人生迷い道
無我夢中で取り組んできた研修期間も残りわずかとなった。最初の2~3日は慣れないこともあってか戸惑うことも多かったが徐々にペースは掴めた。しかしそれはあくまでも研修生といういわばお客様扱いの立場ゆえであろうことは博之も重々承知していた。社員の残業時間は数字としてどのくらいなのかは分からないが、早出の6時出勤で帰りが午後9時を過ぎることもザラだと聞いた。
(親父は朝こそ早く家を出ていたが夜はそんなに遅くなることは繁忙期以外なかったように思う。ここの工場は年中そんな状態らしい。まあ俺も仙台の営業所に戻れば拘束時間は長くなるのだろう)
研修も終盤に差し掛かると現場作業が少なくなって、工場長やその他の管理職が講師となっての座学のようなことが増えて来た。社会人経験のない全くの新卒者で会社の仕組みなど何一つ知らないまっさらな頭には教えられることの全てが正しいように思えたが話を聞いているうちに、待てよそこは違うのではないかと自分なりに考えることも出始めた。研修の最後にはレポートの提出もあるのでそういったことは疑問点として書き記そうと思った。別に会社批判をするわけではないし考えを述べることは構わないはずだ。
(勝手な思い込みかも知れないが研修とはそういうものだろう。工場長が先日言ったことは視点が違うような気がしてならない。あるいはわざとあんな言い方をして俺達を試しているんだろうか?)
座学を終えて工場へ顔を出そうと通路に出ると山岡が立っていた。今日の作業が一段落して明日の準備に取り掛かる前の一服だと思ったが、博之に話があるような素振りを見せたのでそれを察して小走りに近づいた。
「おつとめ、ご苦労さん。工場長の演説めいた長話を聞いているのも疲れるだろう。ところで笹山君は来週には仙台に戻るんだよな。それでなんだが君には最初で最後になるウチの課の飲み会に参加してみる気はないかな?なにそんな気を遣うものではない、参加するのは現場の仲間だけだ。3か月に1度くらいのペースで親睦会という名目でやっているんだよ。もちろん無理強いはしない、参加するしないは君次第だ」
博之は山岡の思いがけない誘いに戸惑ったが、せっかくの話だからと二つ返事で参加表明すると山岡の表情が自然とほころんだ。そこには幹事として提案したことをクリアしてホッとした様子がうかがえた。
「急なことですまないがありがとう。場所は社員寮から300メートルくらいかな、居酒屋があるだろう。そこで明後日の7時からの予定だ」
「その居酒屋なら分かりますよ。新潟には旨い日本酒がたくさんあると聞いていましたから僕も楽しみにしてます」
食品工場の現場には男性社員よりも女工さんと呼ばれる人達が圧倒的に多い。だから博之は会場の居酒屋に足を踏み入れた途端にズラリと並んで普段、職場では見せない表情で圧倒的な存在感を示す女工さん達にたじろいで入り口で躊躇してしまった。
(山岡さんはまだ来ていないようだな。さてどうしたものか)
ただ突っ立って待っているより他ないだろうと廊下の窓にもたれ掛かるようにしていると一人の女工さんが親しげに声をかけてきた。
「おや、なんでそんなところへボケっと立っているの、そういえば見慣れない顔だと思ったら研修で来たお兄さんだね。そうか今日は若い人が居るんだ。これは楽しくなりそう。とにかく空いてる場所に座りなさいよ。お偉いさんは来ないはずだから緊張する必要なんてないんだよ」
「そうだ。安心しな。お偉いさんとは伊野課長のことさ、分かるよな?あの人はこれから出張に行くはずだ。でも前回、俺が幹事やった時にはどこから聞きつけたのか呼んでもいないのに突然現れて説教垂れていったからなあ。勘弁して欲しいよ全く。課長の説教なんざ会議だけでたくさんだ。ところで今日の幹事である山岡殿はまだ来てないのか?相変わらず仕事の要領が悪いヤツだな。みんな早く飲み食いしたいだろう。先に始めるとするか」
博之に話しかけた女工さんの後ろから頭を掻きながらながら一人の男が歩いて来て女工さんの話を補足した。博之が配属された隣のラインの責任者である西田だった。山岡殿などと呼びしかも皮肉めいた事を笑いながら言ったところをみると普段から仲も良いのだろう。博之は促されるままに比較的下座の空いている場所に腰を下ろしたところへ山岡がおっとり刀よろしく姿を見せた。
「悪い、悪い、みんなすっかり待たせちまったな。ところで乾杯する前に良い知らせがある。これは伊野課長からの金一封だ。こいつを受け取るために時間を食っちまったんだ。この間はつまらん能書きを垂れて済まなかったと俺に手渡して、いそいそと出張先に出発したよ。よけいなことは聞かず遠慮なく頂いて来た」
山岡は高笑いをしながら金一封と書かれた包みを刑事ドラマでよく見る警察手帳を取り出すシーンを思わすようなポーズで披露した。西田がそんな山岡をやれやれという表情で眺めると集まった女工さん達のクスクス笑いが広がった。
それからほどなく山岡の音頭取りで乾杯が行われたが、座が砕けるのも早い。一人でチビリチビリ飲んでいた博之にもほろ酔い加減の女工さん達がちらほらと話しかけて来た。
「あらあら、一人ぼっちで手酌酒は寂しいわね。毎年のように研修生は来るんだけどスケジュールさえ合えば私達の飲み会にこんな風に引きずり込むこともあるのよ。前回は3年前だったかな、あの時は二人参加したけど面白い子たちだった。今日はあなた一人だけだからちょっと辛いでしょう。でも今から私達が相手してあげるから、まずはそのグラス空けてしまいなさい。お酒はいける方かしら」
博之は元々酒は嫌いではない。むしろ一旦、飲み会と名がつくものに参加すれば積極的に飲む。しかしこの日は山岡以外に話し相手も居ないので遠慮がちな態度でゆっくりと一人、新潟の酒を味わうように飲んでいた。ところが女工さんに言われるままにグラスを一息に空けることにより、まるで高速道路の加速車線から本線に合流するかのように瞬く間に場の雰囲気に飲み込まれてしまった。それから女工さん達は怒濤のように時にはかなり突っ込んだ質問を浴びせてくるので博之はタジタジになってしまった。
(いや参ったぜこれは。お袋も親父とは違う工場で女工として働いてるが小さい会社だから飲み会と言っても知れたものだ。だけどもし同じ条件下に置かれたら、やはりこんな弾け方するんだろうな。今、俺を攻めまくってる女工さん達はまさしくお袋とほぼ同年代だもんな)
絶えることのない質問にほうほうの体でいると山岡と西田が連れだって博之のもとへやって来たのでようやく波状攻撃から解放された。
「どうだ、笹山君。ウチのツワモノ共はなかなかのもんだろう、この俺だって頭が上がらないんだよ。普段からこっぴどく言われてるからなあ、ハハハ」
「まあ山岡さんもよく言うもんだわ。それは貴方の私達への接し方に問題があるのよ。少しは西田さんを見習いなさいよ。ねぇ、西田さん。同じ主任でもどうしてこうも差が出るのかしら」
「山口さんはやけに西田の肩を持つな。しかしこいつはあんたみたいな毒舌家は苦手なんだ。俺と違って逆鱗に触れることを回避する才能が天下一品なんだよ」
博之は漫才を思わすやりとりに笑いを漏らしたが、こういった職場は女工さんを上手く乗せて気分よく仕事に当たらせる懐柔術が必要なんだとこの時初めて思った。山岡は山口という女工さんとひとしきり話したあと博之を手招きした。
「笹山君、ここをお開きにしたら二次会に行こうと思うんだが、良かったら一緒しないか?俺と西田が常連として通ってるスナックだ」
「今年の研修生はこう言っちゃなんだが山岡が当たり籤を引いたようだな。俺のラインに配属された沼井君も誘ったんだが、けんもほろろに断られたよ。まあ彼は現場実習でも心ここにあらずって感じで現場仕事なんかやってられるかという態度がみえみえだ」
西田は多少怒気を含んだ浮かぬ顔で言ったが、博之も沼井という男には西田と同じ印象を抱いていた。
(彼は確か名古屋営業所勤務になるはずだ。出身はどこか知らないが俺と育ちが違うのは分かる。子供の時分に外遊びを目一杯やったような感じがしない。だから工場作業など気が進まないんだろうな。だが営業所に戻れば水を得た魚のように生き返る。それは間違いなかろう)
博之は二次会もまた軽い気持ちで参加する意思があることを山岡に言った。一旦飲みに出れば日付が変わる前に帰るのは大損なこと。学生時代に学んだことで一番身に付いたものはそれであったかも知れない。山岡と西田以外の人間は帰る者が目についた。とくに女工さんのほとんどはそうだったがまだ飲み足りなさそうな人達はおのおの行き場所があるのだろう。40人ほど居たであろう人間はあっと言う間に散り散りになった。
(山岡さんも西田さんも中途入社らしい。俺はそこに興味があるし、仕事以外のことも話してみたい。二次会の誘いは願ってもないことだ)
博之はワクワクした気持ちが沸き上がったが、山岡は山岡で博之にいつもの研修生とは違う何かを感じて二次会に誘いをかけていた。