」

ぽつりとつぶやく植村の言葉は、走り抜ける電車の音でかき消され麻衣子には届かなかった。


竜安寺:

 こんなにも、一緒に居て気持ちが落ち着く人はいなかった。今までの恋愛は何だったのかなと思った。

一生懸命で疲れた。「自分の方が変わったのかな…?」

病院で看護スタッフにポツリと言われた、麻衣子先生ももう三十路ですね、という言葉に内心傷ついていた。年齢で人生を区切るもんじゃないわよ、っと喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。大人気ないと自制し、その時は笑って誤魔化した。

しかし、植村と出会い、やっと自分が本当に男性を受け入れられる年齢になったことを感じ始めた。若い時に出会っていても受け入れられなかったかもしれない。

そう思った。父親の代わり…?いや、そんな事は無い。でも、父親と居た時の安心感を植村は無意識のうちに自分に与えてくれた。

龍安寺に向かうタクシーの中でぼんやり植村の横顔を眺めながら麻衣子は考えていた。

「なんや」麻衣子の視線が気になったのであろう、

明日、横浜へ帰らなくてはならない事を考える度に一抹の不安を感じていた。

縁があるものならば必ず会える。そう考えるようにしている麻衣子も、無理のある関係である事を理解しながらも植村の傍を離れたくないという気持ちが強くなっていった。

「雰囲気が似てらっしゃいますよ。お二人とも優しそうな顔をしてらっしゃる」

タクシーの運転手が二人の会話に入り込んできた。営業用のサービスかなと思っても他人からそう言われることは嬉しかった。

植村と麻衣子はお互い顔を見合わせ微笑んだ。

「さすが京都の運転手さんやな、上手やな」

「いえ、そんなことおまへんて。お客さん達、龍安寺の後はどこか行かはるんでっか?」

「いや、まだ決めてないですわ」

「よろしかったら、案内しましょうか…」

「そうやな…」

自分の方に視線を向ける植村に麻衣子は微笑みながら黙って頷いた。

「OKやて、それじゃ、お願いするわ」

「おおきに、それじゃ、メーター下ろしますさかい」

その後、植村と運転手は貸切の時間と料金の交渉をしていた。

麻衣子は通り過ぎる京都の町並みを見ていた。


 龍安寺に到着すると二人はタクシーを駐車場に待たせ龍安寺の境内に向かった。

石庭の前に座りその空間を眺めているうちに麻衣子は以前此処に、今自分が座っている場所に来たことが有るような気がした。記憶の奥底に同じ視点で目の前の石庭を眺めていた事があった、と感じた。

整然と並べられた石の空間に奥深くその記憶が辿れるような気がした。

麻衣子は隣に腰掛けている植村の手をそっと握りしめ、その肩にうな垂れ眼を瞑った。


 「あら、麻衣ちゃん寝ちゃったみたいね」

「今日は、朝早くに出てきたからちょうど眠たい頃だな。昼ごはんもさっき食べたばかりだしな」

「そのままにしといてあげて」

「ああ。ここで少しゆっくりしていこう。石を並べているだけなのになんでこんなに落ち着くんだろうな。日本人は石そのものだけを眺めるんではなくて、その間の空間を楽しもうとするんだろうな」

「やっぱり京都はいいわね」

「でも、麻衣子、覚えているかな。まだ三歳だからな」

「お父さんの膝の上にちょこんと座って、いつもお父さん椅子って言って喜んでるじゃない。そういうのって結構覚えているもんよ。写真撮っとくわね」

麻衣子の父親は、抱きかかえた麻衣子の小さな手を握り締めカメラに向かって笑顔を作って見せた。

穏やかな寝顔の麻衣子と嬉しそうな父親の姿が一枚の写真に収められた。


 カシャッと二人の後方から切られた観光客のシャッター音で麻衣子は眼が覚めた。

「起きた…?」

「ごめん。寝てた…?」

「ああ、ほんのちょっとな、気持ち良さそうに」

「うとうとしちゃった」

麻衣子は植村の手を握り締めたままほんの一瞬、気を失うように眠ってしまっていた。

「疲れたんか?」

「ううん、大丈夫よ」

「今日は朝から保津川下りやら嵐山やら結構歩いたからな」

麻衣子は、その時は植村には自分が以前此処に来たような気がしたということは触れないでいた。

折角、連れてきてくれたのだからと大人の気遣いも少しした。


二人は、暫くの間石庭を眺めてから方丈の北側に回った。石庭とは対照的に草木の緑が静かに境内との調和をなしていた。麻衣子は、方丈の北側の軒下にたたずんだ時、確かに私はここに来たことがあった、と思った。


 「ねえ、お父さん。これなあに?」

「ほー、麻衣ちゃん、よく見つけたな。麻衣ちゃんは、周りをよく見てるね」

褒められた事が本当に嬉しくて、麻衣子は得意気に自分が最初に見つけたと言わんばかりに母親にも聞いた。

「ねえねえ、お母さん。この、真ん中に水を貯めているのなあに?」

麻衣子の父親と母親は顔を見合わせ微笑んだ。

「すごいな、よく気が付いたね。それは、つくばいと言って、石で作った手水鉢でその真ん中に貯まった水で手を清めるんだよ」

「つくばい…?、ちょうずばち…?」

聞き慣れない、なにか難しい言葉で全く理解はしてなかったが、自分は何かすごい発見をしたようで嬉しかったのを覚えていた。


 「麻衣ちゃん、それ知ってるか?」

つくばいの前で立ち止まり、じっと見つめている麻衣子に向かって植村は話しかけた。

「…」

まだ自分の記憶を探っていた麻衣子は言葉を発せず首をかしげた。


「ほら、真ん中の水が貯まっているところを見てごらん。四角になっているだろ。これはね、漢字の口っていう字を表しているんだよ。まだ、麻衣ちゃんには難しいかもしれないけどね」

父親の説明を麻衣子は真剣に聞いていた。自分がした大発見について知りたいと思っていた。母親もそんな麻衣子の態度に気づき、父親の話を麻衣子と一緒に真剣に聞いていた。


 「ほら、真ん中の水が貯まっているところを見てみ。四角になっているやろ。

これは、漢字の口っていう字を表しているんや。そして、口の上の文字は漢数字の五で真ん中の口と会わせると吾っていう漢字を表しているんや。こうして右回りに漢字を当てはめていくと吾、ただ、足る、を知るって…」

植村の説明を聞いているうちに麻衣子の記憶は鮮明になっていった。

説明が終わらないうちに、

「私…、ここに以前来たことがある。幾つ位の時だったかは覚えてないけど…」

っと、植村の方に振り向きながら言った。

理由も無く涙が出てきそうになった。植村は麻衣子のそんな表情にちょっと驚きながら近づき手を握り締めた。

「私、ここでお父さんに褒められた。このつくばいを見つけて、すごいなって褒められた…」

涙があふれそうになるのを堪えていた。

「吾、唯、足るを知る。足るを知る者は貧しくても富めり、足るを知らない者は富めりといえども貧しいって意味らしいで」

「お父さんと同じ言い方してた。それで、自分の記憶が蘇ってきたわ」

「小さい頃か?」

「何時頃だかは覚えてない。まだ、幼稚園にも行っていない頃かも知れない」

「それじゃこのつくばいの言葉の意味なんかわからへんわな」

「でも、何度かこの言葉の意味をいろいろ考えたことがあったような気がする。その度に、解釈の内容が変わっていたように思うわ」

「自分が変われば価値観や考え方も変わるしな」

今日、此処に来て良かった。麻衣子は心の底からそう思った。

「今日、此処に来て良かった、ありがとう」

「…。俺なんか全然、いっつも現状に満足せえへんから、足るを知るってことは無いような気がするわ」

「欲張りなんですね」

照れて少し格好をつけて答える植村に麻衣子は微笑み返した。

「現状に満足しちゃいけないとも思うし、かといって何処がゴールなんだか自分でもよくわかんないし」

「男の人はその方が当然だと思うわ。私も少し男っぽいところあるのかなあ…?」


 「麻衣ちゃんは、まだ足るを知っただけでは駄目だよ。いっぱい勉強して、いっぱい遊んで、いろんなことを吸収していかなくちゃいけないよ。吾、唯、足らざるを知る、だな」

父親と母親が顔を見合わせ笑っている姿が思い出された。そして、父親が何を言って母親と一緒にあんなに楽しそうに笑っているのか不思議そうに見上げている自分の姿も浮かんできた。


「俺なんか、何時でも、まだまだ足らざるを知るやな」

植村のおどけたやんちゃな表情が可笑しく、麻衣子は眼を合わせ微笑んだ。

顔を見合わせ楽しそうに笑っている二人の姿が、つくばいに貯められた水面に一瞬、映し出された。

麻衣子の曖昧な記憶のようにゆらゆらと揺れてそして消えた。


新幹線のホーム、京都駅:

 いつかは会えなくなるだろう事は理解していた。しかし、一緒に居るとほっとした。

それで今は充分だと自分に言い聞かせていた。だから未だ、離れ離れになることは寂しいとは思わなかった。会いたければ何時でも会える、と思っていた。

京都駅、新幹線のホームで麻衣子は自分が乗る新幹線の到着を植村と一緒に待った。

「ありがとうございました、楽しかったです」

麻衣子は荷物を抱えたまま植村に向かって丁寧にお辞儀をし、礼を言った。

「こっちこそ、楽しかった。ありがとう」

なにかもっと話して欲しいと思った麻衣子の気持ちを削ぐように、植村はそれ以上の言葉をつながずに黙って頷いた。麻衣子は、発車時間をちらっと確認した。

「今度また…、」

麻衣子は小声でそう言いかけたが次の言葉は声にならなかった。麻衣子の言葉を受け入れるように、

「また、連絡するな。来年の大文字も一緒に見よう」

と、植村は言葉をつないだ。

「…」

麻衣子は、一瞬、黙っていた。三十路のプライドが植村のそんな態度をちょっとずるいと感じた。

期待。私はこの人に何を求めているのだろう…。そう思いながらも、麻衣子は、

「はい」

と、植村に向かって返事をした。



第三章:船 形


藤島婦長:

 京都から戻った麻衣子はまた、医師としての忙しい日常に戻っていた。

「休み明けだけど、結構いけるみたい。よかった」

病棟へのお土産袋を揺らしながらナースステーションに向かった。

麻衣子は、ふっと病棟師長の机に眼をやった。仲の良い藤島婦長と目が会った。

何時も通り藤島婦長は早くに出勤していた。麻衣子が病棟に入って来た時から気が付き、ナースステーションに入ってきた時にはニコニコと嬉しそうに微笑んでいた。

「あっ、おはようございます。相変わらず、早いですね」

「おはようございます。お帰りなさい、麻衣子先生」

「はいこれ、少しだけど皆で食べて」

そう言いながら麻衣子は京都土産を藤島師長に手渡した。

「あら、先生。また、京都ですか?」

いつの間にか夜勤の看護婦達も二人の傍までやってきて、そのうちの一人が茶化すように聞いた。

藤島師長にだけは休暇中の行き先は言ってあった。2,3回患者の病状等を携帯でやり取りした。

「そうよね、先生、去年も夏休み、京都だったものね。誰と、かは聞きませんけど」

若い看護婦は興味津々に話に入ってきた。

麻衣子はちょっと照れくさかった。まさか、去年の事まで病棟スタッフの皆が覚えているとは思わなかった。そういう風に見られていたんだとちょっと嬉しかった。

「あんまり先生のプライベートのことを詮索しちゃ駄目ですよ。先生だっていろいろあるんだから…」

「そうよ。三十路過ぎたらいろいろあるんだから、ねえ、藤島師長」

同年代の藤島師長に話題の矛先を向けた。

「そうよ」

藤島師長は麻衣子と目を合わせ、微笑みながらそう返事をした。

麻衣子は京都での事はまだ仲良しの藤島師長にも話していなかった。

「お土産ありがとうございました。お昼の休憩の時に皆でいただきますね」

そう言って若い看護師に休憩室へ持っていくように手渡した。


 麻衣子と藤島師長は女性同志、同じ年代ということで麻衣子が研修医としてこの病棟に勤務し始めた頃は決してお互いを理解しあえる関係ではなかった。

特に、藤島師長はその時はまだ病棟主任であり、負けん気の強い彼女は女医に対する対抗心を持っていた。若い看護スタッフ皆から信頼も得ていた彼女はあからさまには病棟の雰囲気を壊してしまうような対応は取らなかったが、仕事に関しては決して妥協しない頑固な面を貫いていた。それが、麻衣子に対して特に意識されていた。

「ライバル出現…」

陰でそうささやく看護師もいたほどであった。

一方で、麻衣子は、藤島師長、当時の藤島主任に対しては対抗意識を持つほどではなかった。最も9割方が女性で占められている看護、医療スタッフの中で働くのは当たり前の事であり、いちいち女性を意識して仕事をしているわけにはいかなかった。

患者の前では男性も女性も無く、医師としての対応を迫られる。だから、麻衣子は藤島師長の事を女性であるからという理由で意識した事は無かった。

それどころか麻衣子は彼女の事をよく出来る看護スタッフであり、これからも仲間としてより密接に仕事をしていきたいと考えていたくらいであった。

麻衣子は出来るだけ彼女のそばにいて仕事をするように努め、病棟のどんな小さな情報や患者の病態、行動なども自分から伝えるようにした。

しかし、麻衣子の気持ちとは裏腹に、麻衣子が渡した情報のパスは全てが直ぐに思ったように返っては来なかった。

藤島主任は麻衣子の態度に今までの自分が接してきた女医達とは違う何かを感じながらも、自分のスタンスを崩そうとしなかった。いや、崩されてしまうのではないかという不安も感じていた。

私達は医者に使われているのではない、そんな意識がどこかにあった。

しかし、二人には患者の為に、という点では共通点があり、麻衣子が研修医の期間を終了して、病棟スタッフになった頃からは二人の緊張感が病棟全体に伝わり、活気のある病棟になっていった。

それでも、何が引っかかるのであろうか。麻衣子が近づけば近づくほど藤島主任は最後にはすっと気持ちを閉ざしてしまっているように思えた。

しかし、そんな二人の気持ちの壁を、いや藤島主任の気持ちを打ち破る出来事があった。


ひとりぼっち:

それは、ある年の病棟の忘年会の時だった。

病棟の若手看護スタッフも普段のストレスを思い切り発散させていた。

一次会の宴会は藤島主任を中心に盛り上がっていた。その当時の師長は藤島主任に自分の次の師長を任せてもいいと考え、病院の幹部スタッフの何人かには了承を得ていた。

藤島主任も薄々はそんな師長の気持ちを感じていたのだろう。自分が中心になって病棟を盛り上げなくてはいけない。全ての面で一生懸命に対応していた。

麻衣子も皆からビールを注がれ、顔を真っ赤にしながらはしゃぎ、談笑していた。

最後の師長の挨拶で一次会は盛大の内にお開きになった。

一次会が終了し、全員が送迎バスに乗り込み、最寄りの駅に向かった。

 去年の忘年会の慣わしだと、そのまま藤島主任の後に続き、スタッフ全員が二次会のカラオケの店に自然と集まっていく予定だった。

藤島主任は自分が先頭に立って皆を引き連れている姿を想像しながらバスに揺られ、酒に酔っていた。

「さあみんな…」

と、声をかけようと思い座席に座ったまま後ろを振り向いた。

何人かはそのまま帰宅する予定であったが、その他のスタッフもその時は、それぞれ数人ずつに別れバスを降り

「すみません…、」

と言って街中に消えていった。

病棟では一番かわいがっていた看護スタッフの智美も男性研修医に誘われたのか二,三人のスタッフを連れ藤島主任の目の前から消えていた。

藤島主任は一人、バスの前方の座席に取り残されてしまった。

麻衣子はその一部始終を最後部座席から眺めていた。

藤島主任は、麻衣子が後部座席にまだ居る事に気づいていなかったようであった。

決して麻衣子の前では見せたことの無いような自信の無い悲しい表情で一人俯いていた。

「主任…、行きましょうか」

麻衣子はそっと声をかけた。

ちょっと驚いた表情で振り向いた藤島主任の目にはうっすらと涙が滲んでいた。

暗がりで気づかれないようにしながら藤島主任はバスを降りた。

マイクロバスの運転手は二人が降りるまでじっと窓の外を見ていた。

 1時間程してからだろうか。智美が申し訳なさそうな表情で、二人がいるカラオケ店の部屋にひとり戻ってきた。

「そりゃ…、あなたが居なきゃ駄目でしょ」

と、扉の所で罰が悪そうにしている智美に近づき、麻衣子は笑顔で迎え入れた。


植村への想い:

 その日以来、藤島主任は麻衣子の存在を頭の中にすっと受け入れる事が出来るようになった。

自分自身を受け入れてくれるもう一人の自分が存在しているような安心感を持った。

主任から病棟師長になった後も麻衣子と藤島主任とはお互い信頼し合える関係が続いていた。

「おまえの幸せを少しは分けてあげなさい」

生前、父親がぽろっと口にした言葉を麻衣子はふと思い出した。

藤島師長に接する度に何故か植村の事が麻衣子の頭の中に浮かんできた。

藤島主任を大切な仲間として接しようとすればする程に植村への思いは強くなっていった。


「どうせ駄目なのに、何で?」

病院での激務から夜遅く自宅に戻り、一人ソファーに深く腰掛け呟いた。

身近に恋愛対象になるような男性が居ない訳では無い。つき合いをしていた時期もあった。

しかし、その時二十歳代の麻衣子にはまだ、絶対的な存在になるような相手は現れなかった。

植村と何処が違うんだろう。若い時は自分の事が精一杯で他人に邪魔されたくない、束縛されたくないという気持ちが強すぎるのであろうか。

三十歳を過ぎた今でも自分の事が精一杯だし自分のペースは乱されたくないという気持ちは同じなのに。

しかも植村は五十歳過ぎのおじさんで結婚の対象…、にしてはいけない人。

麻衣子はソファーに寝転び植村に対する思いをめぐらしていて、結婚という二文字が頭に浮かんだ瞬間自分でもはっと驚き、思考を止めた。

「えっ…?なに考えてんの、私…」

妻帯者である植村が結婚の対象にはならないと考えるくらいの常識は自分で持っていたはずなのに、と麻衣子は自分の感情が勝手に動き出していることに驚きを感じていた。

そして、その感情を何とかして正当化しようとしている自分の存在にも気づき始めていた。

携帯電話を取り出し、何度か途中までメールを作成しながらその度に削除キーを押した。

自分の良識がそうさせていると納得させていた。植村を独占しようとは思わない。

しかし、自分にも植村と一緒に人生を歩む権利があっていいんではないか。麻衣子の心の中の葛藤が綱引きをし、どちらも譲らなかった。

「来年の大文字まで待とう。その数日だけは、私は植村の女でいられる」

身体の火照りを感じながら麻衣子はそっと指先をあてがってみた。


湘南北部病院、北山由美子:

湘南北部病院。麻衣子の先輩、北山由美子が循環器科部長として赴任している関連病院である。

麻衣子にとっては憧れの存在であり、また学生時代からのテニスクラブの先輩でもあり公私共に慕っていた。

「あは、麻衣ちゃん。もう三十歳過ぎちゃったんだ」

湘南北部病院の医局のソファーで、由美子はコーヒーカップを手に持ちながら麻衣子の顔をしげしげと見つめ言った。

麻衣子は、北山由美子の勧めもあり、週1回木曜日、この湘南北部病院の循環器外来と心エコー検査の手伝いをするため大学より非常勤医師として派遣されていた。

週一回そこで、由美子と大学の医局のことやプライベートな事を話すのが麻衣子にとっても楽しみであった。

そんな麻衣子も京都での出来事や植村の事はまだ由美子に話してはいなかった。

「そんな、改まって言わないで下さいよ、由美子先生、少しは気にしているんですから」

麻衣子は、怒ったふりをし笑いながら答えた。

「自分ではそんな意識してないつもりなんですけど、母親が、もう30、もう30過ぎってうるさいんですよ」

「私も同じよ。でも、もう少ししたら諦めて何にも言われなくなるわよ、私の母親はもう諦めちゃってるみたいだから、何も言わないわよ」

「母親のそういう毎日のプレッシャーって、ある意味、ドメスティックハラスメントの一種ですよね」

「ドメスティックハラスメント…?そんな言葉あるの?でも、唯一そういうことを言ってもいいのは母親、だと思うよ。他人の場合は面白おかしくしか言わないよ」

「それは、解ってるんですけど…、昔、小学校くらいの時に勉強ちゃんとしたのって言われたときと同じ感覚になっちゃうんです」

「早く結婚しろって」

「そうなんですよ」

由美子の前では、麻衣子は学生の時の先輩、後輩の関係がそのまま医者になってからも続いており、白衣を着ていても二人とも学生時代とかわらない気分で話をしていた。

「時々、昔の彼氏の話をしだしたり、もう何年も前に別れたっていうのに」

「親からしてみれば、ある程度は誰でもいいもんね」

「私自身のことなんだから、自分で納得のいく人じゃなきゃ嫌ですよね、由美子先生」

「ううん…、最近、私の方はストライクゾーンが結構広くなってるわよ。若い時にあんなにこだわっていた事なんか今思えば、しょうもない事だったと思えちゃうし」

「男だったらOKですか?」

麻衣子は、揶揄するように言った。

「エッチのみ、OKかも」

「わっ…」

医局の机でパソコンを打っていた整形外科の野口先生が由美子の言葉に振り向いた。

野口医師と眼が合った麻衣子は、自分が見られたようで恥ずかしかった。

思わず、首を横に振って微笑んだ。

そんな慌てた麻衣子の表情を嬉しそうに眺め、由美子も笑った。

「麻衣ちゃん、毎年、夏になると京都へ行くんですって…」

突然、由美子は少し探るような顔つきで麻衣子に聞いた。

麻衣子は、心の中で「えっ」、っと呟き言葉に詰まった。

何で、由美子先輩が知っているの?、っと思った言葉が口に出せなかった。

「えっ…」

きょとんとしている麻衣子に向かって、由美子は微笑みながら、

「藤島師長から情報は入っているわよ、ちゃんと…」

私に報告がないのは何かあるな、っという由美子の勘だった。

「やっぱりですか…、藤島師長から由美子先輩が聞いてない事はないですよね」

と観念した。

「そんな、詳しくは知らないわよ、何があるのか…」

勿論、まだ誰にも打ち明けていないんだから知るはずも無かった。

しかし、自分がまだ話していないものを皆が知るはずが無い。由美子先輩にも本当は聞いて欲しいし相談もしたいと思っていた。しかし、まだその時点では打ち明ける事ができない何かが麻衣子の気持ちの中にあった。

「はい。由美子先輩には何でも相談させて貰います。彼氏が出来たら直ぐに紹介させていただきます。そこだけは、由美子先輩にちょっと勝てそうなんで」

麻衣子は、少しおどけてやり返して見せた。


岡本医師:

 あの忘年会の帰りのバスの一件以来、麻衣子と藤島師長とは信頼し合える中になっていた。

湘南北部病院での勤務の帰り道、麻衣子は北山由美子との医局での話を思い起こしていた。

藤島師長から由美子先輩に直ぐに情報が伝わっている。

それは、麻衣子が研修医に入り、由美子がまだ大学病院のオーベン(指導医師)として、麻衣子達研修医の指導にあたっていた時からであった。

研修医の一挙手一動が由美子たち指導医師達に筒抜けであった。

それが病院の医療事故を防ぐ安全弁のひとつになっていることなどまだ麻衣子達にはわかっていなかったため、自分達の行動が監視されているようで不快に思うことも何度もあった。

特に、藤島師長は当時の医局長であった岡本医師ともつき合いをしているという噂が流れていた。麻衣子は、藤島師長の仕事ぶりには敬意を表し、由美子先輩とも仲良くしている彼女と自分もかかわっていきたいと考えていながら何処か引っかかる所を持っていたのを感じていた。

今になってそのひっかかりが何であったか分かったような気がした。

藤島師長、当時主任だった藤島主任と岡本医師との不倫関係がすんなりと受け入れられなかったのかも知れなかった。周知の事実であり、北山由美子も知っていながら全くそんな事は感知せずに仲良くしている、そんな藤島主任の態度がどこかずる賢く見えたのかも知れなかった。。

岡本医師は、心筋虚血グループ、心不全グループ、不整脈グループ、腎・高血圧グループ等いくつかのグループに分かれている大学の循環器グループの筆頭講師であった。

患者病態急変や患者家族とのトラブル等、どの病棟よりも多いはずの循環器科病棟で大学始まって以来のトラブル発生の少ない病棟と言われ、他の病棟師長からも羨ましがられていた。藤島師長の患者対応は確かに今までのどの看護師の対応とも違い彼女と接した患者や家族はほっとした安心した気持ちになった。

藤島師長が看護スタッフから主任に昇進した頃からであろうか、麻衣子は他の看護スタッフから岡本医師と藤島主任との関係を初めて聞いて知った。

その看護スタッフの話も、二人の事を中傷するようなものではなく、納得して認めてしまっているような話ぶりであった。

「でも、岡本先生には奥さんも子供もいるんでしょ…」

っと言う質問したら、直ぐに

「それが?」

っと逆に不思議がられるくらいの雰囲気であった。

病院の常識って、一般常識と違うのかな?それとも、自分が未だ大人じゃないのかな?

麻衣子は、自分が小さく思えた。

そしてその時、藤島主任にはまだ幼稚園に通う小さな女の子がいて、数年前に離婚をしていたという事を知った。


同級生:

 「岡本君、眞澄ちゃんとはまだ続いているの?」

大学病院の十一階食堂ラウンジで、北山由美子と岡本講師は関連病院全員が集まる循環器グループカンファレンスを終了した後に二人で食事をしていた。

二人は、大学の同級生であり、心筋虚血を専門とする岡本医師と不整脈を専門とする北山由美子は大学の循環器グループスタッフの時にはそれぞれのグループの中心としてお互い刺激し合って仕事をしていた。

由美子が湘南北部病院に赴任した後も、大学に残った不整脈グループの実質指導は北山由美子が行っており、岡本医師もそれを任せていた。。

「えっ、?」

突然、由美子から藤島師長の話を出された岡本はちょっと戸惑った表情で返答につかえた。

循環器グループを支えてきた一人でもある由美子には岡本は何でも隠さずに相談してきた。

岡本医師が眞澄と夜を過ごしている時に病棟からの救急コールがなり、岡本の携帯に連絡が取れないようなときには必ず由美子のところに連絡があり、由美子は岡本のフォローを何度もしてきた。

「眞澄ちゃんからこの前連絡があって…、麻衣ちゃんの事、メールしてきたのよ、頑張っているらしいわね」

「おお、彼女は優秀だよ。由美子の後釜になれるね」

「眞澄ちゃんと最近、仲良いみたいね。岡本君とはどうなのかなって…、眞澄ちゃんのメールにあなたの名前があんまり出てこなくなったから」

「…」

岡本は、頭をかきながら飲みかけのコーヒーに手を伸ばした。罰が悪そうに、

「去年の一件以来…、時々は会っているけど」

と言って、残り少ないコーヒーを飲み干した。

「ふうん…、でもあの件は問題なかったんじゃなかったの」

「うん、全く。でも、俺の知らないところで話がついちゃったみたいなんだ」

「何、だらしない事言ってるのよ、岡本大先生が…」

茶化す由美子に岡本は照れ笑いをした。

「私も眞澄ちゃんからはその後詳しくは聞いてないのよ。いつも大概の事は話すんだけど」

「彼女、自分の中で整理して結論を出したみたいだな。嫁も眞澄ちゃんも普段は何も無かったみたいにしているし。なんか、俺があほみたいで…。何にも変わっていないのも不思議で…」


緊急入院、心筋炎:

去年の三月頃の出来事だった。岡本の妻、恵子はいつもの春先のアレルギー性の鼻炎症状が長引いているのだろうと思って時々咳き込むのも様子を見ていた。

岡本に相談をし、病院から鼻炎の薬と風邪の薬を持ってきて貰いそれを内服していた。夜中など鼻が詰まって口で呼吸をするから喉も痛めてしまったんだろうと我慢していた。しかし、その時の症状はいつもとは違っていた。全身の筋肉痛が強く、夕方になると脱力感も強く身体をソファーに横にして休ませてから夕食の準備にかかっていた。

「ねえ、今回の風邪、かな…、ちょっといつもより治りにくいみたい」

恵子は、岡本にそれとなく話してみた。

岡本は、自宅で身内から病気の症状を訴えられるのが嫌だったのか、面倒くさそうに露骨に嫌な表情をしうるさそうに、

「抗生剤でものんどけよ」

と語気を荒げて答えた。

病院での患者の不定愁訴に毎日対応している岡本は、ほっとしたい自宅で患者としての家族の訴えを聞かされるのが苦痛であった。病院では、それでも笑顔を作って丁寧に対応しなくていけない。

解っていても、家族に対してはそこまでの気持ちのコントロールは出来なかった。

岡本も、妻の恵子の咳は確かに去年までの単なるアレルギー性鼻炎から発症しているような症状とは違うとは何となく感じ取ってはいた。

しかし、抗生剤を少し長めに内服していればそのうち治まるだろうと高を括っていた。

不機嫌な表情になる岡本に対して、恵子はそれ以上話しかけなかった。布団の中で声を殺して何度と無く咳き込んでいた。しかし、事態は最悪の状況に陥っていった。


恵子が筋肉痛を自覚してから数日後、夜の九時頃であった。岡本はまだ病院から帰宅しておらず、子供達との夕食をすませ台所で食器の片づけをしている時だった。

今まで乾いた咳だったのが、その日の咳はさらさらした痰が絡んでいた。

咳き込んだ後に息苦しいような、呼吸がしにくく閊えるような違和感を感じていた。

特に夕方からは疲れやすく、食事の時も何度と無く椅子に腰掛けては、肩で大きく息をしていた。

「お母さん、大丈夫…?」

母親の辛そうな姿を見て、高校二年生の上の娘、恵美が心配そうに声をかけた。

「大丈夫よ、でも今日はお母さん少し早く布団に入るからね、あと、あんた達でちゃんと勉強して、明日の用意もしてね」

恵子は、娘達には心配かけまいと出来る限りの笑顔を作り答えた。

「お父さんに連絡したら」

下の娘、由佳も何時もと違う母親の症状を見て声をかけた。

余程の時で無い限り、恵子は岡本には連絡しないようにしていた。仕事の邪魔をしないように

と心がけているだけではなかった。夫の不機嫌になる声を聞きたくなかった事も理由の一つであった。

「しょうも無い事でいちいち電話するな!」

子供達が小さい頃に言われたその言葉に何度と無く傷つき、嫌気も差していた。

ぎりぎりまで我慢をし、自分で解決しようとする習慣が恵子にはついてしまっていた。

しかし、どうも今回の症状は違っていた。

「由佳ちゃん…、そこにあるお母さんの携帯…、取っ…」

と娘達の方に顔を上げた瞬間に、恵子は意識を無くし椅子からずれ落ち仰向けになったまま、床の上で全身を痙攣させた。ううっ…、と歯軋りをするようにして硬く口を閉ざし、両目を上転させ顔面を歪め口からうっすらと赤みがかった泡沫状の喀痰を吹き出していた。

「血が…!」

数秒間の全身痙攣の後、ゴホンゴホンと咳き込んで意識を回復した恵子は、身体をうずくめながら一気に嘔吐した。その吐物に混じって新鮮血が床一面にまき散らされた。

「お母さん!大丈夫!」

由佳は母親の所に駆け寄り、どうして良いか分からず母親の身体を揺すり泣きじゃくるだけであった。

姉の恵美も大粒の涙をこぼしながら、母親の携帯電話で父親の番号を探した。

「お姉ちゃん、何してるのよ!早く!」

「分かってる。お母さんの携帯だから分からないのよ…」

恵美は、恐怖感と焦りで手が震え母親の携帯の操作に手間取っていた。

「自分ので掛ける」

そう言って、自分の携帯を部屋に取りに行った。

痙攣は治まっていたが、意識はもうろうとしている母親の傍でどうしてよいか分からない由佳は母親の身体を支え、「お母さん、お母さん」と泣き叫ぶことしかできないでいた。

タオルで母親の口元を拭った由佳の両手は、吐物でどろどろであった。

辛うじて意識を取り留めている母親の身体を抱きしめていた。

「お父さん!何処にいるの?」

自分の携帯から父親に電話をかけていた恵美は、母親と由佳の傍まで戻ってきた。

長いコールの後ようやく父親の携帯に繋がった。

「どうした?恵美」

恵美の声から、唯ならぬ雰囲気を感じた岡本は声を荒げた。

「お母さんが、お母さんが意識を失って…、さっき、痙攣も起こして…」

「意識はあるのか?」

「うん。でも…」

「呼吸はしているか?」

「してるけど、苦しそう」

「電話に出れるか?」

恵美は携帯電話を母親の口元に持って行こうとしたが、うなり声をあげて苦しんでいる母親は、話すことなど全く無理であった。

「お父さん!無理よ!どうしたらいいの?」

「呼吸はまだしてるんだな、意識はあるんだな」

「うん…」

父親に電話が繋がった安心感から一気に緊張の糸が切れ、恵美も泣きじゃくり父親の声に返答するのがやっとであった。

「直ぐに救急車を呼んで、大学に行くように言いなさい。お父さんが大学の方には連絡を入れておくから。いいね、直ぐに救急車を呼びなさい。それから、いつでも携帯で連絡取れるようにしときなさい」

「うん、うん…」

「由佳は?」

「お母さんの傍にいる」

「代われるか?」

恵美は妹の由佳に携帯電話を渡した。

汚れた手で姉の携帯電話を受取り、由佳は泣きじゃくりながら、

「お父さん!何してるのよ。お母さんが死んじゃうよ」

と、泣き叫んだ。

「わかった、いいな、直ぐに救急車を呼びなさい」

「今、お姉ちゃんが電話してる」

「いいな、お父さん、直ぐに大学に連絡しとくからな、必ず、救急隊には大学に行くように言うんだぞ。解らなかったら直ぐ連絡しなさい。いいな。一旦切るよ、大学に連絡するから…」

「お父さん…。嫌だー」

由佳は携帯電話を握り締めたまま、母親の身体を抱きかかえ泣きじゃくるばかりであった。


鎌倉、由比ガ浜ホテル:

「どうしたの?」

「今、家で嫁さんが倒れたらしい、呼吸困難で、意識も混濁してるって…、少し前から風邪気味で調子悪いって言っていたんだけど…、さっき突然意識を失ったって、いまは戻ってるらしいけど」

岡本は、妻の身に何が起こっているのかを考えながら大学の救急当番に連絡を入れた。

「肺炎でも起こしていたんじゃないの?」

「それなら、急に意識を失うのは…、あっ、循環器内科の岡本だけど、」

大学に電話が通じ岡本は救急受け入れの要請をした。

今日の救急当直当番の名前を聞いて岡本は少しほっとした。

「麻衣ちゃんが今日の当直だって、よかった」

その時岡本は藤島主任と鎌倉、由比ガ浜ホテルのラウンジにいた。

「ねえ、心筋炎か何かは…?この前も風邪を拗らした後に若い患者さんが心不全で入院してきたじゃない」

藤島主任が横から岡本にささやいた。岡本は、はっとし、電話の相手の麻衣子に伝えた。

「麻衣ちゃん、到着したら直ぐに心電図と心エコーも取っておいてくれるか。もしかしたら、ブロックを起こしているかもしれない」

岡本は、急に不安が増強し身体が震えた。急性の心筋炎による失神発作は心不全の増悪や重症な不整脈が起こっている可能性が高い。最悪の場合には心停止を起こしかねないし、戻ったとしても脳障害を残してしまう事もある。そのような重症な心疾患の患者をいつも診てきてきた岡本だったが、いざ自分の身内がそうなると普段の冷静さを欠いてしまっていた。

「由美子先生にも連絡しましょうか?」

藤島主任は気を利かせて言った。

「あんたからはちょっと…、俺から連絡してみるわ」

ちょうどその時だった。藤島主任の携帯の着信音が鳴った。

「麻衣ちゃんから…」

藤島主任は携帯を手の平で覆い隠しながら岡本に報告した。

テーブルに運ばれてくる料理を、事情を話してストップして貰った。

岡本から財布を受け取り藤島主任はレジに向かった。

携帯を耳元にあてがったまま岡本は後に続き店を出た。

「ちぇ、何処行ってるんだ、全く」

北山由美子になかなか連絡が取れない岡本はいらついていた。

「おっ、もしもし、岡本だけど…」

三回かけ直しやっと通じた。事情を説明し、重症の不整脈を起こしている可能性を伝えていた。

場合によっては緊急のカテーテル検査・処置が必要になるかもしれない。マンパワーが必要であった。

「由美子、頼むな」

こんな気弱な岡本の姿を見たのは初めてだと思った。

由美子、と呼びつけにした時の岡本の言葉に藤島主任は一瞬驚いた。

「一緒でいいの?」

「あっ、ああ」

藤島主任を助手席に乗せ、岡本は大学病院へと急いだ。

横浜横須賀道路を横浜へと向かった。

マリンタワーの夜景も岡本の眼には入らなかった。

一時間ほどして到着した。附属病院の人目の少ないところで藤島主任を降ろし、自分は救急病棟の前に車を乗りつけたまま救命センターに駆けつけた。


CCU(心臓救急センター):

「遅いよ」

CCU(心臓救急センター)の病棟に岡本が到着した時にはほとんどの初期治療の救急処置は終わっていた。北山由美子がベッドサイドで岡本に見せた笑顔で最悪の事態は乗り切ることが出来たことを岡本は感じ取った。

気管内挿管チューブを挿入された岡本の妻の恵子は、鎮静剤で眠らされ呼吸器の動きに合わせて穏やかな呼吸をしていた。

岡本は妻の心電図モニターの波形を確認してほっとした。

心電図モニターには、時々不整脈が出現しており、伝導障害によるブロックを起こし高度の徐脈傾向を示していたが、ペースメーカーの波形が止まりかけていた妻の心臓を助けていた。

「意識は…?」

岡本は由美子に恐る恐る聞いた。

「いま鎮静させているから応答は無理だけど、頭は大丈夫そうよ」

由美子は不安気な表情の岡本をからかうようにおどけて言った。

岡本は罰が悪そうにはにかんだ。

「由美子先生、血ガスの結果出ました」

そこに顔面を紅潮させた麻衣子が藤島主任と一緒に息を切らせてCCUに入ってきた。

「先生、麻衣ちゃんに感謝しないとね」

岡本と顔を合わせた麻衣子は照れくさそうに微笑んだ。自分が岡本の妻の命を救ったという安心感と自信に満ちた笑顔だった。「やったよ」っと言って岡本に自慢したかった。

そう言葉に出せない代わりに、

「藤島主任まで呼んじゃった」

と、おどけて見せた。藤島主任も岡本と視線が合うとほっとした表情でこくりと頷いた。

「私が到着した時にはもうテンポラリー(一時ペーシング)が入っていたのよ。

挿管も済んでるし…、麻衣ちゃんが一人で全部やっていてくれたのよ」

「いえ、先生達が駆けつけてくれるのがわかっているから安心していたんです」

と、謙虚に返答した。そう言いながら血ガスの結果報告書を岡本に手渡した。

結果を確認するとそのまま由美子に手渡した。由美子は納得のいく結果に安堵の表情で微笑んだ。

「っで、岡本君は、奥さんのこの一大事のときに何処をほっつき歩いていたの…?

まあ、いいか。それじゃ、私は帰らせて貰うわね、デート中だったのを呼び出されちゃったんだから…」

そう言いながら、由美子は岡本に向かって、

「おつかれさん、後はいいわよね」と、眼で合図をした。岡本は由美子のそんな視線に黙って頷いた。

「ありがとうございました」

と、麻衣子は由美子に向かって深々と頭を下げて見送った。麻衣子には何よりも由美子の目の前で結果が出せ褒められたことが嬉しかった。

「ありがとう」

岡本は言葉短く見送った。


面会:

「先生、娘さん達が待合室に…」

藤島主任は、自分がこの場所にいることに急に違和感を覚え、こう言いながらCCUの待合室にいる岡本の娘達を呼びに行くと、そのまま自分の病棟に戻っていった。

「お父さん…」

岡本の娘二人は、頼りなさそうにCCUの前にある家族待機室に腰掛けていた。

家族待機室に入ってくる岡本の姿を見つけると今までの緊張の糸が一気に途切れたように、二人は父親に近づき泣き崩れた。

「二人ともよくやった。ご苦労さん」

岡本は目いっぱいの笑顔で二人を褒め称えた。

「お母さん、もう大丈夫だよ。呼吸もしっかりしているし、今、麻酔で眠っているけど意識もきっと戻るよ。二人ともよく頑張ったな、えらかったぞ」

「ねえ、お父さん。お母さん死なないよね、大丈夫だよね」

由佳はまだ恐怖感が治まらず身体を震わせていた。

「風邪のウィルスかなんかだろうけど、お母さんの心臓の筋肉に炎症を起こしてしまって心臓の動きを悪くしてしまったんだよ。心臓を動かす刺激伝導系と言って、電器回路のような部分にも障害を起こしたから不整脈も出やすくなっていたし、一時的に心臓の動きが止まっちゃったんだろうな」

岡本は患者の家族に説明するように娘達に病状を説明した。 

「お母さんに面会しに行こうか」

「うん」

二人は少し安心した表情で岡本の後に続きCCU病棟に入っていった。

点滴や人工呼吸器など身体中にいろんな装置が取り付けられてベッドの上で横たわっている母親の変わり果てた姿を見て一瞬娘達は恐怖感から岡本の背後に隠れるようにして立ち止まった。

「モニターの波形も落ち着いているし、ほら、呼吸も人工呼吸器を使っているけど楽そうだろ」

妹の由佳は岡本の腕をつかみ母親の顔を恐る恐る覗き込んだ。

母親の穏やかな表情を見て少しほっとした様であった。

「二人ともしっかりしてましたよ」

麻衣子が診察のため聴診器を持ってベッドサイドに来た。そして一枚のノートの切れ端を岡本に見せた。

「…」

「先生の御指導が行き届いてるんですね」

そう言いながら、麻衣子は聴診器を患者の胸にあてがい肺の呼吸音を確認した。

岡本が受け取った一枚のノートには、妻の最近数日間の病状が詳細に記載されていた。

そして、急変をして意識を消失した時の状況がこと細かく記載されていた。

姉の恵美が記載し、救急室で麻衣子に渡したものだった。

自分が現場に居合わせたと思うくらい的確に記載されていた。鋭い観察力だと岡本は思った。

「これ…、」

岡本は恵美の顔を見ながら手に持ったノートの切れ端を差し出した。

恵美は黙って頷いた。岡本は涙を堪えていた。

「あっ、お父さん。お母さんの顔が動いた」

ベッドサイドでしゃがみ込み、母親の手を握り締めていた由佳が嬉しそうに言った。

鎮静薬で眠らせてはいるが多少の体動はあるはずである。

岡本は由佳の言葉に答えるように母親の顔を覗き込んだ。

妻の目からひとすじの涙が零れ落ちていた。


恵子と眞澄:

「主任、お疲れ様でした」

藤島主任が自分の病棟である三階の循環器病棟に戻ると北山由美子が夜勤の看護師達といた。

「由美子先生…」

「よかったね、上手くいって。麻衣ちゃん、たいしたもんだね」

「そうですね」

藤島主任は笑顔を作って見せた。

「麻衣子先生、すごく張り切ってましたよ。全部自分で仕切って」

若い夜勤の看護師が興奮冷めやらない様子で話した。

「二,三日で呼吸器も外れるでしょうから、後は主任、病棟の方でよろしくね」

「はい」

由美子に声をかけられ少し気持ちも軽くなった藤島主任は笑顔で返答した。

病棟では、私の出番もある、っと思った。

北山由美子が岡本に連絡をしていた。藤島主任を送って自分ももう帰る旨を告げていた。

既に夜中の1時をまわっていた。


二日後、心不全症状の改善とともに自力での呼吸も可能になり、人工呼吸器を外すことが出来た。

緊急入院時に拡大し、喘ぐような弱々しい動きを見せていた恵子の心臓も炎症所見の改善とともに力強い収縮力を取り戻していった。不整脈も嘘のように消失していた。

本当にあの一瞬、夕食の時に突然意識を失ったあの一瞬が命の分かれ目であった。

カンファレンスの結論は、ウィルス性心筋炎による急性心不全および刺激伝導系障害により一過性に房室ブロックあるいは洞停止が起こったか心室細動を来たしたのであろうということであった。

岡本は、下の娘の由佳が倒れた母親を抱え、嘔吐物が喉に詰まったと思い無意識に背中を殴打した事が胸部刺激になり、曲がりなりにも痙攣を起こしかけていた心臓の動きを回復させたのではないかと考えていた。

姉の恵美の詳細なノートの記載からその時の状況を想像し、一過性の心室細動を来たしていたのではないかと考えた。完全にブロックを起こしていて心臓が徐脈性の不整脈から心停止を起こしてしまっていたらそんなに簡単には心臓の鼓動は回復しない。

ほんの一瞬でも心室細動を来たしていたことと娘の気持ちと行動が母親の命を救ったのではないかと考えた。命が助かったとしても心停止の時間があと数分でも長かったら心臓の拍動は再開しても脳死の状態になっていたかも知れなかった。

そのことを考えると岡本は後になって恐怖感を抱いた。

 未だ点滴に繋がれたままの状態であったが、恵子は、全く脳障害を残すことなく一般病棟の三階循環器科病棟に戻る事が出来た。人工呼吸器のための気管内チューブを抜管したばかりであり、未だ声はかすれた状態であったが、問いかけに対する応答もでき、短い会話も可能であった。


「循環器病棟の主任の藤島です。岡本先生にはいつもお世話になっております。岡本さんの担当ナースとして看護に当たらせていただきます。宜しくお願い致します。何か今、調子悪いところございますか?」

 もう数年間、岡本と一緒にいながら、岡本の妻の顔を見るのは初めてであった。そう言えば、写真でも見たことが無かった、そう藤島主任は始めての挨拶を交わしながら心の中で思った。

「よろしく、お願いします。今、特には大丈夫です…」

かすれた声であったが、恵子は目を細め笑顔で返答した。

心電図のモニター音も落ち着いていた。

「娘さんたち、頑張られましたね」

褒めるつもりでそう言いながら藤島主任は、ベッドサイドの椅子に腰掛けている二人の娘に笑顔を向けた。

「…」

緊張した表情で二人は口を閉ざしたまま軽く頷いただけであった。

「なにかあったら遠慮なくお申し付けください」

恵子にそう挨拶をして病室を出た。

扉をそっと閉めた瞬間、ドッ、ドッ、っと自分の胸の鼓動が高まっているのを感じた。

「意識しているのは私の方なのかな…」

岡本医師に対する以上に、自分は精一杯、看護師として患者さんである岡本恵子さんに関わっていこうと決心していた。それが彼女自身のプライドでもあった。


幸い、心筋自体のダメージは軽かったようで炎症所見の改善とともに数日で心臓機能は正常に回復していた。循環器病棟に戻ってから数日で、恵子は病棟内のゆっくりした歩行まで可能になっていた。

藤島主任は出勤するとまず恵子の病室に赴いた。

挨拶と病状を確認するだけの短い時間であったが二人は毎朝言葉を交わした。

恵子の入院中も岡本は藤島主任とはそれまでと同じように会っていた。

「私、奥さんの役に立っているかしら…」

岡本と会っている時、藤島主任はふとそんな言葉を漏らした。

「えっ…、毎日病室に来てくれてるって、喜んでたけど…」

「そう…」

最初のうちはしっかりと看護師としての対応をしていく事で自分の恵子に対する存在感を意識し、自分自身のプライドも保っていけると考えて接していたが、毎日、病室で恵子の素顔を見て直接会話を交わすようになるとプライドだけでは説明がつかない不思議な感情が自分の心の中にわきあがってくるのを感じていた。

ある朝、病室で恵子の寝顔を見た時に、眞澄は、この人は岡本先生を心から信頼している、ふとそう思った。安心した寝顔で眠っていた。

眞澄はそっと、起こさないように恵子のベッドサイドに立ちその寝顔を見ていた。

岡本の人生に関わってしまった自分の気持ちを恵子の寝顔を見ながら考えていた。

この人のために今、自分は何ができるだろうか。

嫉妬やコンプレックスの感情は全くわきあがってこなかった。


「そう…、よかった。大事にならなくてよかったね」

「ああ、本当に…。こんな患者、俺達毎日見てきているのに、自分の身内となるとちょっと感じ違うよな」

岡本も、眞澄に対する対応には全く変化が無かった。いつもと同じように眞澄に接していた。

何故だろうか、恵子から岡本を奪い取ろうという気持ちが全く起こってこない。

葛藤を続けながらも知らず知らずのうちに岡本とのかかわりの中での自分の居場所を探すようになっていた。

 

緊急入院してから、十四日が経った。病状自体はほとんど一週間くらいで回復し、日常生活は可能と考えられた。

「岡本さん、退院決定、おめでとうございます」

藤島主任は、退院の朝、いつものように病室に入ると、恵子に向かって丁寧に退院の挨拶をした。

藤島主任が入ってくるのに気づくと恵子は、嬉しそうに微笑み、

「藤島主任、本当にありがとうございました。安心して治療できました。毎日来てくださって本当に安心できました」と、化粧をし、帰宅の準備を済ませていた恵子は深々と頭を下げた。

丁度、そこに岡本が病室に入ってきた。

藤島主任がいることを予想していなかった岡本はちょっとびっくりした表情になっていたが、直ぐに

「主任、助かった。いろいろありがとう」

と、恵子に引き続き頭を下げた。

「先生、変ですよ。先生にお礼を言われても…、ねえ」

藤島主任は、恵子に相槌を求めて笑いながら言った。

「主治医はあなたなのですから、私があなたにもお礼を言わなくちゃいけないのよね」

っと、笑いながら答えた。

「子供達が待っているから、清算を済ませたら直ぐに帰るわ」

帰り支度の荷物を手に持ちかけ恵子はそう言った。

恵子の視線が二人から外れた瞬間、岡本は藤島主任と目が合った。

恵子の言葉に、眞澄の心が揺れていた。


「何にも変わってないって…、眞澄ちゃんとあんたの奥さんの二人の方が大人なのかもね」

「由美子もな」

二人はそれぞれの思い出を頭に浮かべながら顔を見合わせ微笑んだ。

 

 岡本の妻、恵子が緊急入院し救急の初期治療から関わり入院中も岡本と一緒に主治医として治療に当たってきた麻衣子は、岡本の妻、恵子の看護にあたっている藤島主任の献身的な態度を見て、自分には入り込めない人と人との関わりの深さを感じていた。

ずる賢く立ち回っているだけなら例え看護が自分の仕事だとしてもこのように接する事は出来ない。

少なくともその時の自分では正常な精神状態ではいられないだろうと思った。

麻衣子は、岡本の妻、恵子の命を救った医者として主治医と患者との関係を確立できてはいた。先輩の岡本医師や北山由美子に褒めて貰えたことも医者としての自信に繋がっていた。

「岡本先生の奥さんは、藤島主任との関係を御存知なのかしら…?」

回診に病室を訪れた時に藤島主任と岡本の妻、恵子が接しているのをみて麻衣子はいつも心の中でそう呟いていた。しかし、日毎にそのような勘繰りは自然と消えていった。

藤島主任は岡本先生の奥さんに必要な人間になろうとしている。麻衣子にはそう感じるようになった。

 医者や看護師は患者の人生に否が応でも深いかかわりを持つ。そこにプライベートな関係が絡んでくるとより複雑になり、メンタルコントロールも容易でない事も多い。


岡本の妻、恵子が退院してから一年以上も経った頃、麻衣子は北山由美子に岡本と藤島主任との関係について聞いてみたことがあった。中傷や興味本位のためではなく、その関係の中に自分の居場所があるのかどうか、その答えが欲しかったからであった。

北山由美子は、麻衣子の心の中に留めておくという約束で二人の関係について話をしてくれた。

しかし、麻衣子の居場所についてはある、とも、無い、とも言わなかった。

その時麻衣子は、植村の顔を思い出していた。自分の居場所を考えると必ず植村の顔が浮かんできた。私の居場所はここにあるのかも知れない。そう思うと無性に会いたくなった。

祇園の季節はもう直ぐであった。コンチキチンの鐘の音は、もうすぐそこ迄来ていた。

「何も、大文字まで待たなくったっていいのに…」

会いたい時に直ぐに会うことが出来る藤島眞澄に麻衣子は一瞬、嫉妬の気持ちを感じていた。


大文字、「船型」:

 「三年目は…、また、もし会えるようなら船形の大文字の場所に行こうな」

去年の植村との約束通り二人は船形の大文字が灯される京都北山通りを歩いていた。

夕方のまだ明るい頃より人通りは多く、すれ違う若い女性の浴衣姿が何処か新鮮だった。

人混みの熱気を感じ始めたと思う頃には辺りは薄暗くなっていた。

西方寺の鐘の音が雑踏を包み込むように京都の夜空に鳴り響き、加茂船山の闇苅に消えていった。

鐘の音に耳を傾けていると突然、「ウオー」という歓声が沸き起こった。

目の前の暗闇から、船形の炎が麻衣子達に迫ってきた。

炎の熱気が麻衣子のところまで届いているのではないかと勘違いする程、身体が熱くなってくるのを感じた。絡めた指に力がこもった。

植村は写真を撮るのを忘れていた。

「写真はいいの?」

麻衣子の言葉に、

「一番、燃え盛っている時に撮る」

そう答えて、握りしめた麻衣子の手を離さず、じっと炎を見つめていた。

声をかければ自分の耳で言葉を聞く事が出来る。

見つめれば自分の目で表情ひとつひとつ見る事が出来る。そして、手を伸ばせば自分の手で、植村の腕に触れる事が出来る。傍にいればいつでも甘える事が出来る。

麻衣子は大文字の炎に見入っている植村の横顔をじっと見つめた。

一年近くも離れ離れで会うことが出来なかったのに、今自分の目の前にいる植村とは毎日、一緒にいたかのように自然と受け入れられた。

「よし、写真撮るぞ」

植村は、突然そう言うと麻衣子の手を離し、少し下がった所からシャッターを押し始めた。

時々レンズが自分の方に向けられているのを感じながらも麻衣子は、燃え盛る大文字の炎を見つめ続けていた。


 麻衣子は久しぶりに植村に会えたことの喜びで子供のようにはしゃぎ、喋った。

祇園のお茶屋に連れていってもらい、初めて間近で舞妓さんと会話を交わした。

独特の京言葉にほっとするような安堵感を覚えた。

「麻衣子さん言うたら、私達と同じどすな」

まだ、十九歳という若い舞妓が、植村に酒を注ぎながら言った。

「あっ、ほんまやな、あははは…」

「ほんまどすな」

女将も相槌を打ちながら微笑んだ。

自分の名前をそのように意識していなかった麻衣子は、ちょっと戸惑いながらも

「私も舞妓さんになれるかな」

と返答した。

「お連れさん綺麗どすさかい、祇園一の舞妓はんになれるんとちがいます」

女将が微笑みながら言った。

お世辞とわかっていても素直に嬉しかった。

寄り添いながらお酌する舞妓とそれを受けている目の前の植村の仕草を見て、大人の男を感じた。

「麻衣ちゃん、明日、着物着て、舞妓さんの格好して祇園を歩いてみるか?」

「それはよろしな」

若い舞妓が手を叩いて相槌を打った。

「私、お姉さんの後について一緒に歩かせてもらいますわ」

「そりゃいいわ。美人舞妓二人連れて歩いたら、俺も鼻が高いわ、あっはっはは」

麻衣子の喜ぶ表情を見て、植村は上機嫌であった。


 お茶碗を逆さに置いてお互い向かい合い金比羅舟の唄を口ずさみながら手拍子でお茶碗を取ったり戻したりする遊びもその時初めて経験した。

単純な遊びであったが相手がお茶碗を取り上げたのにその空いた場所を手のひらでお手つきをしてしまったり結構リズム感がいる。

舞妓さんたちのゆったりした言葉遣いや仕草の反面、手先は器用で機敏であった。

麻衣子は本当に植村から大切にして貰っていると感じた。

麻衣子にとって植村の存在感が次第に大きくなっていき、もう自分の感情では取り除く事が出来なくなってしまっていた。

植村には家庭がある。しかし、それ以上のことを麻衣子は知らなかった。

どの様な奥さんであって、何歳くらいの子供がいるのか、いつもはどんな生活をしているのか。聞けば何でも答えてくれるだろう植村に返って今まで触れられずにいた。

岡本医師の妻を看護していた藤島眞澄の姿をふと思い出し、自分はあそこまで強くはなれないと思った。

同じ年代の藤島師長に最初の頃に抱いていた微かな嫌悪感はこの自分には無い強さだったのかも知れなかった。

「思い通りにならないことなんて人生にたくさんありますから…。いちいち気にしているほど私、裕福には育ってきていないんです」

藤島眞澄がある時、麻衣子に言った言葉だった。

患者の苦痛を受け入れ様々なことに耐え忍ばなくてはならない看護師としての言葉だと思っていた麻衣子だったが、次第にその意味が麻衣子にもわかってきた。

それからであった。植村の存在が自分の中で膨らんでいく度に藤島眞澄のこの言葉が麻衣子の中に浮かんできた。

負けたくないと思っていた時には反発していた言葉が、麻衣子にとっては植村とともに自分の頭の中を占拠していく言葉になっていった。


「どうした。何かあったんか…?」

植村は、ベッドから降りてソファーに腰掛けるとタバコに火をつけながら言った。

裸体を乱れたシーツの上に投げ出したままの麻衣子は、

「ううん…」

と言って、植村に笑顔を向けた。

「三年経ったな」

「うん…」

「また会えるとは思ってなかった。縁があるんやな、取りあえず…」

「……」

「来年は、順番からだと左大文字やな。大北山…、西院から金閣寺あたりで見るんや」

「今年の船型も綺麗でしたね」

麻衣子は白いシーツを自分の身体に巻きつけた。

ちょっと視線を落とし、あと二年でもう会えないのかな、と言いそうになるのを制した。

面倒くさい女になりそうだった。本当はいちいち物事を気にする繊細な性格である事は自覚していた。

別に裕福に育ってきたわけではなかったが、それでもきっと人よりはずっと自分の思いは叶えられてきて育っていたのかも知れないとわかっていた。

男は面倒くさがりやだから、女はうるさく付きまとうのもひとつの手だ。

しかし、麻衣子にはそれが出来なかった。

植村はタバコを吸い終わるとその吸殻を灰皿でもみ消し、また麻衣子の傍に寄り添ってきた。

自分もシーツの中に潜り込もうとするのだが、麻衣子の身体に巻きつけられたシーツがまとわりつき、なかなか入り込めないでいた。仕方なく、植村はシーツをまとった麻衣子をそのまま強く抱きしめた。

手足を拘束されたままの麻衣子は植村のなすがままの欲望を受け入れていった。

「なあ、このままでもいいか?」

「…。生理、まだ、もうちょっとだと思うけど」

「大丈夫やろ?」

「わかんない…」

植村もちょっと考え込んだ。

自分の人生は自分で責任を取っていくわ。私は、この人が好き。この人の…、

「ねえ、やっぱり付けよ。私が付けてあげる」

麻衣子は自分が巻きついていたシーツを植村に巻きつけながら、植村の胸に覆いかぶさるように身を乗り出し手を伸ばして枕元に置いてあるものを取った。

仰向けになり、上半身をシーツで拘束されて身動きが出来なくなってしまった植村の上に麻衣子は覆いかぶさり、麻衣子は、その先端を歯でちぎり穴を開け、そのまま植村に装着した。

植村に巻きついているシーツを取り、麻衣子は植村の背中に両腕を目一杯伸ばしてしがみつくようにして身体を寄せた。その後は麻衣子の頭の中は真っ白になり、植村の動きに身を任せていた。

「もうちょっと、このまま…」

植村が果てた後も、麻衣子はきつく腰を押し付け植村の身体から離れようとしなかった。

身体の奥で植村のぬくもりを感じていた。

これでいい…、よね。麻衣子の目にうっすらと涙が浮かんできた。


第四章:左大文字


妊娠:

「ねえ、聞いた? 麻衣子先生の事…」十二月もクリスマス近くになってからであった。

麻衣子の体型の変化に気づいた若い看護師達が噂し始めてから間もなく、大学病院中に麻衣子妊娠の情報が伝わった。勿論、麻衣子自身がぺらぺらと喋ったわけではなかった。

周囲を気遣い、大学病院の産婦人科を受診することはせず、先輩の女医に相談し、その先輩が勤務している個人病院の産婦人科を受診した。

自分で妊娠反応を確認した秋頃には一瞬のためらいもあり、やっぱり堕ろすべきか悩んだ。

未だ間に合う、そう思い悩んでいるうちに時間は直ぐに経っていった。

母親より先に、麻衣子は北山由美子に相談した。

「育てていく責任さえ全うできるなら、授かった命は大切にしなくては駄目よ」

北山由美子の答えは明解であった。結婚しても子供に恵まれない夫婦は沢山いる。

病院という世界にいるとそのような夫婦が多い事に驚く。

子供を授かるという事は当たり前のことではない。

結婚という形式をとってからでのみしか子供を授かる権利を有するというものでもない。悩めば悩むほど自分が犯した学生の時の愚行を悔やんだ。なおさら産みたいと思った。

「こうなることは麻衣ちゃんが望んだの?」

曲がりなりにも医者である麻衣子はどうすれば妊娠するかのことぐらいわかっているはずである。しかも自制心がきかないような年齢でもない。

そこを理解してなお北山由美子は麻衣子にそう質問した。

「…」

麻衣子は黙って頷いた。

「それなら全く迷う事ないじゃない。おめでとう…」

零れ落ちる涙を拭いながら俯く麻衣子の手を握り締め北山由美子は心から祝福した。

「山中先輩の病院に行ったらいいよ。今、産婦人科の部長をしているから」

麻衣子と北山由美子と共通の学生時代のクラブの先輩である山中美由紀先輩のいる病院を麻衣子は受診した。


 「はい、おめでとう。妊娠四ヶ月ですよ。いいのね。このままで…。由美子から連絡は貰っているけど。後は、あなた次第だからね」

久しぶりに会った山中美由紀先輩であった。

麻衣子は産婦人科診察室で面と向かって説明を受けるとやはり緊張をした。

自分の意志は揺らがなかった。北山由美子にも言われた。

自分が望んだ事なのだから後悔はしないと。

「はい。わかっています。宜しくお願いします」

「相手の人もいいのね。気持ちだけじゃ通用していかないわよ」

「はい。よく話し合っていきます」

「わかったわ。それじゃ、私も全力で応援する。

由美子もあんたの味方だからって…、くれぐれもよろしくって言われたわ。

岡本君の奥さんの命の恩人なんですってね」

「えっ、あっはい」

急に岡本医師の奥さんの事を言われ麻衣子はびっくりした。

しかし、北山由美子や山中美由紀という二人の先輩に励まされ、味方になってくれるものがいるという安心感から自信を持つ事が出来た。

これから周囲の興味の目や中傷にさらされるかもしれないという不安も乗り切れそうな気がした。

案の上、麻衣子の相手が不明なだけに興味本位の噂が大学病院中に広まっていた。


報告:

 植村には山中先輩の病院を受診した後にメールで伝えた。

相手が直ぐに話せる状態かわからないため、連絡はまずメールでのやり取りになっていた。直ぐに連絡する。というメールの返事の後、直接電話がかかってきた。

「身体、大丈夫なんか?」

植村の最初の言葉がこれだった。麻衣子の不安と恐怖感は少し和らいだ。

「連絡、遅くなってごめんなさい」

植村の返事ひとつひとつが怖かった。

「いや…、おめでとうって言っていいんかな…、俺の…」

「ありがとう」

麻衣子は、植村の言葉を遮るように返事をした。

「あの、植村さんには絶対に迷惑はかけない。産んで…、いいでしょ」

「……」

「あの、本当に、私が育てるから…、あなたの家庭には絶対に迷惑はかけないから、一生…」

「いや、そうじゃないんや…。本音を言えば、産んでほしいんや。麻衣ちゃんとの間に俺の子供が出来るなんて想像もしてなかったんや。でもな、今の家庭捨ててまであんたのところに行かれへんのや」

「わかってる。そんなことしないでね。私は一人でやっていくから。

任せて、仕事だってちゃんとやっていけるから。ほら、いつも言ってた由美子先輩…、応援してくれてるのよ。女医は一人でも生きていけるんだから」

泣き出したい気持ちを必死に堪えて麻衣子は強がりを言っていた。今すぐにでも植村の元へ飛んでいって抱きしめて貰いたかった。

堕ろせと拒否されるかもしれないと思っていた麻衣子は、植村の気持ちが嬉しかった。

自分で決めた事は決して後悔しない。植村に報告できた事で麻衣子の気持ちはかたまった。


母親の反対で止める位だったら最初から妊娠するような事はしない。

少なくともその位の分別をもって行動しているつもりであった。

母親の言葉は正しいとは理解している。でも、正しいことが全て自分の人生にとって後悔の無いことかどうかは解らない。

自分の決断に素直に従おうと思った。自分を信じて後悔しないこと。

「もう三十路を越えた女は自分の決断で生きるんだ」そう強がってもいた。

病院中の噂はもっと麻衣子にとって辛辣なものになるかもしれないと思っていたが不思議と周囲の反応は優しかった。

一部看護部の中には面白がって中傷する者もいたがそれがきっかけとなってバッシングされるような事は無かった。

周囲の目が気になる時は、自分自身が気にしている時だけであるのに気が付いた。

自分が気にしている程周囲は自分の事に注目していないという事も気が付いた。

次第に大きなお腹が目立つようになってさすがに隠せなくなった時には、患者さんの中にはびっくりしている患者さんもいた。

 教室の主任教授も、病棟ですれ違った時に、「おめでとう」と一言、言ってくれたがそれ以上は何も聞かず何時もと同じように接してくれていた。

妊娠してからは、放射線を浴びるわけにはいかず、心血管撮影や放射線室での仕事から遠ざからなくてはならず、スタッフに迷惑をかけている事が気がかりだった。

それでなくても人手の少ない循環器科病棟で大きなお腹をしている事は肉体的な苦痛よりも辛かった。


異変、徴候:

春先、妊娠後期に入った。

山中美由紀先輩の病院の産婦人科で定期的な検診を受けた。胎児は順調に育っていた。初めて腹部エコーの画面で自分のお腹の中にいる動く命を見たときには思わず涙がこぼれた。自分の身体の中にもうひとつの命が宿っていることが医者である自分にも不思議であった。

母性という感情が芽生えた麻衣子の表情は穏やかな優しい表情になっていた。

命を慈しむ気持ちそのものが母性であるのだろうと感じた。

無事に育っていく我が子にほっとした。

しかし、大きなお腹で体重も増加した身体で仕事をしているのも辛かった。

時々、病院の処置室で横になって身体を休めた。

4月頃からであろうか、栄養をしっかり摂るために食べなくてはと思いながらも一時期、食欲が落ちた事があった。

病院の食堂で北山由美子と昼食を摂っていた時であった。

「麻衣ちゃん、しっかり食べなくちゃ。赤ちゃんの分もね」

食べると直ぐにお腹が張ってくる。一度に少量ずつしか口に運び込むことが出来ないでいた。

「最近、お腹が張ってあんまり食べられないんです。この前もちょっと戻しちゃったんです」

「お腹、大きいから圧迫しているのかも知れないわね。でも、麻衣ちゃんはそんな肥満体型ではないから大丈夫だとは思うんだけどね、山中先生には診て貰っている?」

「はい。先週も定期健診に行ってきました」

「食事の事もちゃんと報告した」

「いえ、エコーをとって、バイタルチェックしただけでした」

「患者さんとしては失格よ。産科の患者さんは特に、子供のことばかり気にしていて自分の身体のことは結構注意していない人が多いでしょ。母体ももっと大切に気遣ってあげなくちゃ。何時もと違う症状があるんだったらちゃんと報告しなくっちゃ」

「自分が診察するときは患者さんには何時もそう言ってるんですけどね」

麻衣子は苦笑いをした。妊娠に伴う子宮の圧迫だけでは無いような気も自分ではしていた。

妊娠中毒症か…、ストレス性の症状か…?

時々、絞り込むような上腹部の不快感が麻衣子には気になっていた。

その症状は口に出さないでいた。

「ギネ(産婦人科)の事は山中先生にまかせておいて間違いないわよ」

「ありがとうございます。わかってます」

「でも、食べられないのが気になるね。消化器科の阪口先生にも相談したら」

「あっ、はい」

「ごめん、ごめん。つい患者さんに対するのと同じように、ちょっとおせっかいだったね」

「いえ、ありがとうございます。妊娠初期のつわりはあまりひどくなかったんですけど、今頃になって嘔吐したりするんで…」

ちょっと目を伏せた時の麻衣子の表情に活気が無いような気がして北山由美子は不安が走った。

自分の勘が当たってなければ良いと心の中で願っていた。

「無理をしたり、過信したら駄目よ。一人で心配しないで何でも言ってね。

消化器症状、気になるんだったら、私からも阪口先生に相談しといてあげるからね」

「ありがとうございます。でも、私達って贅沢ですよね、先生。何時でも一番の名医に受診することが出来るんですから。患者さんが聞いたら羨ましがられますね」

麻衣子はそう言って微笑んだ。

「本当ね」

北山由美子も、その言葉に思わず微笑んだ。


吐血:

 麻衣子の子宮の中で順調に育って行く胎児とは裏腹に、母体、麻衣子の身体には徐々に異変が進行しつつあった。軽い朝食を済ませ病院に出勤しようと支度をしている時だった。

突然、胃袋をわし掴みにされ無理やりにねじられた様な激痛が走った。

麻衣子は胎児に影響が無いようにとお腹を両手でささえながらその場で蹲った。

床の上に身体を丸めて横たわる麻衣子の身体は激痛に耐え小刻みに震えていた。

「赤ちゃん…」

麻衣子はわが子を抱きかかえるように大きくなった自分のお腹を抱え込んで呟いた。

もしかして、切迫流産あるいは胎盤に何か異常が起きてしまったのかと考えた。

しかし、激痛が走っている場所はみぞおちが中心で、自分で触診した子宮は硬くなっておらず外側から触れる事ができる範囲では柔らかかった。

産婦人科の経験がほとんど無い麻衣子でもその程度の基本的な判断はできた。

「それじゃ、この痛みはなんなの!」

思わず大声を上げそうになるのを堪えた瞬間に痛みはすっと遠のき、胸に不快感が走ったと思った瞬間、反射的に胃の内容物を全て嘔吐した。

心窩部から前胸部にかけて重い鈍痛は残っていたが先程までの絞られるような激痛は嘘のように消失していた。痛みに堪えて閉じていた目を開け、目の前の自分の嘔吐物をみて愕然とした。

「何、これ!」

朝食に食べたパンや牛乳の嘔吐物は潜血で真っ赤に染まり、凝血した大きな血の塊が麻衣子の目の前に吐き出されていた。

先程までの激痛は身体が目の前の異物を吐き出そうと必死にもがいているがための反応と考えられた。

「私の方なの…?」

麻衣子は一瞬冷静になり今の病態を頭の中で整理した。

麻衣子の母親は目の前の光景に愕然とし、力なくその場にしゃがみこんでしまった。

「お母さん、大丈夫よ。ちょっと大学に連絡したいから私の鞄の中の携帯持ってきてくれる?」

「ま、麻衣子、大丈夫。救急車呼ばなくていい…」

震える声で麻衣子の母親はどうしてよいかわからずあたふたとするだけであった。

「救急車は大丈夫。大事になって格好悪いから…、タクシーで行けると思うわ、ねえ、携帯早くお願い。それから、こんなに汚れちゃったから着替えの服も持ってきてくれる、ゆっくりでいいわよ」

「あ、ああ」

携帯を手渡す母親の手は恐怖で震えていた。

その時には麻衣子は冷静さを取り戻していた。少なくとも胎児の安全は確保できている。ここで自分が慌てるのはこのお腹の中の胎児にも良い影響を与えない。

そう考えた麻衣子は、勤めて冷静に事を運んでいった。

北山由美子に連絡をし、吐血をした旨、胎児には影響はなさそうである旨、その朝の病状を正確に伝えた。由美子は消化器科の阪口医師に連絡をし、緊急の内視鏡検査をスタンバイして置くようにお願いしておくと麻衣子に返事をした。全身状態を考え大学病院の方がよいだろうと判断してくれた。

山中先生には由美子の方からも報告はしておくが、できるなら麻衣子自身がするようにと指示された。

山中医師にも電話報告をし、じっと身体を横たえタクシーが到着するのを待った。


緊急内視鏡:

 大学病院に到着した麻衣子は、ストレッチャーに乗せられ直ぐに内視鏡センターに運ばれた。

「ゆっくりお願いね」

ストレッチャーの上に身をかがめながらも麻衣子は、搬送に付いた若い看護師にお願いした。

「あ、すみません」

早く内視鏡センターに運び込もうと一生懸命の若い看護師はストレッチャーの揺れにまで気が付かないでいた。

「お腹の赤ちゃんがびっくりしちゃうから、ごめんね」

「いいえ…、すみませんでした」

若い看護師のほうが恐縮していた。

「麻衣子先生」

藤島師長だった。救急部からの連絡を受け病棟から降りてきてくれたのだった。

「師長さん…、ありがとう、病棟の方、大丈夫…」

藤島師長は麻衣子の手を握り締め、笑顔で頷いた。

「大丈夫よ、内視鏡センターで阪口先生がスタンバッててくれてるわよ、安心して…」

藤島師長が見ても麻衣子の顔色は悪く、笑顔を作っては見せているがいつもの明るい表情は感じられなかった。

「安井さん…、ここは私が変わるからあなたはエレベーター止めておいて」

「はい!」

突然、循環器科病棟の師長が現れて若い看護師は驚いた。

藤島師長に指示されてエレベーターの確保に走った。

「先生。赤ちゃん、大丈夫ですか?」

「ありがとう、しっかり、私にしがみついているみたい。私の方がこんなじゃ駄目よね」

「…」

麻衣子の弱気な言葉には藤島師長は返答しなかった。

赤ちゃんの事を気遣ってくれたことが麻衣子には嬉しかった。


「篠原さん、入ります。宜しくお願いします」

「はーい。お待ちしてました」

既に術衣に着替えてスタンバイしていた阪口医師が返事をした。

ストレッチャーを押して一緒に入ってきた藤島師長の顔を見て、

「あれ、師長さん自らですか…?」

と、少し驚いた表情を見せながらもおどけて言った。

「よろしくね。阪口先生…」

藤島師長も笑顔で応答した。

麻衣子は、もう自分で考えなくて済むと思いほっとした途端に全身の脱力感を感じた。

麻衣子は、点滴から鎮静剤の注射をされ程なく眠りに付いた。

内視鏡のベッドに寝かされ直ぐに上部内視鏡検査が開始された。

既に輸血用の血液は準備されており必要に応じて何時でも入れられる体制になっていた。

「どう?」

心配そうに内視鏡の画面を見つけている藤島師長の後ろから、岡本医師がポンと肩を軽く叩いて聞いた。

後ろを振り向き、岡本医師の顔を見つめた藤島師長の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

検査室は薄暗くなっており、他のスタッフには気づかれなかった。

藤島師長は岡本に知らせるように、視線を内視鏡のモニター画面に向けた。

岡本医師も内視鏡ファイバーの先端から映し出されてくるモニター画面に目を向けた。

一瞬、映し出されたモニター画像に目をやり思わずそのまま視線を外してしまった。

「岡本…」

内視鏡を操作しながら、岡本の存在に気づいた阪口医師は、岡本に知らせるように描出画像を選択していた。岡本の方に視線を向けると悲しそうな目をして顔を横に振った。

「俺が見ても解るよ」

岡本は小声で答えた。二人のやり取りを見ていた藤島師長はそっと涙を拭った。

「なんで…?」

誰にも聞き取れない声で呟いた。

「取りあえず、止血をして…、組織は何箇所かつまんでおくな」

「ああ…」

「マップ(輸血)、2単位、直ぐに落としておいて…」

阪口医師は、補助についている看護師に指示をした。

鎮静剤を使用していた麻衣子は、赤ちゃんが無事であることにほっとし、検査ベッドの上で横たわり穏やかな表情で眠っていた。


ムンテラ(病状説明):

麻衣子は、緊急内視鏡の後そのまま入院となった。

「どうする…?」

と、阪口医師に聞かれた藤島師長は、即座に、

「私の病棟でみさせてもらいます」

と返答し、直ぐに個室の手続きをした。

今回は、消化器科の病気がメインなので本来は消化器病棟に入院をするのが筋なのであるが、その点は阪口医師も気を利かせて循環器科病棟での入院を承諾した。

「俺も診るよ」

岡本医師も名乗りを上げた。

「お前の出番が来たらもう終わりだろ」

阪口医師はにやっとしながら切り替えした。藤島師長は阪口医師の冗談に笑う事が出来なかった。


 病棟に戻った麻衣子は、本当に穏やかな表情で眠りについていた。

ベッドサイドのソファには麻衣子の母親が、肩を落とし不安気な表情で座って麻衣子の顔をじっと見つめていた。

コンコン、とそっとノックをし、藤島師長は血圧計を持って病室に入って来た。

麻衣子の母親は、藤島師長に気づくとさっと立ち上がり、丁寧に深くお辞儀をした。

「座っていらして下さい。血圧とかバイタルチェックさせていただきますね」

藤島師長は、母親の方を労る様に声をかけた。

すがるような表情の麻衣子の母親は、直ぐにその言葉に頷きソファーに腰を下ろした。

「麻衣子先生。藤島です。バイタルチェックさせていただきますね」

うとうとと眠りについている麻衣子であったが、バイタルのチェックだけは必要であった。

藤島師長は、そっとシーツをめくり、麻衣子の腕に血圧計のマンシェットを巻きつけた。

「136の80、プルス96。ちょっと脈拍が速いですけど血圧は落着いてきましたよ」

救急で来院したときの血圧は、収縮期血圧が80台でほとんどプレショックの状態であった。

麻衣子の母親は藤島師長のその言葉を聞き、少しほっとした表情を浮かべた。

今は、どんな言葉でも改善しているという事がわかる言葉が嬉しく安心できた。

麻衣子の母親は、麻衣子の緊急内視鏡検査が終了した後に、阪口医師から内視鏡検査の結果説明を受けていた。麻衣子の吐血の原因は胃癌であり、しかも残念な事に進行性の癌で他の臓器への転移も推察できるくらい病状は悪化しているという事を説明受けていた。

鎮静剤で眠っている麻衣子は未だ内視鏡検査の結果は知らず、お腹の赤ん坊が無事であった事だけに安心して穏やかな眠りについていた。

「告知はどうされますか?」

との阪口医師の問いに、麻衣子の母親は、

「麻衣子は医者ですから、どうせ直ぐにわかってしまうと思います。

素人の私達が隠し通せるものではないと思います」

と、精一杯気丈に答えていた。

ベッドサイドのソファーに座って麻衣子の顔を見つめている時にもずっと、一分でもいいから長く穏やかに眠っていて欲しいと願っていた。

「師長さん…」

麻衣子の母親は、また、不安な表情を向けた。

「お母さん…、緊急の状態は脱したと思います。ご安心下さいね…」

と優しく声をかけた。

「…、」

涙を拭いながら頷いた。

「後で、阪口先生の方から、麻衣子先生に内視鏡検査の結果説明があると思いますから…」

藤島師長は、麻衣子の母親の心配を察して、言葉を足した。

自分で伝えなくてはいけないのかと思っていた麻衣子の母親はその言葉にほっとし、こらえていた涙が一気に溢れ出した。


 「どう?目が覚めた?」

藤島師長が病棟のナースステーションに戻ると阪口医師と岡本医師が麻衣子のカルテと内視鏡の写真を目の前にして話し合っていた。

藤島師長に気が付いた岡本医師が聞いた。

「まだ、うとうとされてます」

「あ、そう」

「外科の岡教授に相談してみようか」

阪口医師が藤島師長に向かって言った。

「そうですね…」

手術は避けられないだろう事は誰もがわかっていた。

阪口医師は敢えて藤島師長に聞いた。

「消化器病棟の池田師長にはさっき報告しといたから…」

「ありがとうございます」

麻衣子の、外科手術を考えた治療計画はもう動き始めていた。

「産科の方はどうされます?」

藤島師長が言葉をつないだ。

「そうだな、それもあるな」

阪口医師は両手を頭の後ろで組み考え込んだ。

「皆で集まって1回、ディスカッションしようか。岡教授には、俺から話をしてお願いしておくわ」

岡本医師が言った。

「それはありがたいな。岡教授は学生時代のお前のクラブの先輩だもな」

「俺が一年生でテニスクラブに入部した時のキャプテンで、あの時、全医体でも準優勝したり全盛期だったもんな。学生時代のテンションと今も一緒、岡先輩は…」

「後は、俺のムンテラ(病状説明)だけか…、気が重いな…。師長さん、言っといてくれるか?」

「そんなの駄目ですよ、先生」

藤島師長は、阪口医師の予想しなかった言葉にびっくりした表情で答えた。

「ぷっ…」と、岡本医師は二人のやり取りを見て思わす吹き出していた。

藤島師長は、阪口医師のペースが掴みにくいようであった。

「そりゃそうだよな」

「ちゃんとムンテラの時には同席させていただきます」

藤島師長は生真面目に答えていた。


大筋の治療方針は決まった。

阪口医師は、麻衣子の病状説明のために藤島師長と一緒に麻衣子の病室へ向かった。

鎮静剤の効果が薄れて麻衣子は病室のベッドで上体を起こし、母親と話をしていた。

表情は明るかった。緊張した顔つきで病室に入ってきた阪口医師に軽く会釈をしたが、阪口医師に続いて病室に入ってきた藤島師長に気づくと笑顔でそっと手を振った。

病棟の師長という立場で主治医に同行して麻衣子の病室に入ってきた藤島師長であったが、麻衣子の明るい表情をみてほっとし、同じように笑顔で手を振って答えていた。

麻衣子自身も自分の状況は想像が出来ており、有る程度の覚悟は出来ている様子であった。

「阪口先生、お忙しいところ救急の対応、本当にありがとうございました。

命を助けて頂きました」

麻衣子の方から積極的に話かけてきた。

「いえ…」

「先生。内視鏡の結果についてははっきりおっしゃって下さいね。

私は全て事実を受け入れる気持ちでおりますので。そして、今できることを最大限していこうと考えていますので…」

麻衣子は、阪口医師の目をしっかりと見据え、自分の意思をはっきりと伝えた。

阪口医師は、麻衣子の言葉をしっかり受け止めながらも主治医としての的確な判断を下すように頭の中で思考を回らせていた。

麻衣子の横から母親が不安そうな顔つきでじっと阪口医師の口元を見つめていた。

藤島師長の顔からもさっと笑顔が消え病棟師長の顔つきに戻っていた。

「わかっています。先生はそうおっしゃるだろうと思っていました。

データは全部お見せして、私の専門としての判断を伝えさせて貰います」

そう言うと藤島師長が差し出したカルテに張ってある緊急内視鏡の検査結果の写真をベッドのオーバーテーブルの上に乗せて説明をし始めた。

「胃角前庭部から幽門部にかけて隆起性病変を認めました。その一部が潰瘍化していて潰瘍底の露出血管から出血していました。それが、この部分です」

阪口医師は淡々と検査結果の写真を示し説明していった。

「ここです。クリッピングして止血確認しています。妊娠されているので、ウテルス(子宮)がマーゲン(胃)を持ち上げている格好になっているのでここら辺りが狭いように見えますが幽門部の狭窄までには至っていないと思います…、ちょっと引っ張られているようにも見えますが…」

「ご飯はまだ食べられますね…」

緊張した空気を解きほぐすように麻衣子は言葉を挟んだ。

「おいしいもの沢山、食べられますよ…」

未だ胃袋はちゃんと通過する余裕があるという意味で阪口医師はそのような事を言った。

麻衣子も阪口医師の意図は充分にわかっていた。

「合併症については、腹部CTとかレントゲン、できればPETのような検査も検討していかなくてはいけないんですけど…、ベビー(赤ちゃん)の事もありますのでできれば放射線は浴びせたくないんです…」

「オペは…?」

麻衣子の方から切り出した。

「岡教授に相談しようかと…」

「ありがとうございます。岡教授、クラブの先輩なんです。ちょっと恥ずかしいな…」

「あっ、そうですか。さっき岡本先生もそう言ってました。それから、ギネ(産婦人科)の方の担当医については、山中先生とも相談しておきます」

「お願いします。岡教授なら安心です」

緊急内視鏡の結果写真を見せられた時に麻衣子は自分の病状がどの位のものなのかは有る程度理解できた。返って冷静になれた。

今自分で出来る最善を尽くそうと心の中で決めた。

食事が出来るという内容の話が出た後に手術の話が出てきて、麻衣子の母親の頭の中は混乱してしまっていた。少しでも良い言葉が出れば病状は軽いと思い、悪い言葉が出ると死を意識した。

「阪口先生。ありがとうございます。私がすべき事、ご指示下さい。

この子のためにも頑張ります」

そう言って麻衣子は両手で突出したお腹をそっと抱え込んだ。

「岡本先生、何かおっしゃってました?迷惑かけちゃったな…」

「自分も主治医チームに関わらせて貰うって、おっしゃってましたよ」

藤島師長が笑顔で答えた。

「よかった。でも、あんまり岡本先生の出番のないようであって欲しいな…」

麻衣子は視線をそっと抱え込んだ自分のお腹に落としてポツリと言った。

その言葉に阪口医師の笑顔が消えた。


合同カンファレンス:

 麻衣子が救急入院した日の夕方、全ての検査結果が出揃い、岡教授を中心とし関係スタッフのみの合同のカンファレンスが召集された。

「これだけの面子が、この様なケースで集まる事が無い方がよかったですね」

いつも明るい岡教授が残念そうな苦渋に満ちた表情でカンファレンスの口火を切った。

主治医の阪口医師から経過報告がなされシャウカステンには画像検査や内視鏡の写真がプレゼンテーションされた。妊娠の事もあり、放射線検査の画像診断は最低限の項目に絞られていた。

出席したスタッフは皆、改めて病状の重症性について再認識させられた。

「この内視鏡検査の写真のこの部分…、幽門側にかけてのここですけど、腹腔内から確かに妊娠子宮によって外部より圧迫されて引き伸ばされているような所見を呈してはいますが、再度詳細に見直してみますと壁の伸展性が悪いようにも見えます」

阪口医師の説明に、全員が立ち上がりシャウカステンの前まで来ると顔を近づけ指摘された部位を確認していた。

「スキルスもあるのかね…?」

岡教授は腕組みをし、スタッフが席に戻るのを待って発言した。

「可能性は…、高いと思います。しかし、この出血潰瘍性病変があまりにも目立っていて、しかもウテルス(子宮)の外部圧迫も重なっていて直ぐには確定できませんでした。でも…、確かに圧迫を受けていない胃壁の伸展性も悪いような感じがします…」

「女性ホルモンの関係からも、妊娠合併胃癌の進行は思ったよりも早いんだ。時々、学会でも報告されている」

「ご指摘の通りです、教授。いくつか文献検索いたしましたが、妊娠合併胃癌の予後は一般に不良とされ、その原因のひとつに女性ホルモンの影響も示唆されています。

また、スキルス癌の合併が多いのも特徴のようです」

そう説明しながら、文献検索した配布資料をそれぞれのスタッフに手渡していった。

「この資料はボウルマン型の胃癌の合併した妊娠症例ですが、考察では確かにスキルス型の合併が多い事、予後不良である事が触れられています。

妊娠の場合、妊娠悪阻と誤診されたり、レントゲン検査が施行されていなかったり、発見が遅れる事もその予後不良の原因のひとつと考えられています」

「クランケ(患者)の訴えはなかったのかな。この潰瘍部分をみたら相当ストレスかかっていた事も想像されるしな…、可哀そうにな」

岡教授のその言葉に、日頃一番身近にいた岡本医師が俯き唇をかみ締めていた。

「それでは、治療方針ですが、基本的には帝王切開と胃癌根治術の同時手術となります。他の臓器への転移については出来る限りの検索をした上で再度検討いたしたいと思います。宜しくお願い致します」

阪口医師は深々と頭を下げた。何とか最悪のケースだけは避けたいという気持ちが皆に伝わった。

「全力を尽くすよ」

岡教授が一言、全員に向かって言った。それは、主治医グループの総意となる一言だった。


 母と娘:

 「お母さんごめんね。こんな事になっちゃって…」

「ううん…、そんなこといいから、休みなさい。麻衣子は、今まで一生懸命やってきたんだから…」

「あんなにお母さんの反対を押し切って、強がり言っていたのにね…」

麻衣子は、一人で必ず育ててみせる、自分の人生なんだから自分で決断する、と植村の子供を身ごもった後も堕胎手術を勧める母親の意見に反対し最後には我を通してしまった。

そして、その結果が今のベッドの上に寝ている自分であることに悔しさを感じているだけでは無く、母親に対する申し訳なさも強く感じていた。

結局、母親に迷惑をかけてしまったことに後悔した。

「あんたの頑固は、お父さん譲りだからしょうがないのかもね」

この場にはもう父親がいないことに寂しさと頼りなさを感じている母親の言葉だった。

「ごめんね…」

麻衣子は、自分ではどうしようも出来ないことが歯がゆかった。

「時々、自分の我の強さに自分自身が押しつぶされそうになるの」

「でも、それがあるから頑張ってこれたんでしょ…」

母親は麻衣子のこの状況を気持ちだけでも受け入れようとしていた。

麻衣子の弱気な気持ちを全て受け止めていた。

「ねえ…、麻衣子…」

母親は少し間をおいて言葉を続けた。

「お母さん…、その…、京都の植村さんって人に会ってもいいかな?」

「…」

麻衣子は黙っていた。

本当は会って欲しい。今までも何度も一緒に母親に会って挨拶をしたいと考えていた。

しかし、植村の立場も考え会ってはいけないと自分で判断していた。

不倫という俗っぽい言葉で片付けたくは無かったが、理由はそれだけであった。

「会ってほしいけど、こんな状況じゃ…、それに今回の病気の事、私…、まだ言ってないの」

麻衣子のその言葉に、母親はふっと笑みを漏らした。

「やっぱり、あんたは小さい時から同じね」

「何が…?」

「都合の悪いことはとことん最後まで自分で抱えちゃう…、頑固っていうのとはちょっと違うんだけど」

母親は、麻衣子の小さい時からの成長の思い出を頭の中で思い浮かべていた。

麻衣子の知らない自分の姿が母親の頭の中に沢山隠れていた。

麻衣子にも絶対に自分の子供を育てる母親としての喜びを経験して欲しかった。

それがどんな形で始まるにせよ、人の命がこの世に生まれてきて、その命を産み出し人として育てていくことが出来るのは女でしかないのだから。母親は、状況はどうであれ、新しい命を与えてくれた植村に対して感謝の気持ちさえ持ち始めていた。

まだ、顔も見知らぬ植村であったが急に身近な存在に感じられ、娘が本気で愛した男を自分の目で確かめてみたいとも思った。

「自分でもそう思う。最後はいつもお母さんが尻ぬぐいしてくれていたもんね」

「病気の事はどうするの…?伝えたら心配するだけかもしれないし、知ってその人がどうできるわけでもないし…」

「わかってるわ。言わないでおこうって私決めたの、ありがとう…、でも、お母さん。私にもしもの事があったら、お願いね」

全てを自分で背負い込んでしまおうとしている娘の健気な気持ちが痛いほど母親に伝わってきた。

娘の決心を大切にして出来るだけの力になってやろう、母親もそう決心した。

「大丈夫よ…」

「ありがとう」

二人にしばしの沈黙が流れた。

「植村さんのね、娘さんがいたんだって。私と同じくらいの、ちょっと下って言っていたかな。生きていたら…」

麻衣子がぽつりとまた話し出した。

「生きていたらって?」

突然切り出した麻衣子の話に母親はびっくりした表情で聞き返した。

「植村さん、私の事、娘の様にも思っていてくれたのかもしれない。私も、時々…、お母さんには悪いけど…亡くなったお父さんのような感じがする事もあった。

でも、その娘さん、二十歳の時に自殺しちゃったんだって…」

母親は麻衣子の話を聞いていて次第に身体が凍り付いていくような不安感に襲われた。

頭の中で絡まっていた記憶の糸が急速に解きほぐされ、自分の意志とは反対に無理矢理に過去の記憶の谷間へと引き込まれていくような気に捕らわれた。

真っ暗な深い記憶の奥底に一点ゆらゆらと揺れ動いている炎が麻衣子の母親の眼の前に映し出されてきた。

「お母さん、どうしたの?」

ソファーに座ったまま、ぼーっとうつろな表情になっている母親の姿に驚き、麻衣子は叫んだ。


ダブルオペレーション:

 産婦人科担当医との綿密な合同カンファレンスも行われ、麻衣子の帝王切開術と胃癌根治術の(ダブルオペレーション)同時手術が外科の岡教授執刀のもと行われた。

産婦人科教室からは川島教授が手術チームに参加しており、このスタッフで何かがおこってしまったとしてもそれはもう成す術がないと考えられるような優秀な手術スタッフが揃えられていた。

 

正中切開で切り開かれた麻衣子の腹部は開創器で大きく開け拡げられ、術者の視野に麻衣子の内臓器が全てあからさまにされた。癌に侵された胃を持ち上げるように大きく拡張した子宮が腹腔内を占拠していた。子宮の中の新しい命は母親の生命を脅かす癌に立ち向かっているかのように麻衣子の胃体を押さえつけていた。

岡教授は触診で内臓器の病態をチェックし始めた。

前に立っていた川島教授は岡教授の手の動きを凝視していた。

産婦人科医の教授と外科の教授が一緒の手術に入り同じ術野を診ることなど滅多にない。大学という組織の壁の厚い所では特に珍しいことであった。

「川島先生…、ここ…」

拡張した子宮底部と胃体部が接している隙間にそっと指を滑り込ませ触診していた岡教授の手が止まった。

川島教授も思わず顔をあげ岡教授と視線が絡み合った。

「これは…!」

助手として介助についていた若い外科医には二人の驚いた様子の意味が理解出来ないでいた。

岡教授はそっとその隙間から自分の手を抜き出すと間を置いて川島教授に目配せをした。

「ありがとう…」

川島教授は軽く会釈をしながらそう言うと、自分の右手を岡教授と同じように胃体の触診から始め、子宮底部との隙間にそっと指先を這わせていった。

「こんなこと…、あるんですかね?」

川島教授が、首をかしげて聞いた。

「いえ、私も初めてです」

岡教授が静かに答えた。

スキルスの癌に侵された胃壁は全体的に硬く進展性が失われていた。

胃の外側から触診しても解る位になめし革のように硬くごつごつしてしまっていた。

しかし、子宮底部と接触している部位だけは、癒着している事を予想してそっと指を差し込んだ二人の教授の予想を裏切り子宮壁の柔らかさと同じ位の弾力性を持って胃壁の柔らかさは保たれていた。しかも、その部位に一致した子宮底部では胎児の両足の動きと思われる胎動が激しく触診でもはっきりと感じられた。

何度も何度も蹴り上げているのであろう胎児の足の動きがしっかりと見て取れた。

母親の身体を蝕もうとする癌組織に抵抗している健気な胎児の気持ちが二人の教授の心を揺さぶった。

 その後は二人の教授は言葉も無くそれぞれに課せられた手術の役割を果たしていった。

一言も交わさずとも二人の手だけが粛々と生と死が混在する術野を動いていた。

器械出しの看護師も全く無言の二人の差し出される手の動きを見て的確に手術器具を手渡していった。

手術場の全ての動きが何かに支配されているようであった。

帝王切開により胎児が娩出された。

その産声によって手術場の空気が切り裂かれた。

岡教授の額からどっと汗が流れ落ちた。一ミリ単位のリンパ節の転移も許さない完璧な手術であった。

「やれることは全てやった。後は神に祈るだけだ」

岡教授のその言葉に、助手についていた外科医だけでなく手術場の看護スタッフも一瞬驚いた。

自分の腕を信じる岡教授は今まで、決して神がかりな言葉は発したことがなかったからだ。

「ありがとうございました。いいオペに立ち会わせて頂きました」

産婦人科の川島教授が深々と頭を下げた。

 

術後の経過は母子ともに順調であった。特に、未熟児で生まれた赤ちゃんの方は元気にミルクも摂取し、みるみる育っていった。元気な女の子だった。

保育器を通しての面会でまだ麻衣子は自分の手で我が子を抱けないでいた。

「おばあちゃん…」

麻衣子は母親にからかうような口調で言った。麻衣子は、母親になった。


再会:

「藤本君…、まさか、麻衣子の相手があなたとは…」

麻衣子から、まさかの時には連絡をして欲しいと言われて聞いていた植村の携帯番号を控えていた麻衣子の母親は、麻衣子に内緒で植村に連絡を取り、一人京都に来て植村と会っていた。

 麻衣子の人生であり、母親の自分がのこのこと出かけて行って娘の人生に関わる必要はないと黙って受け入れていたが、手術前に病室で聞いた麻衣子の一言からその気持ちは一変した。

どうしても会って自分自身で確認したい事があった。

「びっくりしたのはこっちやわ…」

照れくさそうにタバコをふかしながら植村は言った。

河原町三条駅近くの鴨川沿いのスターバックスに二人は居た。

「元気そうやな…」

「あなたこそ…」

「シャンクレールはもう無くなったで」

「知っていたわ。娘から聞いた。私がよく行っていたこと、娘に話したことあったから。京都に一人で来たときに探したんだって…。でも、数年前に閉店したって教えてくれたわ」

「そうか…。二十歳の原点やからな…」

植村は何かを思い出し、ふっと眼を伏せた。

「娘さん…、何故?」

麻衣子の母親は植村に直接会って聞いておきたかった。

植村の娘の自殺に何故か自分も関わっているような気がしたからだった。

 植村の妻と麻衣子の母親は学生時代、京都の女子大学で同級生であった。

同じテニスサークルに属し仲も良かった。

植村の妻は大阪で父親が病院を経営している裕福な家庭に育ったいわば令嬢であった。

幼稚園から私学の学校に通い、大学は京都の女子大に入学した。

麻衣子の母親は決して裕福といえる家庭で育ったわけではなかった。

普通のサラリーマンの家庭に育った。京都に憧れ、親を説得して京都の女子大学を受験した。公立の高校に通っていた麻衣子の母親は、私学である京都の大学の学費と一人暮らしの生活費を全て親に頼るわけにはいかなかった。

様々なアルバイトをしながら京都での学生生活を送っていた。

ある居酒屋のアルバイトをしている時に同じようにアルバイトに来ていた京大の学生と知り合った。

それが植村であった。

「娘のこと知ってたんか?」

「貴子から連絡あった。もう、葬儀も済んだ後だったけど…。私も、そのままになっていた」

「もう十年ちょっと経つんやな、俺は知らなかったわ、貴子があんたに連絡していた事は…、貴子も一言も言ってなかった」

「そうとう落ち込んでいたわよ、電話口で泣いてほとんど話せなかった。私の事思い出してくれたのは嬉しかったけど…」

自殺した植村の娘は麻衣子より少し下であったがほぼ同じ年代であった。

麻衣子の姿と重なり貴子の気持ちは痛いように伝わっていた。

学生時代のあの嫌な思い出は忘れてはいなかったが貴子の電話に心が痛んだ。

「高野悦子の本、俺の部屋にあったやつを持ち出して、明け方に電車に飛び込みやがった」

「二十歳の原点…?」

「ああ…」

「私もあなたに教えて貰ったわね、その本。時代は変わっているのに…」

「嫁は…、恭子をどうしても医者にしたかったんや。俺が、なられへんかったから、女の子やったけど、小さい頃から絶対医者にするとそりゃ厳しく勉強させていた」

 植村は貴子との結婚生活の事や娘の事をポツリポツリと話始めた。

跡取りのいなかった貴子の父親は医者になるのだったらと植村と貴子の交際を認めた。

植村が京都大学三年生の時であった。その時既に貴子は恭子を身ごもっていた。

もう既に堕胎の出来ない時期になり二人は親に交際を打ち明けたのだった。

娘に期待を裏切られ最後に出した条件が植村の医学部受験だったのであろう。

京都大学の経済学部の三年生であった植村は、勉強はできたがさすがに文系の勉強しかしていなかったので理系の、特に苦手とする数学等は全く歯が立たなかった。

結局三年間の受験勉強の成果もなくことごとく全ての医学部への入学を拒否されてしまった。

「赤ちゃんができたから…、私と突然に別れようって言ったのは…」

「それもある…、でも…」

麻衣子の母親は植村の言葉を待った。

大学一年生の時のアルバイト先で知り合った二人は次第に好意を寄せ付き合うようになった。

そして、サークル仲間や植村の友人関係との飲み会を通じて植村貴子とも知り合った。

何人かのグループで遊びに行く時などは植村と麻衣子の母親が交際をしている事は周囲も認めている事であった。

「藤本君…、貴子とは何時頃から?」

知ってどうなるものでもない質問を麻衣子の母親はひとつひとつした。

若い時のプライドでは聞けなかったことを聞いた。真実を知っておきたかった。

「大学二年の夏、あの時の大文字の日…」

「あの時、私はどうしても変われないバイトがあるからって、残り火でもいいから一緒に見ようって…、それこそ、この三条河原の前で待ち合わせたわよね…」

「あの時、実は…、貴子と会ってたんや。貴子が、大文字を見たことがまだ一度も無いって言っていたから…」

麻衣子の母親はふっ、と肩の力が抜けた。

「あんた、火を見ると盛りがついちゃう訳…?」

少し呆れた顔つきで麻衣子の母親が言った。

植村は照れくさそうに笑い誤魔化した。

 麻衣子の母親は、植村と貴子の関係は全く知らなかった。

そして突然、貴子が身ごもった事、大学を辞める事を打ち明けられ別れ話を切り出された。

「お金?」

今になってふとそう思い聞き返した。

「…、それもあったかと思う。俺は貧乏学生だったから、貴子のような金持ちの娘にコンプレックスを持ってたんやろな…、今にして思えば…、そんな生活に憧れのようなものを持っていたのかもしれへんな」

植村はあっさりと認めた。

麻衣子の母親はそれも仕方のない事と思った。当時の憎悪は全く消えていた。

 医者になれなかった植村はそのまま妻の実家の病院の事務職になり、跡取りの無かった植村の妻の実家は植村(旧姓藤本)を養子に受け入れた。

「最初、植村って名前を麻衣子から聞いた時には全く気づかなかったわ。植も上下の上の方のうえと勝手に思っていたから貴子のことも全然想像もしなかった…」

「そりゃ当然やろ、まさかな…」

「それで、貴子は元気にしているの?」

「ああ、元気やで。そりゃ、一時期は落ち込んでいたけど、結構立ち直りは早かったで…。でも、それは俺が勝手に思っているだけかもな。下の男の子、長男やけど、お姉ちゃんの時とは全く違って優しく接していた。まあ、俺の責任もあるけど、お姉ちゃんの方には、親のエゴっていうか、気持ちだけが優先してしまって、結構厳しく当たっていたもんな」

「何故…、医者の家の子は医者にならないといけないんだろうね…」

麻衣子の母親の言葉に植村はふっと笑った。麻衣子の母親もつられて笑った。

自分の言葉なのにちょっと可笑しいなと思った。

「けどな、お姉ちゃんの事があってから、俺と嫁はほとんど家庭内別居状態なんや。長男が医学部に受かってからは、俺の役目はもう終わっちゃったみたいや…」

「ふうん…、人生いろいろね。ざまあみろって言っておくわ…」

「ほんまやな…。いま、あいつはうちの病院の脳外科の医者と付き合うとる。ほんまに俺はいい様やわ」

私と一緒になっていたらこの人は幸せになっていたのだろうか…、と自問し直ぐに、それはわからないと答えを出していた。

「でも、今は結構ハッピーやで。こうして恵ちゃんとも再会できたし…。麻衣ちゃん…、ちょっとあんたの前では言いづらいけど、元気にしているんやろ。

ちょっと前のメールでは元気な赤ちゃんも…」

植村はそこまで言って麻衣子の母親の表情がちょっと曇ったのに気づくと言葉をとぎらせた。

「ごめん、やっぱりまずかったかな…、こんなの…」

「ううん。そうじゃないの」

植村は、突然麻衣子の母親から連絡があった時は、やっぱり自分の行動の問題に訴訟でも起こされるのではないかと心配した。しかし、あまりにも偶然な麻衣子の母親との再会に驚きと嬉しさで自分のしてしまった状況に全くの罪悪感などは持っていなかった。

「藤本君、実はね。私、今日は麻衣子には内緒でここへ来ているの」

「…?」

「やっぱり、麻衣子からは何も聞いていないみたいね」

「えっ、何かあったんか?産後の状態かなんか悪いんか?」

「ううん。麻衣子ね…、出産、帝王切開でなんだけど、その時に同時にね、胃癌の手術もしたのよ」

麻衣子の母親は、言葉をかみ締めるようにしてゆがんだ表情で植村に報告した。

口に出したら病気を認めてしまうような気がしてずっと心の中に留めておきたかった。

「えっ?だって、麻衣ちゃん、まだ三十過ぎたばかりやろ」

「でも…、若い人にも胃癌はあるんだって…」

「手術は?」

「上手くいったわ。外科の教授も、産婦人科の教授も手術に入ってくれたの。

こんな、スタッフがそろう事はめったに無いって、看護師さんもびっくりしていた…」

だから、麻衣子の命はもう大丈夫なんだと言いたかった。

「まだ、入院しているんか」

「うん。それでね。残念なことにね、外科の岡教授からの説明なんだけど、腹腔内のリンパ節にも結構転移していたんだって。勿論、できる限り取り除いてくれたらしいんだけど…、予想では、間違いなく骨や肝臓や、全身に癌細胞は散らばっているだろうって…」

「そんな…!」

「麻衣子も医者だから、自分の事はもう気づいているだろうし、でも、あの子、絶対に自分の口からは癌という言葉は言わないの…」

麻衣子の母親はそっとハンカチで涙を拭った。

「ごめん。知らなかった」

植村はテーブルの上のコーヒーカップに視線を落とししばし考え込んだ。

「なあ、会いに行ってええか?」

「…」

麻衣子の母親は即答しなかった。本当は麻衣子に会ってやって欲しいと思い自分が植村を連れてくるつもりで麻衣子に内緒に京都にやって来たのであった。

しかし、麻衣子の一人で耐えている姿を毎日、目の当たりにして自分が勝手に事を進めてしまって、返ってそれが今の状況のバランスを崩してしまい、みんなの、特に麻衣子や植村の気持ちを踏みにじる事になってしまうかもしれないと、麻衣子の母親は心の中で葛藤していた。

「あなた達、二人の事だから、それに、あなたの家庭のこともあるし、私が勝手に決められないの、でも、もう麻衣子の命は…」

大粒の涙を流しながら言葉に詰まって麻衣子の母親は俯いたままじっとしていた。

「わかった。今日直ぐには横浜に行くことは出来ないけど、何とか時間を作って麻衣ちゃんに会いに行く。な、俺がそっちに行ってもええやろ、な」

麻衣子の母親は、大粒の涙を流しながら、「ありがとう…」と小声で頷いた。


病室:

数日後、植村は麻衣子が入院している大学病院にお見舞いに来た。

麻衣子の母親が京都まで自分を尋ねてきたことは麻衣子には打ち明けていなかった。

出産後植村との数回のメールのやり取りをしていたが未だ自分の病気のこと手術のことについては打ち明けていなかった。しかし、赤ちゃんが保育器の中ではあったがしっかりと育っていくのを確認して少し安心した麻衣子はある日メールで自分の病状と手術のこと、そして癌細胞はもう既に全身に転移している可能性が高く予後は不良であろうことを植村に伝えた。

麻衣子も充分に理解をし、自分からは主治医の説明以上の追及はしなかった。

何度もメールには、自分も会いたいし赤ちゃんにも会って欲しいと打ち込んでは、直ぐに会うことはできない、と訂正していた。

「取りあえず行く」

電話口での少し強引な植村の態度に麻衣子はそれ以上の否定はしなかった。

植村の方から強引にでも会いに来てくれるというのであればそれを拒む理由は少しも無い。

「身体、大丈夫か?」

植村の気遣いに麻衣子の眼から涙が流れ落ちた。

麻衣子は唯、植村に会えるということだけで嬉しかった。母親が植村に会っていたことなどは全く知らず、当然、昔の植村と母親との関係など知る由も無かった。

麻衣子の母親は、植村に対して自分達の過去のことだけは絶対に麻衣子には知らせないで欲しいと念を押していた。

 

 植村は、土曜日の午後、藤島師長に案内され病室に入ってきた。

治療食の病院食をすませた麻衣子は、ベッドに横たわりそっと身体を休めていた。

麻衣子の母親はベッドサイドのソファーに座り雑誌を読んでいた。

植村が病室に入ってくるのに気づくと、麻衣子の母親はすっと立ち上がり深々と頭を下げた。

「植村と申します」

植村も病室のドアーのところに立ったまま深々と頭を下げ、挨拶をした。

麻衣子はベッドに横になったまま、顔だけを向け二人のそんなやり取りを可笑しく眺めていた。

「お母さん、植村さん」

「…」

母親は、麻衣子の言葉に黙って何度も頷いた。

「藤島師長さん…、」

お辞儀をして病室から出て行こうとする藤島師長を呼び止めた。

麻衣子は、身体を起こし、ベッドの上に座ったままにっこり微笑み、藤島師長に向かって、

「これが、私のパートナー。結婚を前提にできないお付き合いの人。

そして、あの子のお父さん…」

と、意地悪そうに言った。会えた喜びをそんな言葉で誤魔化していた。

「麻衣ちゃん…、」

母親は、びっくりして嗜めた。

「はじめまして…」

植村は藤島師長に対しても丁寧に挨拶をした。

藤島師長は、麻衣子に視線を向け、よかったね…、と口元だけを動かした。

麻衣子は本当に満面の笑みを見せて頷いた。

「えらい、おっさんでしょ…」

「いえいえ、ちょっとだけです」

植村は負けじと切り替えして言った。

「これ、病棟の皆さんで食べて下さい」

と言って、手土産の京都名産のおたべを藤島師長に手渡そうとした。

受け取るのに躊躇する藤島師長に植村は無理やり紙袋を手渡した。

「病棟を持ち歩きにくかったら、後で私がもって行きますから、師長さん、受け取っておいて…」

「ありがとうございます」

「気を使っているようで、気が行き届いていないでしょ、この人…」

照れ笑いをする植村に再度挨拶をして藤島師長は病室を出て行った。

「すみません。失礼なことばっかり…」

母親は恐縮して植村に椅子を差し出し、お茶を出した。

「あの…、いろいろすみません」

「いえ、私は詳しくは…、もうこの子も大人ですから、任せてあります」

植村は、差し出されたお茶を一口、口に含みごくりと飲んだ。

「よかったです。思ったより元気そうなんで…」

「でも植村さん、遠いところ来てくださって本当にありがとうございました」

「よかったね、麻衣子」

「うん」

「私、師長さんのところに植村さんのお土産、渡してくるね」

麻衣子の母親はそう言いながらお土産袋を持って病室を出て行った。

ドアーが閉まる音を確認すると、麻衣子は手を植村の方に差し伸べた。

「ありがとう、家の方大丈夫なの」

「そんな心配はいいよ」

植村は麻衣子の頭をなでながら、

「良く頑張ったな」

と笑顔を向けた。

「赤ちゃん、もう会った」

「いや、俺一人じゃ勝手に見られないやろ…」

「会いに行こう、あなたの子供よ」

「複雑な気持ちやな、何か…」

照れくさそうに植村が言った。


麻衣子は車椅子に移り、植村に押してくれるよう頼んだ。

「えっ…?」

植村は照れくささから一瞬躊躇ったが麻衣子の真剣な眼差しに直ぐに承諾した。

麻衣子にとっても植村に車椅子を押して貰って病院の中を移動する事は勇気がいることだった。

興味本位の視線を受けるだろうことも予想されたからだ。

しかし、麻衣子は自分に言い聞かせていた。

寿即辱多=生きながらえばすなわちはじをかくこと多い。それならば自分は、人接辱楽=人と接していく中で辱をかくことを楽しんでいこう、と。

これは、以前植村から貰った手紙に書いてあった言葉であった。

この言葉が必要になる場面に遭遇する度に自分は今生きている、という事を再認識できた。

「寿即辱多、でしょ」

今度は反対に麻衣子が植村にこの言葉を言った。

「そうやな…」

植村はにっこり笑って車椅子を押し始め、病室を出た。

新生児室に向かう迄の廊下で何人もの顔見知りのスタッフとすれ違った。

最初は照れて愛想笑いの挨拶をしていた植村であったが、次第に植村が麻衣子の車椅子を押していることが何の違和感もなく周囲の眼に映ってきた。

二人にとっては、これがバージンロードであるかのようであった。

麻衣子には、こんな形でも植村と一緒に自分の知り合いの前に堂々と居れることが嬉しかった。


新生児室:

新生児室の入り口に着いた。

麻衣子は一瞬振り向き、植村の手を握りしめた。

「いいの…?」

「ああ、ええよ」

「ありがとう…」

麻衣子は眼に涙をうっすらと浮かべ植村を見つめた。

植村は黙って頷いた。

インターホンで名前を告げ、スタッフの返事を待った。

「あらっ、麻衣子先生!」

扉の所まで出てきた看護師は、麻衣子とも仲の良い森川看護師だった。

看護学校卒業して最初に赴任したのが、麻衣子も勤務していた循環器病棟だった。

藤島師長の二年後輩であった。今は、新生児室の主任ナースになっていた。

麻衣子の顔を見て嬉しそうに応対に出てきた森川主任は、車椅子の後ろに立っている植村の姿に気づくと、

「あっ、先生、こちら…」

とちょっとびっくりした表情で姿勢を正し、麻衣子にそっと聞いた。

「よろしくね。あの子のおとうさんです…」

麻衣子は気恥ずかしくもあり嬉しくもあった。

森川主任の眼には、麻衣子の表情は本当に幸せそうな表情をしているように映った。

「改めて、おめでとうございます…」

森川主任は、麻衣子の耳元に小声でそっと呟いた。

「ありがと…」

麻衣子は、森川主任の手を握りしめた。

「先生…、先程、小児科の南澤先生の回診が終わったばかりです。順調ですよ…」

「よかった。私の方が頑張らないとね…」

森川主任に案内され、二人は我が子が眠る保育器の前に来た。

仰向けに寝かされ、眼をつぶり、口元をもごもごさせながら両手両足を動かす姿を二人はじっと見つめた。点滴類をはずされ、モニター心電図の電極だけになりすっきりした姿に麻衣子は安心した。

「不思議やな…」

植村がぽつりと言った。

「名前考えないと…」

麻衣子が答えた。

「先生、どうぞ、いま面会出来ますよ」

森川主任が保育器の開け、直接触れることが出来るようにしてくれた。

植村と麻衣子は顔を見合わせて微笑んだ。

「頭なでてあげて…」

麻衣子が言った。

「あ、ああ…」

植村はぎこちない手つきでそっと保育器の中に自分の手を入れると慎重に赤ちゃんの頭をなでた。

「ありがとう…」

植村は麻衣子の母親から麻衣子の手術経過について聞いていた。

麻衣子の胃壁の一部が癌に侵された部位が軽度であった話も聞いていた。

一生懸命闘ってくれたであろう自分の子供に対して感謝した。

震える手のひらがそっと頭の産毛に触れただけだった。

長い長い時間が繋がっている様な気がした。

遠い遠い過去からほつれていた糸がやっと一つに繋がってくれたような気がした。

「もっと、なでてあげてよ」

「ああ…」

植村も目頭を赤く腫らし今にも泣き出しそうであった。

保育器の中で眼をつむり手足を動かしていた赤ちゃんの目が大きく開きのぞき込む二人の方に視線を向けた。その済んだ瞳に二人は引き込まれそうになった。

麻衣子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。悲しくてではなく、ただ嬉しいだけでもなかった。

自分がこの世に生きている実感を眼の前の小さな人間を通して感じていた。

「きょうこ、にしよう…」

麻衣子の頭にふとその名前が浮かんだ。

「えっ?」

「ううん…、そうしよう。この子の名前…」

麻衣子には、植村の躊躇いの意味は解っていた。しかし、それ以外に麻衣子には思いつかなかった。

「京都の京。ちょっと安易かな?」

戯けて言っているが、麻衣子の気持ちが植村には痛いように伝わってきていた。

麻衣子には全てが解っているのかも知れない、植村はそう思った。

「私だってね、やっぱり、女だから。自分の子供をこの手で抱いてみたかったの…」

そう言っていた麻衣子の涙顔を思い出していた。

「うん、ええよ。お母さんにも聞いとこうな?」

「うん…。京子ちゃん、あなたの名前が決まったわよ」

麻衣子は、保育器の中の赤ちゃんに話しかけた。

「きょう…、こ」

植村は必死に涙をこらえ、名前を口に出そうとしたが言葉にならず麻衣子には聞き取れなかった。

「いい…、よね」

麻衣子は植村の眼を見ながら言った。


見送り:

まだ外出許可の出ていない麻衣子は、植村を病院玄関のロビーまで見送った。

「麻衣子、それじゃ、お母さん、植村さんをタクシーの所までお見送りしてくるね」

「ありがとう、お願い。植村さん、今年の夏、絶対に行くね。京子も連れて行くね。

時間作ってね」

「ああ、でも無理しなや」

「うん、わかってる。でも、行かなきゃ…」

麻衣子の母親は、二人から少し離れたところで待ち、麻衣子の表情をずっと見つめていた。

時々伏せ目がちになる悲しそうな表情を麻衣子は見せた。

努めて明るく振舞おうとする麻衣子の気持ちがわかるだけに余計にその表情が痛々しく母親の目には映った。

「それじゃ、行くわ」

それが植村の癖なのであろうか、麻衣子の頭をなでながら言った。

「お母さん、お願い」

麻衣子の声に母親は近づいていき、植村を病院玄関のタクシー乗り場まで案内した。


病院の外に出て、植村と麻衣子の母親は二人になった。

周囲に誰も居ないことを確認して、麻衣子の母親は植村に向かって、

「藤本君。来てくれてありがとう。今年の大文字、麻衣子の調子が良かったら連れて行くわね。私も、赤ちゃんの付き添いで行かせて貰うわ。

いえ、行けるようになるといいけど…」

と、話しかけた。

「ああ…」

「ありがとう」

「何度もええよ…。本当に礼を言わなくちゃいけないのは俺の方なのに…、子供、京子のことは俺も何とか考えるし…」

「いや、そんなことじゃないの」

「…」

「麻衣子に、新しい命を与えてくれたことに本当に感謝しているの」

「いや…」

丁度その時、迎えのタクシーがやって来た。

乗り込む上村の腕に麻衣子の母親の指先が一瞬触れた。

そのまま強く握り締めていてくれれば自分もこのままここに入れるのに、

と思いながら荷物を後部座席に投げ込み、自分も乗り込んでいった。

植村の想いとは裏腹に、何の抵抗も無くドアーは閉められた。

麻衣子の母親は何も言わず、黙ってタクシーを見送った。


京都タワー:

四年目の夏を迎えた。京都祇園祭りは、山鉾の巡業で祭りのピークを迎え、コンチキチンの鐘の音とともに蒸し暑い夏がまた京都にやって来た。

術後の状態は良好で、麻衣子は七月の初め頃には自宅療養が許され退院した。

すっかりやせ細り、体力的にも落ちてしまった麻衣子であったが、退院後はリハビリのつもりで週に何回かは大学の医局に顔を出し、他のスタッフの資料整理等デスクワークや外来業務を手伝ったりした。京子の存在が麻衣子の気力を支えていた。

「麻衣子先生、無理しないで下さいね。時々は看護師の仕事も手伝って貰いますよ」

と、病棟にいる時には必ず声をかけてくれる藤島師長も麻衣子にとっては励みになった。

「今度は、私が傍にいてあげますよ」

と、藤島師長に言われた時には気持ちだけではなく身体も軽くなったように感じた。

自分が病気をしていた事を忘れることが出来た。

自分ひとりだけだったら家でごろごろしていても時間は勝手に過ぎていってくれる。

「自分で、自分で、って。どれだけのことが出来ていたんだろう」

そう何度か自分に言い聞かせていた。

京子のためにもこの夏にまた大文字を見にいけるだけの体力の回復をしないといけない。

もう自分ひとりだけの大文字ではなくなってしまっていた。麻衣子は必死に身体を動かし運動療法をし、必死に食べ、栄養を摂った。

子育ての大変さも実感した。

女だから。自分の子供をこの手で抱いてみたいの…。その願いは叶った。

「私にもあなたの生命力を少し分けてね」

麻衣子は、京子を抱きかかえ自分の乳首をその口に含ませながら話しかけた。

貪るようにお乳を飲む我が子の姿に人間の生命力を感じた。

「私はこれから…、癌と一緒に生きていかなきゃいけないのかあ…」

そんな事を考えながら麻衣子は、京子に子守唄を口ずさみ眠りにつかせた。


 生温かい空気がまとわりつくような、そんな蒸し暑さが京都の夏だった。

祇園祭の熱気もまだ京都の町全体を覆いつくしているかのような蒸し暑さであった。

麻衣子と母親、そして麻衣子に抱かれた京子の三人が新幹線から京都駅に降り立った。

「よかった。来れた」

京都駅のプラットホームに降り立った瞬間に、麻衣子は思わずそう言葉を発した。

麻衣子の母親も今までとは違った、新鮮な気持ちでこの京都駅のプラットホームに立っていた。

「麻衣子、大丈夫?疲れてない?」

「大丈夫よ。横浜からなら京都まで2時間ちょっとでしょ。こんなに近いのかと改めて思ったわ」

「京子ちゃんも大人しく寝ていたしね…」

京都の駅ビルの中にあるホテルのロビーで少し休憩をとった後タクシー乗り場に向かった。

「麻衣子、ちょっと見て。京都タワー…、あんなに高かったっけ」

麻衣子の母親はタクシー乗り場から、京都駅前の道路ひとつ隔てたビルにある京都タワーを見上げて驚いていた。麻衣子も母親と同じ視線から目の前の京都タワーを見上げてみた。

今まで京都に来た時でもこんな風にして京都タワーを意識した事はなかった。

あまりにもありふれた京都のシンボルタワーなだけに余計目に留まらなかった。

「わあ、すごい」

真青な空を突き刺すようにそびえ立つ白い塔に今まで気づかなかった驚きを覚えた。

母親と自分とそれぞれの想いの中にばらばらに存在していた京都が同じ価値観を持ってひとつの存在になったような気がした。そこに娘の京子がいた。

夕方、宿泊先のホテルのロビーで植村と待ち合わせをしていた。

河原町通りは昼過ぎであったがもう人でいっぱいだった。

今年は左大文字を観る約束をしていた。母親は東山の大文字を見たいのではないかと気を使ったが、植村さんと麻衣子の約束であり、自分は孫のお守に付き添って来たのだと麻衣子のわがままを聞いてくれた。

夕方までの数時間、左大文字を観る通りの近くでもある金閣寺に三人で立ち寄ってみた。それは、母親から言い出したことであった。


金閣寺:

大文字の為に全国から大勢の観光客がやって来ていた。この日は海外からの観光客も多く、ここ金閣寺の庭園にも海外からの外国人観光客がひしめいていた。

「お母さん、そこに居て…、京子を抱いて…、そう」

麻衣子は、金閣寺をバックに京子を抱きかかえた母親を写真に収めようと必死であった。

記念撮影の好位置は直ぐに他の観光客が割り込んできていた。

「麻衣ちゃん、そこの人に撮って貰おう…、お願いしてみて…」

母親はカメラを構えようとする麻衣子にむかって言った。

麻衣子は、途中まで構えて隣で自分達の撮影が終了するのを待っている観光客にシャッターを押して貰うようにお願いしてみた。

「はい、いいですよ」

と、その男性観光客は快諾してくれた。

「いいよ、お母さん、抱いていて…」

麻衣子は、京子を渡そうとする母親を制して二人を抱きかかえるようにした。

三人が顔を寄せ合うようにしてカメラの方を向いた。

夕暮れの日射しが池の水面に反射し、金閣寺の姿を浮き立たせていた。

カシャ、っとほんの一瞬シャッターが切れる間、麻衣子の母親はかつてこの同じ場所に立ち、金閣寺をバックに記念撮影をした自分を思い起こしていた。


「どうもありがとう、今度は僕がシャッターを押しますわ」

その時、自分の隣に居たのは京大の学生だった藤本だった。

その時麻衣子の母親は今と同じように、

自分を撮ってくれる藤本がカメラのシャッターを押そうと構えた時に、隣に待っている観光客にシャッターを押して貰い二人の写真を撮って貰っていた。

一緒に映っている麻衣子の横顔が一瞬若いときの藤本の横顔に重なって見えた。

麻衣子を通して母親は、藤本の存在を無意識に感じていた。

その時、母親は京子の身体を強く抱きしめていた。

「お母さん…?はい、もういいよ、私、京子抱くから…」

写真を撮り終えても京子を抱きかかえたままでいる母親に向かって麻衣子は言った。

「あっ、お願い…」

母親は抱きかかえる力を緩め、京子を麻衣子にそっと手渡した。

雪景色の金閣寺。二人が始めて結ばれた日を母親はそっと思い起こしていた。


左大文字:

「遅くなりました」

植村が息を切らせて、待ち合わせのホテルのロビーにやって来た。

大文字の点火までに数分しかなかった。

「遅い!」

麻衣子は、ほっとしながらも語気を強めて言った。

「ごめん、ごめん。車が渋滞してしまってて」

植村はソファーにも座らず直ぐに麻衣子達を案内した。

「東山の方はいっぱいやわ、観光客で…」

汗を拭いながら左大文字の見学場所に案内した。

「こっちは、結構、地元の人達も多いけど、観光客のほとんどは東山に行ってるから、少しは身動きがとりやすいですわ」

「京ちゃんもいるから、ゆっくり行ってね」

麻衣子は、しっかりと京子を抱きかかえ植村の後について行った。麻衣子の母親は、そんな二人の後を黙って追っていった。

「ここや」

植村が立ち止まり、どっと流れ落ちる汗を拭いながら笑顔で言った。

西大路通りの衣笠街道、金閣寺の近くのある空き地に着いた。

そこでは観光客は少なく、周囲に居る見学者達はほとんど地元の人達だった。

「ここが、左大文字を見学する絶好の場所、って地元の人に聞いてきた」

嬉しそうに、自慢気に植村は言った。

麻衣子の母親はそんな植村の笑顔に頷いた。

病院のベッドに寝ている時は、まさか今年の大文字が観られるとは思ってもいなかった。

今年は諦めていた。しかし、今年を諦めると言うことはもう来られないかも知れない。

途切れてしまう事の不安を強く感じていた。

だから、麻衣子は本当に嬉しかった。今ここに、こうして、植村とまた大文字の炎を見ることができることが。そして、そこには母親と、そして自分の娘が居る。

今までの植村との約束を繋げることができた事が麻衣子にとっては大切なことであった。

「うわー!」

拍手と共に、眼の前の左大文字に火が灯された。

麻衣子に抱かれた京子は眼を丸くし、きりっとした表情でその左大文字の勇壮な炎を見つめていた。

済んだその瞳に映った左大文字の炎は京子の瞳に鏡の様に対照的に映し出されていた。

京子の瞳の中の左大文字の炎は東山の大文字よりも力強く激しく燃えていた。

三人の後ろ姿を麻衣子の母親はそっと眺めていた。

麻衣子の母親の瞳には、三十数年の記憶が幾重にも重なり、左大文字の炎と一緒に揺れ動いていた。


第五章:「鳥居形」曼茶羅山


麻衣子、一時的な復帰:

徐々にではあるが、心配していた麻衣子の体調も回復していった。

行く事ができないと思っていた京都、大文字に行けたことが麻衣子の気持ちを支えていた。

「麻衣子先生、調子良さそうですね」

ほとんど今まで通りの病棟業務もこなせるようになった麻衣子に藤島師長が声を掛けた。

「ありがとう。前より疲れやすくはなったけど、何とかみんなに迷惑を掛けないで済ませそうよ」

「よかったです、何か私達でできることがあったらおっしゃって下さいね」

少しやせた麻衣子の姿が気にはなっていたが、藤島師長は今まで通りに麻衣子と接した。

昼間の勤務中は京子の世話は麻衣子の母親がしていてくれた。

当直業務だけは、特例で外して貰って、日勤業務を全て今までと同じようにこなしていった。

自分が胃ガンの手術を受けた事など忘れてしまいそうなくらいに体調は良好であった。

家に戻り、京子の笑顔をみる事が日課になり、ほっとする気持ちになった。

「麻衣ちゃん、カテ検査の方もまた頼むよ」

「はい」

指導医師の岡本医師も、麻衣子の身体を気遣いながらも出来る範囲の仕事は今まで通りに麻衣子に依頼していった。

北山由美子の後継者として、不整脈グループの中心的存在になりつつあった麻衣子は、その不整脈検査での心電図の判定技術が高く評価されていた。

麻衣子が入院して休んでいる間は、北山由美子が出向先の湘南北部病院から招聘され麻衣子の代わりに心電図の判読を担当していた。

そんな、大学病院の忙しい毎日がまた戻ってきた。


しかし、年が明けた寒い冬の日であった。状況は一変した。

京子が眠るベビーベッドの横で眠っていた麻衣子は、上腹部の違和感を感じて眼が覚めた。

夜中の二時を過ぎていた。眠りについてからまだ二時間くらいしか経っていなかった。

「この前の定期チェックの胃カメラでは問題なかったのに…」

みぞおち辺りから背中にかけて鈍痛を感じて眼が覚めた麻衣子は身体の異変に気味悪さを感じた。

自分で考えられる限りの病状を推察してみた。

一ヶ月前に実施した定期チェックの胃カメラと一緒に撮影した腹部CTの画像も自分なりに思い起こしてみた。

「肝メタ(転移)も無かったし、腹部所見も…」

そう思い起こしていた時、腹部CT画像を一緒に読影していた放射線科の医師が腹部大動脈周囲のスライス画像を検索していた時にちょっと顔を曇らせていたのを思い出した。

しかしその時、その医師は、

「パンクレアス(膵臓)も大丈夫みたいですし、腹腔内のリンパ節も著変ないみたいですしね…」

と、明らかな異常所見を指摘はしなかった。

その時は、気むずかしい顔つきをしただけなのかなと思い気にも留めて居なかったが、夜中の不安も手伝って、急にその時の放射線科医師の表情が気になり始めた。

「あの後、なんて言いかけたんだろう…」

麻衣子の眼にも明らかな腹腔内リンパ節の腫脹等は認められなかった。

「アオルタ(大動脈)の辺を見ている時だったけど…」

様々な推察をした。結論が出ないまま、不安だけが増強していった。

自分はこんなにも弱気な人間じゃないと思っていただけに、余計に押さえきれない不安に自分をコントロールできなくなってきた。

上腹部の不快感は一向に鎮静せず、鈍痛は背中から腰の辺りにかけて拡大していっているような気がした。

過換気状態になり手足が硬直し、小刻みに震えてきた。

「お母さん!」

精一杯の力を込めて母親を呼んだ。麻衣子はその一言で力尽きたように布団の上にお腹を抱えて横たわってしまった。麻衣子の声にびくっと身体を震わせ、京子が眼を覚ましてしまった。

突然の母親の大声におびえるように京子は甲高く泣き叫んだ。

暗闇を引き裂くような京子の泣き声に麻衣子の母親は階下の自分の部屋から、麻衣子達の部屋に急いでやって来た。

「麻衣ちゃん…!?」

泣き叫ぶ京子の傍らで麻衣子が横にうずくまり身体を震わせながらうなり声を上げている。

麻衣子の母親は部屋の明かりをつけた途端に眼の前に飛び込んできた情景に腰が抜けるようにしてその場にへたり込んでしまった。

「お母さん、お腹が痛いの、背中も…、お願い。救急車を呼んで…」

大きな声で話すと何かが破裂してしまうような気がして麻衣子は苦痛に耐えながら息を抜くように小声で母親に言った。


救急センター:

けたたましいサイレン音を鳴らしながら救急車は神奈川大学医学部救命救急センターへと急いだ。

救急車のベッドに横たわりながらも自分の携帯電話から、大学の当直担当医師に自分の病状を告げた。

「篠原先生…、ですよね。私、横浜北部救急、救命救急士の黒木です」

麻衣子は気づかなかったが、心臓救急の時などよく大学の救命救急センターに救急患者を搬送してくる救命救急士の黒木だった。

何度も救急患者受け入れをしていて顔見知りになっていた。

患者搬送で救急車に同乗した時など、患者病状や心電図所見についてよく質問してくる救急隊員であることを思い出した。

今は、一般の救急隊では無く、救命救急士として重症患者の搬送業務や救急処置担当になっていたのだった。

「黒木さん…」

弱々しい声で答えたが、こんな時に知っている人間が傍に居ることは、麻衣子には本当に心強かった。

「もう直ぐ着きますからね、先生、頑張って下さいね」

黒木は麻衣子の心電図モニター波形を食い入るように見つめながら励ました。

「黒木さん…、血圧どう?」

「92の40,パルス(脈拍)122…、ちょっと…」

「ちょっと…、何?」

「ちょっと…、不整です」

黒木は、できるだけ悪い報告はしたくないという気持ちから一瞬、報告する言葉に詰まった。

「ありがとう…、助けてね」

意識が朦朧とする中、小声で応対するのがやっとの麻衣子は、うずくまりお腹を抱えたまま眼を閉じた。

プレショック状態であった。血圧も下がり、不整脈も目立ってきていた。

「きょう、子…、は…?」

譫言のように麻衣子は娘の名前を何度も呟いていた。


救急車が救命センターに到着すると、中から数名の医師、看護スタッフが駆け寄ってきた。

「早く!」

飛び出してきたスタッフのほとんどが何時も麻衣子と一緒に働いているスタッフ達だった。

皆、麻衣子が乗せられた救急車の到着を心配と不安な気持ちで待ち構えていた。

サイレン音が近づいて来た時には、全員が外に出ていた。

「血圧90台です。意識は、JCS一桁、少しダウンしています」

黒木は救急車から飛び降りるといち早くストレッチャーの前に回り、バイタル報告を大きな声で医療スタッフに伝えた。

数名のスタッフが慌ただしく救急初期治療の準備をしていた。

ストレッチャーから救命センター初期治療室の治療ベッドに移された麻衣子は瞬く間に点滴やモニター機器が取り付けられた。

「あっ、森先生…、すみません…」

麻衣子は薄れた意識の中で、一瞬、救命センターの森医師の顔を認識し話しかけた。

「麻衣子先生、心配なく。全力を尽くしますよ、先生に最初に救命センターでの研修の時、ヘルツ(心臓救急)を教えて頂いたんですから…」

森医師には、麻衣子の病態が非常に重篤であることが解っていた。

努めて冷静に麻衣子を安心させるように説明した。

呼吸状態も悪化して来たため、麻衣子は鎮静処置のもと気管内挿管処置を施された。

アンビュウバックによる補助呼吸を施行しながらレントゲン検査やCT検査に回された。

集中治療室に運び込まれた時点では、カテコラミン製剤の点滴や人工呼吸の補助呼吸により病状は小康状態を保っていた。集中治療室では直ぐに準備された多量の輸血も施行された。


岡本医師、北山医師到着:

既に、明け方近くになっていた。全ての初期治療を終えた集中治療室の個室内には、ピッ、ピッ、ピッ、と麻衣子の命を刻んでいる心電図モニターの音と数秒間に一回ずつ麻衣子の肺に酸素を送り込む人工呼吸器のシュー、という音が響いていた。それらの無機質な音も比較的同じリズムで刻んでいる事にスタッフの安心感があった。

薄暗く明かりを落とした部屋に、連絡を受け急いで来院した岡本医師と北山由美子が入ってきた。

二人は、鎮静剤で眠らされ様々な医療機器を身体中に取り付けられ眠りについている麻衣子を刺激しないようにそっとベッドサイドまで近づき麻衣子の顔を覗き込んだ。

「まあ、バイタルは落ち着いているみたいだな」

「…」

麻衣子の顔を見て少しほっとした岡本は小声で北山由美子に話しかけた。

うっすらと眼に涙をためていた北山由美子は黙って頷いた。

二人は麻衣子の顔色だけを確認して病室を出た。モニター画面が並ぶナースステーションに戻り、麻衣子のカルテを開いた。

「先生、これも…」

「ありがとう…」

夜勤の担当看護師が全ての病状、バイタル記録が記載されているICUチャートを岡本医師に差し出した。

「ラプチャー(破裂)なの?」

北山由美子は岡本に聞いた。

「腹部大動脈の裏側。スリット上になって亀裂を来たしていたのが徐々に拡大していったんだろうな」

岡本医師はCT画像をシャウカステンに掲げ一部分を指で指し示しながら言った。

「ここだろうな…」

北山由美子は、岡本医師が指し示す場所に眼をやった。

腹部大動脈の背側に境界が不鮮明なところがあり、そこを中心として後腹膜の広い範囲に血腫が広がっているのが観察された。

「でも、何故?この前のオペでは腹腔内のリンパ節も全て取り除けたんじゃなかったの?」

「ああ、岡教授のことだから切除できる範囲の病巣は全て取り除いたと思うよ。

でも、後腹膜や血管への浸潤の可能性は残るだろうって…、術後のカンファレンスでおっしゃっていた」

「術後のケモテラピー(化学療法)をやっても駄目なの?」

「そりゃ、人間の手に負えない部分だってあるよ。それは、あんたもよく分かっているだろう…、

くそっ…」

岡本は麻衣子の身体を蝕んでいる病魔に対してどうしようも無い怒りを向けた。

「オペは?」

「検討はしてみる事になるだろうけど、この全身状態じゃ厳しいな。

とりあえず血圧をコントロールして再破裂のリスクをとことん減らすことだろうな、今できることは」

「頭は?」

「鎮静させているから今は意識レベルがダウンしてるけど、自発呼吸もしっかりしているみたいだし、胸部のレントゲン写真でも大丈夫そうだから、朝には抜管できると思うけどな…。頭のCTも問題無かったみたいだし」

「抜管したら話せるね」

麻衣子の病態は、循環器内科が専門の自分達ではどうしようも出来ない病態で有ることを認識している二人は悔しさをかみ締めていた。

何かできるなら少しでも力になりたい。

腹部大動脈の背部で後腹膜に播種を来たしていた癌細胞は静かに麻衣子の身体を侵食していった。これまで、症状が現れなかったのが不思議なくらいであった。

麻衣子の生命力に期待するしかなかった。


母娘:

「麻衣子、どうだい…?苦しくないかい?」

呼吸状態が良好であった麻衣子は、直ぐに人工呼吸器だけは外す事ができた。

身体の何箇所にも点滴ルートやモニター機器の電極を張られている麻衣子はベッド上安静を保たなくてはならなかったが話す事だけは出来た。

「うん、大丈夫。ごめんね、こんなことになっちゃって、今回は…、きついな」

「あんまり心配しすぎないでね。今、あんたは病人なんだから、主治医の先生に任せておこう、ね。

岡本先生も北山先生も運び込まれた朝方早くに来てくれてたんだよ」

「話たかったな…」

「仕事の合間を見て会いに来るっておっしゃっていたよ」

「…」

「この個室も集中治療室の回復ルームを岡本先生が調整してくれたみたいなの。お母さんも付き添っていられるようにって…」

「また、迷惑かけちゃったね」

麻衣子はじっと天井を見つめていた。

「京子ちゃんは、良恵おばちゃんに来てもらってみて貰っているから安心して…」

「良恵おばちゃんにも長いこと会ってないな。こんな時だけ迷惑かけちゃうね」

麻衣子の母親の妹の良恵に京子の面倒は見てもらっていた。

麻衣子の母親も、麻衣子の命は長くはないかもしれないと察していた。

「お兄ちゃんは…?」

「…」

麻衣子は、数年前に自分達と音信不通になってしまった兄の事を聞いた。

兄は結婚をした後、全く自分達と会わなくなっていった。

時々あった麻衣子への連絡もぷつりと途絶えてしまった。

そして、兄は父親の葬儀にも顔を出さなかった。

それから麻衣子は母親に兄の事を聞くことはほとんど無かった。

母親は麻衣子の質問に口を閉ざしたまま返事をしなかった。

母と兄との間でしか理解できない深い溝が有ることを再認識した。

麻衣子もそれ以上は話を続けなかった。麻衣子の質問には答えずに、母親は、

「救急の時に救急車の中で、あの黒木さんっていう救急隊の方いたでしょ。

あの方がね、麻衣子のことを心配して勤務明けに病院にきてくだすったそうよ」

と、話題を変えた。

救急隊の黒木のお見舞いは素直に嬉しかったが兄の事について口を閉ざす母親の本心を聞いてみたいとも思った。こんな状況の中でも話す事が出来ない事があると思った。

母親はソファーに座り俯いたままじっと押し黙っていた。

また、麻衣子の命を刻む心電図モニターの音だけが集中治療室の個室に響いていた。

二人の間にしばしの沈黙が流れた。


その時病室の扉をノックする音が聞こえた。

母親はその音に直ぐに立ち上がった。

「篠原先生、岡教授の回診です」

集中治療室の師長や数名の外科スタッフを引き連れて岡教授が回診に入ってきた。

温厚な笑顔で、麻衣子に近づいてきた。

「どうですか?」

師長が差し出した聴診器を受け取り、麻衣子の腹部の診察をしながら聞いた。

「ありがとうございます。度々、迷惑おかけしてすみません」

「いえいえ、先生にはうちの外科もヘルツの事ではいつも助けていただいていますから…」

「どうでしょうか、私の身体…」

「朝のカンファレンスで、もう少し保存的に経過を観てから可能なら手術も考えようかということになりました」

「はい。ありがとうございます。ディセクション(解離)ですか?」

「腹部アオルタのスリット状の亀裂から徐々にラプチャー(破裂)を起こしたみたいですね。後腹膜に拡がっていました。幸い、現在は出血も止まっているので保存的に観て手術も検討しようということになりました。手術のリスクも非常に高いですし…」

「教授…」

「うん?」

「いえ…、宜しくお願い致します」

「循環器内科の若手のホープなんだからくれぐれも宜しく、と先生の教室の石井教授からも言われていますよ。全力を尽くしますのでね…」

岡教授はそう言って笑顔で挨拶をして部屋を出て行った。

岡教授が手術をためらっている事が自分の病状の重篤性を暗に示しているという事を麻衣子は認識していた。

「駄目かな…」

岡教授の表情を見て麻衣子は返ってほっとした気持ちになった。

不思議だが気持ちがすーっと落ち着いていくのを感じた。

何かにがむしゃらに向かっていった激しい感情も嘘の様に引いていってしまった。


「…、私、今…、幾つだったっけ…?」

麻衣子は、そっと眼を瞑り、心の中で自分の年齢を数えていた。

三十路を過ぎた女性が、両手を伸ばし空中に消え入る粉雪をつかもうとしている。

桜の季節に舞い散る粉雪にはしゃいでいる。そんな女性の姿が浮かんできた。

「私だ…。あっ、そうか…」

はしゃぐその女性を少し離れた所から一生懸命にカメラを向けてシャッターを押し続ける男性の姿も見えてきた。二人の姿が麻衣子の瞼の裏にくっきりと映し出されていた。


「麻衣子…、麻衣子」

母親の言葉にふと眼を開けた。

「大丈夫…? 麻衣子…。岡教授、もう出て行かれたよ」

「うん、わかっている」

麻衣子は、母親を心配させないように精一杯の笑顔を作り返事をし、また瞼を閉じた。

瞼の裏に映し出されてくる自分の姿が愛おしく感じた。

そこには何故か、娘の京子の姿は浮かんでこなかった。父親の姿も、母親の姿も。自分の姿だけが次から次へと思い出されてきた。


急変:

麻衣子の母親は、外科の主治医の岩崎医師から病状説明のためにカンファレンスルームに一人呼び出された。そこには岡教授と岡本医師も同席していた。

回診の時の医師たちの表情と違う堅い表情と重苦しい場の空気に麻衣子の母親は状況が思わしくないという事を悟った。覚悟を決めてはいたが、医者の口から聞かされるまでは自分では認めたくなかった。

「お母さん、残念ですが、手の施しようがない状態と考えます。

ある時期に一気に病状が悪化、進行したんだと思います」

主治医の岩崎医師が淡々と病状説明をした。

「勿論、手術適応…、特に、大動脈の解離に対してはステント、これは血管の内壁を保護する方法なんですが、それらも全て検討いたしましたが、リスク自体も高いと考えられますので断念せざるを得ない…と」

麻衣子の母親はひとつひとつの言葉に頷き、その度に涙を拭っていった。

「出産と癌の手術後、あんなに回復が早かったんで私達も現場への復帰をお願いしてしまったんですが」

岡本が苦渋に満ちた表情で言葉を挟んだ。

「無理をさせてしまったのかもしれません…」

「いえ…、お医者さんの仕事の事は私達にはわかりませんけど…、麻衣子は自分で判断したんだと思います。責任感も…、」

そう言ったところで言葉がつまり母親はそれ以上話す事が出来なかった。

しばし、沈黙の時間が流れた。

「すみません…。宜しくお願いします」

麻衣子の母親は膝の上でハンカチを握り締め俯いたまま、搾り出すようなか細い声で医師たちに懇願した。


「急いで!挿管準備して!」

麻衣子が緊急で病院に運び込まれて五日後の早朝であった。

明け方まで緊急入院等無く、静まり返っていた集中治療室内の雰囲気が一変した。

夜勤の看護師や呼び出された当直医師達が慌しく麻衣子の急変の処置にあたっていた。

「Vf(心室細動)!早く!DC(除細動器)持ってきて!」

「はい!」

救急カートの台の上には、何本もの注射器や薬品の空アンプルが散乱しており、必死の対応にも麻衣子の病状は改善せず急激な進行増悪を来たしている事がうかがわれた。

「チャージ、200J、OK? 行くよ」

当直の麻酔科医師も応援に来て、心臓マッサージを手伝っていた。

除細動器のパドルが麻衣子の胸にあてがわれ、ピーっという電気チャージの合図がなると麻酔科医師は、心臓マッサージの手を麻衣子の身体から外した。

その瞬間、ドウンっという鈍い音を立て麻衣子の胸に電気ショックが与えられた。

全員の視線が心電図モニター画面に向けられた。

ピッ、ピッ、ピッ、っと微かに自力での心収縮を示すモニター波形が現れた。

電気ショックを与えた医師は、心臓マッサージをしていた麻酔科医師と少しほっとした表情で顔を見合わせた。

「先生!」

心電図モニター画面を見ていた看護師が叫んだ。

一瞬であったが回復したと思われた心電図の波形が再度、不規則になり細かく波を打ったような波形に変化した。

麻酔科医師は直ぐに両手を麻衣子の胸の上に当て、全体重をかけるようにしてまた心臓マッサージを始めた。ボキッ、と鈍い音がして手の平にかかる抵抗が緩んだ。

「続けて!」

除細動器の再充電を待っている外科の当直医師は一瞬ためらう麻酔科医師を叱咤した。

麻衣子の胸郭の肋骨の何本かは心臓マッサージによる圧迫で折れてしまっているはずだ。

しかし、その時はそんなことよりも心臓の拍動を再開させるほうが先決であった。

未だ若い外科の当直医師と麻酔科の医師は何とか救命しようと必死であった。

同じことを何回か繰り返した。

「ボスミン追加して!」

傍に付いていた看護師たちの目からは大粒の涙が零れ落ちていた。

いつもは冷静に対応するベテランのスタッフ達も皆涙を流し、麻衣子の心臓の鼓動の回復を祈った。

「もう1回、300Jにして…」

そう言って除細動器の充電を指示した外科の当直医師の横から、

「荒井先生…、ありがとう…、もう…」

北山由美子だった。除細動器のパドルを両手に持って構えていた外科の当直医をそっと制した。

「もうフラットよ…、モニター。もうこれ以上は…」

全ての薬剤に反応無く、除細動の電気にももう麻衣子の心臓は反応する事は出来なかった。

「北山先生…」

その外科の当直医はすがるような目つきで北山由美子を見た。

北山由美子は丁度、駆けつけてきた岡本医師の方を見た。

岡本医師も状況を見て黙って頷いた。外科の当直医師は除細動器のパドルを握り締めたまま、力なく両腕をダランとおろしうな垂れた。心臓マッサージをしていた麻酔科の医師は、麻衣子の胸元から両手を外し、はだけた胸にシーツをそっと被せた。

「いやあー!麻衣子先生!」

ナースステーションの前でモニター画面を監視していた若い看護スタッフが泣き叫んだ。

皆、家族以上の気持ちで麻衣子の回復を祈っていた。

「岡本君…」

北山由美子は岡本医師に何か言いかけながら麻衣子の傍に歩み寄った。

穏やかな綺麗な顔立ちで麻衣子は息を引き取った。

享年三十三歳であった。

北山由美子は自分の手の平をそっと麻衣子の額にあてがった。

そして両手で麻衣子の顔を包み込むようにして支えると自分の額を麻衣子の額に合わせた。由美子の涙が麻衣子の両眼に零れ落ち、麻衣子の頬を伝って消えた。

岡本の目には麻衣子が涙を流しているように見えた。


「鳥居形」曼茶羅山:

麻衣子が緊急入院して三日後の事であった。

少し病状が落ち着いた時に、麻衣子は植村に携帯電話から連絡を入れていた。

勿論、病室での使用は禁止であったが、母親の携帯を借りて内緒で病室から連絡した。

植村には、病状を告げ、話すのがやっとの状態であることを伝えた。自分の気持ちを抑え、再起は無理かも知れないということは触れなかった。力の無いかすれた声でも敢えて元気を装って話した。

植村は、週末には見舞いに来る約束をしていたが間に合わなかった。

「ねえ、お母さん。ちょっと、聞いていい…?」

植村に電話連絡をした後だった。麻衣子は突然、ちょっと躊躇いがちに聞いた。

「なあに?」

「お母さん…、大学の時に京都にいたって、言っていたでしょ…」

「…」

「植村さんと会った事あるの…?」

「ううん、無いわよ」

「…、ありがとう」

それが、二人が植村の事を話した最後になった。


麻衣子は、皆の深い悲しみに見送られ享年三十三歳の人生の幕を降ろした。

その年の夏。京都広沢の池の畔に、一歳になった京子を抱きかかえた麻衣子の母親の姿があった。

夜の十時過ぎになり、五山送り火のひとつ、鳥居形の炎も暗闇の中に微かに揺れ動くだけで数箇所の残り火がその鳥居の形をようやくかたどるだけであった。

真っ暗な広沢の池の水面には青や赤や緑の色とりどりの灯籠が無数に浮かべられていた。

それぞれの淡い灯りは風に揺らされながら水面をさまよい交錯していた。

果たせなかった麻衣子の五山の送り火の想いを麻衣子の母親は京子と一緒に果たしてやろうと思った。

植村に連絡を取り、この場所に来て欲しいと伝えようと何度も考えたがその度に自分を制し連絡はしなかった。植村からの連絡も無かった。

京子は麻衣子の母親と手を繋ぎ、もの珍しそうに目の前にゆらゆらと浮かぶ灯籠を見つめている。

一瞬、水面を強い風が吹きつけ灯籠を押し流していった。

点と点で交錯していた無数の灯籠はその風に押し流された瞬間に幾本もの糸状の明かりに変化し、緩やかに絡まっていった。

風によろけそうになる京子を抱きかかえようと横を向いた時だった。池の畔の橋の上から自分達をじっと見つめている植村の姿に気が付いた。


































エピローグ


母親は、麻衣子の遺品を少しずつ少しずつ整理していった。

ほとんど生前のままになっている麻衣子の部屋に入る度に母親は涙を堪えしばし部屋の真ん中で放心状態でいた。麻衣子の机の上においてあるノートひとつひとつにもまだ麻衣子のぬくもりが残っているようにも感じられ、ノートひとつ整理するのに1日かかる事もあった。

今でも、突然に当直明けから帰宅し、「お母さん、何か飲み物頂戴!」っと言ってベッドに身体を投げ出すようにして寝転がる姿が浮かんだ。

無邪気な子供の頃の麻衣子そのままの姿と重なっていた。

その麻衣子のベッドの上に、今は京子がすやすやと昼寝をしている。 

大の字になり、何の心配も無く眠るその寝顔が麻衣子の小さい頃の寝顔と重なっていった。

その時には、麻衣子の横にもう一人男の子の寝顔があった。

母親は無数にある思い出の糸をひとつひとつ手繰ってみようとしたが途中で途切れていたり解れたりしていて最後まで手繰る事は出来なかった。

人の人生の糸は決して一本に繋がっているのでは無い。知らないうちに途切れ、知らないうちに繋がっている。

 

麻衣子の机の引き出しから何冊かのアルバムを見つけた。

一冊目には、満開の桜に粉雪が舞い散る、そんな不思議な情景の中に麻衣子が笑顔で写っていた。

母親は一瞬閉じかけた手を止め、ゆっくりと一ページ一ページずつ眺めていった。

植村が写真で捕らえた麻衣子の表情、姿はどれも素直に、麻衣子自身を写し出していた。

最後のアルバムの終わりのページを捲った時だった。

予期せずに開いたアルバムの最後のページから一通の手紙が母親の足元に落ちた。

その手紙を拾い上げながら母親は最後のページの写真に目をやった。

麻衣子の出産後、おそらく病室で撮った写真であろう。

麻衣子の母親と京子を抱きかかえる麻衣子と三人で撮った写真が大きくプリントアウトされアルバムに貼られていた。

足元の手紙を拾い上げ、表書きに目をやった。

そこには、「お母さんへ、京子へ」と宛名書きされていた。


「お母さんへ、京子へ

今、お母さんから貰ったドリカムのCDを聞きながらこの手紙を書いています。

丁度、お母さんも好きな未来予想図の曲が流れています。

反発しながらも結局私はお母さんの影響を一番受けているみたいですね。

仕事の時も、それからこの前の手術を受ける時もいざと言う時にはやっぱりドリカムの『決戦は金曜日』を聞いていました。これは、小さい時からのお母さんの影響です。

お母さん、いつもいざという時、台所でこの曲を流していたよね。

時々、涙を流した後でもこの曲を聞いた後に、よしっ、て気合入れて人前では絶対に弱音を見せてなかったよね。

お父さんの葬儀の時も人前では決して涙を見せてなかったよね。

私も真似してみたけど、叶わなかった。

今回の、私の病気はやっぱり厳しいと思います。

医者として、気持ちだけでは乗り越えられない人間の限界というのがあることを十二分に認識しているつもりです。

ごめんなさい、お母さん。京子のことお願いします。

私だって、女だから、自分の子供をこの手で抱いてみたかったの。

結局お母さんに迷惑をかけてしまう結果になってしまったけど、京子を授かった事には決して後悔はしてないの。

植村さんにも本当に感謝している。好きな人の子供を産めて幸せでした。

出来れば…、お兄ちゃんにも見せたかったな。

京子のかわいい顔を見せて、『麻衣子、よくやったな』って頭を撫でて貰いたかったな…」

麻衣子の母親は手紙を握り締めもうそれ以上は読み続けることは出来なかった。

母親は、初めて声を上げて泣いた。


    


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