61 初めての…
ボクは『陥没』によってひび割れた床の上で、空を仰いでいた。
灰色の天井には、吸血コウモリのようにぶら下がるアイツ……!
天地が逆転したわけでも、吊り上げられているわけでもない……!
『第6世界』の『忍術』……『隔世走り』……!
天井すらも、己のフィールドに変えるスキル……!
ヤツのステータスウインドウは、なおも開きっぱなしだった。
海蝕洞の天井に張り付いているフナムシのように、ざわりと蠢く。
『コ・レ・ガ・レ・ン・キ・ン・ジ・ュ・ツ・ダ』
……これが錬金術だ……!?
眉をひそめた瞬間、錬金術の陣が……音もなく降ってくる。
や……やばいっ!?
ボクは懸命に飛び退いて、その投網のような陣から逃ようとする。
……ズドッ……ゴォォォォォォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッ!!!!!
陣が設置した瞬間、火山が大爆発したような衝撃が起こった。
宙を泳いでいる真っ最中のボクは、嵐を受けた小魚のように吹っ飛ばされてしまう。
壁に叩きつけられながら、目にした光景……それは、驚くべきものだった。
ボクが直前までいた床には、トンネル掘削機が通り過ぎたかのように正円の穴が、ぽっかりと空いていたんだ……!
ヤツが使ったのは『錬金術』の『陥没』……!
使うこと自体は何ら不思議はない。だってヤツは『抽出』と『変形』で武器を作ったんだから……!
でも……威力が桁外れ……!
ヤツの陥没はなんと、2階まで貫通していたんだ……!
とっておきの一手がかわされただけでなく、たて続けに力の差を見せつけられ、ボクは絶望のあまり自我を失ったようになっていた。
だ……だめだ……勝てない……!
とてもじゃなけど、勝てる相手じゃない……!
すべての能力が、ボクを上回っている……!
そのうえ、行動が読まれているかのように通じない……!
ああ……もう、なにも考えられない……!
身体も、生きることをあきらめてしまったかのように動かない……!
茫洋とした視界の中で、ヤツのステータスウインドウがチラつく。
『ト・ド・メ・ダ』
……トドメだ……か。
ああ……ついに、ボクは死んじゃうのか……。
なんてことを、他人事みたいに考えていると、
「……見つけたっ! アンノウン! てめぇ、なに逃げてんだよっ!?」
キャルルがいきなり、部屋の中に駆け込んできたんだ……!
「きゃ……キャルルっ!?」
ボクと、天井にぶら下がっていたヤツが、同時にキャルルに注目する。
そして、ボクは見たんだ……視界の隅で、キャルルに向かって手をかざす、ヤツの姿を…!
「……あぶないっ!!」
ボクは無意識のうちに床を蹴っていた。
絶望に支配されていたはずの身体が、まるで当たり前のように動いていた。
キャルルを覆う、赤熱の陣……それが着弾すると同時に、ボクはキャルルの身体に体当たりする。
……ズドッ……ゴォォォォォォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッ!!!!!
燃える岩に押しつぶされるような衝撃と灼熱が、ボクの背中を襲う。
しかし、腕にある柔らかな存在は、絶対に手放してたまるもんかと、必死になって抱きしめた。
「キャァァァァァァァァーーーーーーーーーーーーッ!?!?!?」
腹の底を突き上げるような爆音に混ざる、絹を裂く悲鳴。
その声こそが、ボクの意識を繋ぎ止める唯一のものだったんだけど……それもやがて途切れ、ボクの意識は完全に暗闇に包まれた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……きて……おきてよぉぉ……アンノウゥゥン……」
唸るような嗚咽が、風鳴りのようにボクの頭に響いていた。
それを嫌に感じなかったのは、頭の具合が良かったせいだろう。
ボクの頭は、いままで寝たどんな枕よりも寝心地のいい感触に包まれていた。
ぽたり、ぽたり、と温かいものが、ボクの顔に当たる。
それはなんだかわからなかったけど……それも、嫌には感じなかった。
海の底から湧き上がった泡が、ゆっくりと浮かび上がるように……ボクは暗闇から戻る。
「うっ……うぅ……ん?」
うっすらと瞼を開くと、そこには……なにか柔らかいクッションごしの女の子の顔があった。
女の子は顔をくしゃくしゃにして、目からボロボロと温かい水を落としていた。
まるで壊れた蛇口のように。
ボクが薄目を開けたことに気づくと、むぎゅうっ! と抱きしめてきた。
クッションかと思っていたのは、女の子の胸だった。
焼きたてのパンみたいな、甘くていいニオイがする。
「よかった……! 気がついたんだね、アンノウン……!」
その声に、ボクは聞き覚えがあった。
「……もしかして、キャルル……?」
バッ、と身体を離したキャルルは、奈落の底に突き落とされたかのような表情になっていた。
「ちょ!? も、もしかして、って……! もしかしなくてもキャルルに決まってるっしょ!? アンノウン! どっか頭でも打ったの!?」
「……いや、もう……頭どころか、どこもかしこもボロボロだよ……」
ボクの声は、驚くほどにかすれていた。
「ご……ごめん……ごめんね、アンノウン……! ウチをかばったせいで……!」
「……あ、そうだった……大丈夫、キャルル……? なんか、身体が血まみれだけど……」
よく見ると、キャルルは全身どす赤い血に覆われていた。
「ウチはなんともないよ……! これは全部、アンノウンの血だよ……!」
キャルルの涙声で、ボクはようやく理解する。
「ああ、ゴメン……それで泣いてたんだ……ボクの血なんて、嫌だもんね……」
「な、なに言ってんの、アンノウン!? 嫌なわけないじゃん! だってアンノウン、ウチらのためにこんなにボロボロになったんでしょ!?」
「なんだ……知ってたのか……」
「ウチ、最初はアンノウンが逃げたんだと思ってた……! 『キャルルルン』のパンが足りなくなくなるのがわかってて、真っ先に逃げだしたんだと……! ウチは許せなくなって、街のヤツらに聞いてアンノウンを追っかけたんだ……!」
ひくっ、としゃくりあげるキャルル。
「そしたら、3階のボス部屋に行ったって聞いて……。冒険者ギルドのヤツらにも聞いたんだ……ボスフロアで大勢のモンスター相手に、ひとりで戦って、でっかい袋と卵と牛乳を運んでたって……!」
「ああ、それで、ここまで来たんだね……」
「うん! 3階を探し回ってたら、アンノウンがいたから、部屋に飛び込んだら、急に爆発が起こって……でも、アンノウンがかばってくれたおかげで、助かって……! ボロボロになったアンノウンを介抱してたら、見えたんだ……! 隣の部屋に、パンがいっぱいあるのを……!」
枯れることを知らない滝のように、頬を涙が伝う。
「うううっ……! アンノウンってば……『キャルルルン』のパンが品不足になることを予想して……先回りしてパンを作ってくれてたんだね……! それなのに、ウチってば……!」
ボクは手を伸ばし、キャルルの頬に触れた。
「……泣いてる場合じゃないよ、キャルル……ボクのかわりに、パンを運ぶんだ……お客さんが待ってるよ……」
頬に触れた手を、ぎゅうっと握りしめてくるキャルル。
「ぱ……パンなんて今はどうでもいいよっ! それよりも、アンノウンのほうを運ぶ……! 今からでも、医者に見せれば……!」
「ううん、ボクはもうダメだ……。自分でわかる。こんなに血が流れて……それに、あんなに身体じゅうが痛かったのが、もう、どこも痛くないんだ……。それになんだか、すごく眠い……こうやって目を開けてるのが、やっとなくらい……」
「だっ……ダメェ!! 目を開けて、アンノウンっ!! 死んじゃやだぁぁぁぁっ!!」
「し、心配しないで……パンは完成してるから……『キャルルルン』はもう大丈夫だよ……」
すると、キャルルはもどかしそうに頭をブンブン振り乱した。
「うぐぅぅぅ~っ!! だから、パンはどうでもいいって言ってんだろっ!! う……ウチが心配してるのは……アンノウンなんだよぉっ!! だって……だって……初めて好きになった男なんだからあっ……!!」
「……はは。そうやってボクを、からかってるんだよね……?」
「かっ……からかってなんかねぇーよっ!! そ、そりゃ、学校にいた時は、ニセのラブレターとかを送って、からかってたけど……い、今はマジ……! 大マジなんだよっ……!! 好き……大好きっ……!! アンノウンっ……!!」
「……またまたぁ、もう騙され……んむぅっ」
ボクの言葉は、途中で遮られてしまう。
キャルルの唇で、塞がれてしまったからだ。




