62 通じあう心
キャルルの顔が、これ以上ないくらい近くにある。
こんなに誰かの顔が近くに来たのは、生まれて初めてかもしれない。
嵐の湖面のように揺れる瞳から、ひどい雨漏りのような雫が垂れ落ち、見開いたままのボクの瞳に降り注いだ。
キャルルの涙はボクの涙になって、こめかみを伝う。
じんわりとしたあたたかさが、唇のあたりに生まれていた。
やがて、
……とろり。
なにも感じなくなっていたはずのボクの身体が、とろけるのを感じていた。
滲む視界のなかで、キャルルの顔が歪み、ボクに垂れてくる。
まるで二段重ねのアイスクリームが、日差しを受けて溶け合うように……ボクはキャルルとひとつになろうとしていた。
どこまでも甘い感触は、雪解けの水のようにやがて激しさを増す。
『……好き……! 大好きっ……!! マジ好きっ……!! 好きっ……好きっ……好きっ……!!』
キャルルの声が、ボクの頭の中に響く。
『……大好き……!! 超好きっ……!! アンノウン……!! アンノウン……!! アンノゥゥゥゥゥンッ!!』
『ウチが初めて好きになれたのに……! ウチがやっと、マジになれた男なのに……!! お別れなんて、ぜってーやだっ……!! いかないで、アンノウン……!!』
『お願い……!! 女神様……!! ウチはもう、どうなってもいい……!! ウチの命をあげる……!! ぜんぶあげるから、アンノウンを助けて……!!』
ボクはその声を、自分の内にあるかのように聞いていた。
……これは、キャルルの感情?
……ああ、そんなに泣かないで、キャルル……。
……でも、悲しんでいる彼女には悪いけど、嬉しいなぁ……
……ずっと嫌われてた女の子……ボクがいなくなることを願っていたはずの女の子に、いかないで、って言われるのは、なんだかくすぐったい……。
……できればボクも、いきたくない……。せっかく初めてボクを好きになってくれた女の子が現れたんだから……。
……このケガ、なんとかできないかなぁ……。
なんてことを考えていると……大量に流れ込んでくる情報のなかに、ステータスウインドウがあるのに気づいた。
それは、キャルルのステータスウインドウだった。
ステータスウインドウはその人を注目していれば見ることができるんだけど……普段見ているソレとは少し違うみたいだ。
キャルルの名前のそばには職業の表示があるんだけど、たしか彼女は「モデル」だったはず……でもいまは「白魔法使い」になっている。
ステータスも、
『筋力』 10.4
『強靭』 10.8
と、小数点以下の数値が表示されていた。
……たしか、聞いたことがある。
この世界のステータスは、ステータスウインドウ上では整数表示なんだけど、実際には小数点以下の数字があるって……!
ステータスを成長させるには、日々の暮らしで得ることのできる『鍛錬成長』と、経験値を獲得することにより得られる『レベルアップ成長』のふたつがある。
『レベルアップ成長』はレベルアップごとに貰えるステータスポイントを割り振ることにより、整数単位であがっていく。
『鍛錬成長』は鍛錬によりあがるんだけど、実は小数点以下の数値が少しずつ上昇していて、整数として桁上りするまではステータス上ではわからないそうだ。
でも、その小数点以下の数字が、なぜ急に見えるようになったんだろう……?
不思議に思いながらも、さらにステータスウインドウを眺めていると……ボクはぎょっとなってしまった。
なんと……キャルルの装備品の一覧が、表示されていたんだ……!
身に付けている装備品の内訳は、ステータスウインドウの中には含まれない。
装備を注目することにより、装備品のステータスウインドウを見ることはできるんだけど……今はなぜか、一覧表示されていたんだ……!
いや、驚いたのはそれじゃない。
……だって……外見から見てとれる装備だけじゃなくて……その……下着の色やサイズまで……ようは身に付けているものすべてが表示されてたんだ……!
キャルルの今日の下着はピンクか……って、ダメだっ!?
こんなの覗きじゃないか! 見ちゃダメ! ダメダメっ!!
ボクは慌てて装備ウインドウを送る。
すると、スキルウインドウが現れた。
装備品もそうなんだけど、所持しているスキルは普通他人からは見ることはできない。
でも、下着の色を知ってしまったあとはさほど驚きはなかった。
しかし……スキル一覧に、文字が滲み出ていることに気がついたんだ。
それはやがて、さらなる驚きとなってボクに襲いかかる。
●彩魔法
灰
(0) LV1 … フリントストーン
(0) LV2 … プラシーボ
(0) LV3 … ウイッシュ
白
(1) LV1 … キュア
(0) LV2 … リムーブ
(0) LV3 … エクステンション
……!?
『白魔法』……!?
キャルルって、『白魔法』が使えるの……!?
『灰魔法』はこの世界に唯一ある魔法。
でも魔法というよりも、おまじないみたいな眉唾モノで、効果は疑わしい。
それが不満だったので、ボクは『白魔法』ってのを考えたんだ……。
『白魔法』ってのはケガを治したり、毒を取り除いたりする治癒の魔法体系。
でも……でも……なんで……?
なんでキャルルが、ボクの想像上の魔法を使えるの……!?
いや……今はそんなこと、どうでもいいっ!!
ボクは腕をつっぱって、キャルルの身体を押し離そうとする。
しかし、キャルルの両腕でガッチリとホールドされていて、ぜんぜん離せない。
『筋力』はボクのほうが強いんだけど、ケガでボロボロのせいなのと、キャルルが命がけで抱きしめてきているせいで、びくともしなかった。
「むぅ~っ! んむぅ~っ!」
声をあげてみたんだけど、ボクとキャルルの唇は溶接されているみたいにくっついて離れないので、ぜんぜん言葉にならない。
絞め技からタップするみたいに、バンバンとキャルルの身体を叩いてみたんだけど、
『……苦しそう、アンノウン……!! しっかりして……しっかりしてぇぇぇ……!!』
さらにきつくハグされてしまった。
だ、ダメだ……!
キャルルはボクを離すと死んじゃうと思っているのか、離してくれない……!
は……早くしないと……!
せっかく活路を見出したのに、このままじゃ、本当に死んじゃう……!
そ、そうだ……!
こんな時こそ、『テレパシー』だ……!
ボクはだいぶ前に取得しておいた『サイキック』のスキル、『テレパシー』でキャルルに呼びかけてみた。
『……キャルル、聞こえる?』
いちかばちかだったんだけど、
『あっ……アンノウン!? 気がついたの!? よ、よかったぁぁぁぁぁっ……!』
心の中に、心底安心するような声が響いた。
よし……『テレパシー』成功だ……!
スキルポイントが1ポイントしかない場合は、ボクの声を一方的に届けるだけのはずなんだけど……今はなぜかキャルルの心の声が流れ込んできているから、コミュニケーションが取れる。
ボクは喜ぶのもそこそこに、キャルルに語りかける。
『キャルル……キャルルって、白魔法が使えたんだね……』
『白魔法……? なにそれ?』
『彩魔法のスキルのひとつだよ。キュアに1ポイント振ってるじゃないか』
『キュア……? ウチ、そんなスキル持ってないよ?』
『いや、持ってるんだ、いいからボクの言うとおりにして、スキルウインドウを開いてみて』
『わ、わかった……ちょっと待ってて』
ボクの声の真剣さに、キャルルは驚くほど素直に従ってくれる。
これでキスから解放されるかなと思ったんだけど、キャルルはボク唇に吸い付いたまま、器用にスキルウインドウを開いていた。
『えっ……マジ……!? 灰魔法の下に、見たこともないスキルがある……!? なにコレ?』
『やっぱり……白魔法が使えるんだね!』
『でっ、でも……なんなの、コレ? ウチ、スキルポイントを2余らしてんだけど、それはそのまんまだし……』
唇を通して、キャルルのうろたえぶりが伝わってくる。
……どうやら、本当に知らなかったみたいだ。
『悩むのはあとだ、キャルル。このままでいいから、ボクのケガを治したいって、心の底から祈ってくれない?』
普段であれば『キモい』で一蹴されそうな提案だったけど……キャルルは聖堂主様からの教えを聞いているかのように、神妙な面持ちで頷き返してくれた。唇は頑として離さずに。
『わかった。誰に祈ればいいの?』
そこまでは考えてなかったので、ボクは言葉……じゃなかったテレパシーに詰まる。
『……え、えーっと……じゃ、じゃあ……女神様……女神様に祈ってみて』
『わかった……! 女神様……お願い! アンノウンのケガ、治して……! ウチができることだったら、なんでもするから……!』
しかし、何も起こらなかった。




