第二話
僕は気付いた時からカビ臭い木造の小屋にいた。外への扉は外側から鍵がかけられていて、どこにも窓もない。唯一の換気用の小窓が天井近くにあるのみだ。小屋には壁際にベッドが一つ。向かいの反対側には扉が二つあり、一つは簡易トイレと冷たい井戸水のみしか出てこないシャワーだけの風呂場、もう一つは外に続いていた。
これが僕の住処である。
朝と夜に2回お父さんが僕にご飯を持ってきてくれた。たまに本と着替えを渡してくれた。毎日毎日、お父さんがくれたいろいろな本を繰り返し読んだ。お父さんがあまり僕に話しかけてくれることはなかったため、僕の知識は本の中にあるものが全てだった。
外に出たことがないから、外に出たいという考えもなかった。僕がずっと小さかったときに一度、扉の方を指さしたことがある。するとお父さんはひどく逆上してたくさん顔や体を殴られた。だからそれから二度と扉の外に興味を示さないようにした。とはいえ、そこまで興味も湧かなかった。
夜には小窓の外から聞こえるかすかな音に耳を澄ませた。父が持ってきてくれた分厚い古い小説の中に、エリク王というどこかの国の王様の話があった。その話にはトラという動物が出てきたので、もしかしたらこの音はトラの鳴き声かもしれないと想像を膨らませた。
僕はある時、木目の位置から、いつの間にか背の高さが倍になっていたことに気づいた。そして、このまま背か伸び続けて、小屋の屋根を突き破ってしまうかもしれないという不安に襲われた。そうなったら、ベッドに入れなくて寒いから困ると思い、なるべく大きくならないように丸まった姿勢でいるようにした。それからはあまり背が伸びなくなったと感じた。
そして突如その日はやってきた。
ある日、扉の外からガンガンっと扉を叩く大きな音がして眠っていた僕は飛び起きた。お父さんが来たときはいつもカチャカチャという音を立ててすぐに入ってくるのに、その日は違ったのだ。扉に何かをぶつける音が続いた。その音は、だんだん大きくなって蝶番がミシミシと軋んだ。僕は突然の未知なる侵入者の存在に恐怖した。
ついに、木造の扉は衝撃に耐えられずに、破られた。扉のすぐ向かいのベッドで震えていた僕は、飛んできた木片から身を守るため布団にうずくまった。
そして、扉があった方を見るとそこには人が立っていた。その人は、お父さんではなかった。僕はその人を見て、悲鳴にも似たような声を上げてしまった。だって、僕とお父さん以外に本当に人間がいるなんて思わなかったから。
ツカツカと音を立てて近づいてくる未知の人間を前に、お父さんが持ってきてくれた料理について教えてくれたことがあったの僕は思い出していた。「これは鶏っていってお前みたいに生きてるんだ。首をぽきっとして殺してから羽をむしって肉を食べるんだよ。」もししたら僕も首をぽきっと折られて、肉を削ぎ取られて食べられるのかもしれない。それはきっと痛い。お父さんに殴られるより。
しかし、僕の想像とは裏腹にその男の人は僕の手を引いてベッドから何やら難しいことを言った。だが、その時僕はその人が何を言ったのか理解できなかった。音がほとんどないこの小屋の中で過ごしていた僕の耳はお父さんが発する声以外の音にすぐに対応することができなかったのだ。
だからその人が言っている言葉は僕には不思議な意味のない音の羅列に聞こえて僕はただその音に耳を澄ませた。
するとその人は変な表情をして話すのをやめた。僕はなぜかその人が奏でる美しい音をもっと聞いていたいと思った。
「お前、名前は。」
その中から、僕の耳は聞き覚えのある音を拾った。
「僕はましろ。」
お父さんが僕に話しかけるときにましろ、と言っていたのでおそらくこれが僕の名前なのだと思う。話慣れていないためところどころ声が掠れる。
「そうか。俺は九条陸玖だ。」
僕はこの人がエリク王だと思った。
屋敷の玄関の前には、黒いリムジンが一台停まっていた。その前に田辺さんが立っていて、僕が近づくとドアを開けてくれた。
「さあ、陸玖様がお待ちです。」
車内に入ると外見より遥かに広く少し驚いた。本で見た車はシートがあるだけだったが、この車は広くてソファやテーブル、照明も設置されていた。
そして、一番奥のソファに主人が足を組んでくつろいでいた。窓の外を眺めており、僕のことは見なかった。
僕は主人から一番遠いソファの端に座った。それを待っていたかのようにリムジンは緩やかに動き始めた。
窓の外から犬の鳴き声が聞こえて外を見ると、アドラーを連れた梨沙さんがこちらにお辞儀しているのが見えた。僕は梨沙さんに手を振った。
まもなく、僕たちを乗せたリムジンは屋敷の門をくぐった。僕はまた心臓が早くなるのを感じた。なるべく外を見ないように膝の上で握りしめた拳だけを見るように努めた。そして梨沙さんとアドラーのことを考えた。
「真白、少し眩しいか。」
突然、主人に話しかけられシートから浮くほど体が跳ねた。僕が返答に困っていると、主人は運転している田辺さんにブラインドを閉めるように指示した。視界から外の景色が消えて、僕の心臓は少し落ち着きを取り戻した。
この半年間で初めて僕は主人との時間を得た。だからこの機会を逃したくなかった。しかし、聞くべきことがありすぎて逆に僕の中で整理ができなかった。唇だけがもぞもぞもと動く。そして言葉にならずに喉だけがからからに乾いていった。
主人はグラスの並んだシェルフから一つを手に取ると、備え付けられた冷蔵庫からオレンジジュースとペリエを取り出し、2:1の割合でそれをグラスに注いだ。そしてガラスのマドラーでくるくると混ぜる。時折グラスにあたってカランとなる音に僕は耳を澄ませた。
「ほら。」
主人は僕の方にグラスを差し出した。僕は、主人がそれを僕のために作ったことに驚いたと同時に受け取っていいのか分からずうろたえた。
「こっちへ来い。聞きたいんだろ?お前のこと。」
主人に表情はなかった。ただ、僕と正反対の漆黒の瞳に「聞く覚悟はあるのか」と問われているようだった。
だけど僕にはとっくに覚悟ができていた。これから僕は今までと違う人生を歩まなくてはならない。過去を捨てるために、捨てる過去を知らなければならない。でないと一歩踏み出せないから。
「はい。教えてください。」
「お前が閉じ込められていた小屋は、山奥の藍沢という集落のはずれにあった。」
主人は、相変わらず表情を変えることなく、話し始めた。
藍沢集落のある場所は豊富な湯源があって、主人の曾祖父・巳六が九条家の当主だったころから、そこら一帯を買い占めてリゾート事業を始めようと目をつけていたらしい。しかし、巳六は事業に手を付ける前に病気で亡くなってしまった。だから、リゾート事業計画は祖父の源七が引き継いだわけだが、うまく進まなかったという。
何故なら、藍沢集落は宗教色が強く、よそ者に対する拒絶反応がすさまじく、交渉にすら応じてもらえなかったそうだ。だが、源七はその一帯での事業をあきらめきれず、集落について深く調べさせた。
そこで分かったのは、藍沢集落では記録が残る限りでは300年以上前から子供を生贄を捧げる文化があったということだった。物資の搬入のための業者や郵便屋がごくまれに訪れるぐらいで、ほぼ孤立していた集落とはいえ、今の時代にそんなものは残っていないだろうと主人も祖父から集落の話を聞いたときに思ったそうだ。
だが、祖父も計画を実行する前に亡くなった。若くして会社を継いだ主人は、自分の力を業界の者に見せつけ認めさせるために、曾祖父も祖父も成し遂げられなかったこのリゾート事業計画を成功させようとした。
そのために、主人は自ら藍沢集落に来たのだという。部下に行かせても集落の者が話し合いに応じることはないことは明白だったからだ。その途中主人は、ちょうど藍沢集落から一番近い村の郵便局職員が藍沢集落に郵便を届けるところに出くわした。そこで主人は偶然気になることを聞いたという。
「住民票には子供がいないのに集落宛に子供服が届くと言っていた。」
僕は主人の話を聞きながら、パズルのピースがはまっていくように僕の疑問がひとつひとつ解けていくのを感じた。
「攫われた子供が閉じ込められているのではないかと疑った。もし集落ぐるみで人さらいをしたのであれば全員豚箱行きで俺の計画もより円滑になるからな。集落の奴らに鎌をかけたら図星だったらしく、発狂して襲い掛かってきた。相手は老人ばかりだったからなんてことなかったが。それで怪しい小屋を見つけてぶっ壊してみたらお前がいた。」
主人は話を終えたらしく、ワインセラーに並んだボトルを一つ選ぶと、グラスに注いだ。主人はグラスをテーブルに置くと、無言で僕を見た。僕が発する言葉を待っているようだった。
だが、僕は次の言葉が出なかった。たくさんの新しい情報を処理する能力が僕にはなかった。ぐるぐると渦巻く思考の中から、ふと疑問が浮かんだ。それは僕にとって重要な疑問ではなかったが、でも聞かずにはいられなかった。
「あの、お父さんはどうなったのですか」
「言ったはずだ。あれはお前の父親ではない。」
間一髪入れずに言葉を発した主人の表情からは、不快感が漂っていた。普段、冷静でポーカーフェイスを崩さない主人の強い感情を目にしたのはその時が初めてだった。
「ですが、僕はその人を物心つく頃からお父さんと―――」
「やめろ!おまえはあの男に、15年もあの場所に閉じ込められて、暴行を受けていただろうが!」
それは完全に怒鳴り声だった。その表情も不快感などではない強い嫌悪が現れていた。
主人の声に驚いたのか、怒られたことに戸惑ったのか、興奮からなのか、僕の視界が一周で揺らぎ、涙が溢れた。涙とともにいろいろな感情が乾いた腺からとめどなく湧き出てきた。
「父親って何ですか。僕にとっては、父親とは一日2回ご飯を運んできてくれて、たまに本をくれて、外に出たいといえば酷く暴力をふるってくる人のことです。僕はお父さんがいなければ生きていけませんでした。それしか知りません。僕にはわからないんです。」
壊れた涙腺から零れ落ちる涙が頬を伝って、膝の上で握りしめた拳を濡らした。
その時、主人がどんな表情をしているのか僕には分からなかった。