93 スライハンド
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裏返った白い駒を、シルバーは同じくらい白い指先ですすすっと進めてきた。
この雪みたいに白い駒は、スノーウッドを削って作ったものかな、とボクはなんとなく思う。
その間にも駒はどんどん直進してきて、ボクの陣地の一番奥に突き刺さった。
そして、シルバーはこう宣言したんだ。
「少年……『ハート・ブレイク』だ……!」
『ハート・ブレイク』……。
アリマから教えてもらったんだけど、将棋でいう『王手』のようなもの。
対局テーブルのまわりで、冬山の焚き火を囲むように覗き込んでいた観客たちが「おおおっ……!」と声をあげた。
「おい、いきなりハートブレイクだぞ……!」
「しかも初手でなんて……!」
「ふつうブラインドの時は、駒がバレないように本来の動きをさせず、ここぞという時にやるものなのに……!」
「きっとシルバーはハートブレイクの連続で、あの子になにもさせずに一気に勝負を決めるつもりなんだろう……!」
「そうだな……! シルバーの連続ハートブレイクは『キツネ狩り』って呼ばれてるくらい一方的だからな……! こりゃもう、決まったようなもんだ……!」
ボクの陣の真ん中には、ボクの唯一の駒である『心』。
その左側の数マス先には、先ほど特攻してきたシルバーの駒がある。
離れているのに『ハート・ブレイク』できるということは……あの駒は、『手』ということになる。
『手』は将棋でいうところの飛車と同じ、前後左右であれば何マスでも進むことができる駒。
ちなみに角行に相当するのは『足』で、斜めであれば何マスでも進むことができる……。
なんてことを考えていると、不意に頭の上あたりからハァハァと荒い息がきこえてきた。
アリマだ。
アリマが緊張のあまり、呼吸困難みたいになってるんだ。
その吐息が悩ましくて、ボクはつい変な想像をしてしまう。
しかし目の前のオジサンによって、すぐに水をさされてしまった。
「さぁ、少年……キミの手番だ……!」
ボクが対局そっちのけで妄想を膨らませているとも知らず、不敵に言うシルバー。
それで気づいた。
観客たちが固唾を飲んで、ボクの一手を待っていることに。
しかしボクは、盤面に手を伸ばさなかった。
ひざの上に手を置いたまま、こう言ったんだ。
「スライ・ハンド」と……!
瞬間湯沸かし器のように、場が一気に熱を帯びる。
「ええええええええええっ!?!?」
「いきなりスライハンドかよ……!?」
「ありえねぇ、いくら勝率ゼロの勝負だからって……!」
「やっぱり、あの子はおかしいぞ!? 駒がひとつしかないのに、スライハンドだなんて……!」
『スライ・ハンド』というのは裏返った相手の駒が、本来の駒とは違う動きをした場合、ウソだと見破るときの宣言だ。
このあと駒をめくって確認し、ウソ……つまり本来の駒と違っていれば、その駒がボクのものになる。
しかし、ホント……本来の駒だった場合、ボクはひとつ駒を差し出さなくてはならない。
今のボクには『心』の駒しかないから、ホントだった場合は即負けとなる。
いきなりガシッと肩を掴まれ、アリマの泣きそうな声が降ってきた。
「だ、だめよ、アンノウン君! いきなりスライハンドだなんて……! もし外れたら、負けになっちゃうのよ!?」
「うん、でも外れなければいいんでしょ?」
「外れなければ、って……リスクが大きすぎるわ! 相手はまだひとつしか駒を動かしていないのよ!? 判断するための情報がぜんぜん足りていないのに……!」
「大丈夫、外れない。あの駒は『手』じゃないから」
「そ、そんな……!? どうしてそんなにハッキリ言い切れるの……!?」
ボクが自信たっぷりなのが、アリマは信じられないようだった。
そして対面のオジサンもそうみたいだ。
「少年……そちらの美しいお嬢さんの言うとおりだと思うがねぇ。スライハンドは対局を通して相手の駒の動きをよく観察し、そして記憶。情報を集めた後にするのが定石だ」
シルバーはそう言いながら、ボクの狙いを見透かしたかのようにフッと口の端を歪めた。
「まさか……早々に投了して、対局をやり直せとダダをこねるつもりかな? 子供の遊びであれば、それも通用するかもしれないが……これは大人の遊びなんだ。いちど賭けすると決めたものは、何があっても取り消せない……。このカジノに入ってきたということは、キミは成人しているのだろう?」
「うん。何日か前に成人したばかりだけど……でもわかってる。やり直せなんて言わないよ」
すると、シルバーはお手上げのポーズをとる。
なんだかマニーみたいだな、とボクは思った。
貴族というのは、みんなこんな感じなんだろうか。
シルバーは誰かさんを思い出させる口調で、「やれやれ」と前置きしてから言った。
「この対局はもう取り消せない。だがこのまま終わっては、見ている観客もガッカリすることだろう……。少年、これは特別サービスだ。ただし、今回だけだぞ……この駒は『手』だ」
すかさず「おおっ!?」と観客が反応する。
「シルバーが、裏返った駒を教えるだなんて……!」
「あのウサギを仕留めるにも全力を尽くすのがモットーの、非情なシルバーが……!?」
「いったいどうしちまったってんだ……!?」
「きっと、マジであの駒は『手』なんだ……! 考えてもみろよ、相手が『裸の心』である以上、チャンピオンのシルバーがフェイクを仕掛ける意味なんかねぇ……! そんなことしなくたって余裕で勝てるんだからな!」
「さすがのチャンピオンにも、慈悲の心が出てきたか……!」
「そりゃそうだろ、なんたって一千万¥だぞ!? 成人しているとはいえ、相手はまだ子供……! それをものの数秒で奪っちまうだなんて、さすがにかわいそうだと思ったんだろ……!」
ボクの肩に置かれている手も、嬉しそうにニギニギしている。
「良かったわね、アンノウン君! シルバーさんが情けをかけてくださったのよ! 本来はいけないことだけど、特別に……! さぁ、早くスライハンドを取り消して、『心』を逃がさなきゃ……!」
ボクはそっと、その手に手を重ねた。
やわらかくて、すべすべだなぁ……なんて思ってしまう。
……ボクはずっと対局そっちのけで、どうでもいいことばかり考えていた。
だって……熱中するほど、強い相手ではないと思ったからだ。
「アリマ、ボクは取り消さないよ。あの駒は、『手』じゃない……。ボクに見破られたから、シルバーは慌ててるんだ。でも、あんな猿芝居……ボクには通用しない」
瞬間、嵐のまっただなかにいるかのように、空気が震える。
「な、なんだ……なんなんだ、あの子……!?」
「なんであそこまで頑なで、自信たっぷりなんだ……!?」
「どう考えたって『手』なのに……!? なにを意地になっているんだ……!?」
「きっと、後に引けなくなったんだ……!」
「でも、一千万¥だぞ!? それをみすみす、ドブに捨てるだなんて……!」
「そ、そんな、アンノウン君っ……!? ……ハァッ! ハァッ! ハァッ……! お願い、やめて……! ハァッ! ハァッ! ハァァッ……!」
アリマの息はショックのあまり、もう昇天寸前にまで荒くなっていた。
立っていられなくなったのか、ボクにもたれかかってくる。
ボクの首に手を回してきて、ぎゅうっと抱きついてきた。
まるで嵐に飛ばされないように、必死になって柱にしがみついている人みたいに。
ボクの後頭部には、エアバックのような大きな胸がむにゅーと押し当てられていた。
アリマの長い前髪が垂れてきて、ボクの鼻先をくすぐる。吸気すると、花のようなニオイが胸いっぱいに広がった。
感触と吐息、そして香り……ボクはこんな時だというのに、アリマを感じていた。
そして例によって、あのオジサンが邪魔をしてくる。
「さ……猿芝居、だと……!? この私の情けを、猿よばわりするなど……! 少年……! この海のように寛大なる私にも、限度というモノがあるのだぞ……! これが、最後のチャンスだ……! 静かなる海が荒れる前に、大人しく取り消しを……!」
ボクはいい加減イヤになって、盤面に手を伸ばした。
「ああもう、そういうのはいいって。ボクにはそういうの通じないから……駒、確認するよ」
いちばん手前にある純白の駒をつまんで、なんのためらいもなくめくる。
パタン……! と乾いた音をたてて、白日の元に晒される正体。
そこには『息』と書かれてあったんだ……!




