エニス制圧
帝国の中央部に位置するエニス。穏やかな気候に恵まれ、中原一の大きさを持つエニア湖をはじめ風光明媚な地の多いことで知られる、のどかな地方である。
時に4月。太陽は地上をやわらかく照らし、暖かく穏やかな風は草木を舞わせた。
春。それは喜びの季節である。ギリアやトルダールの北部に比べれば格段に過ごしやすいエニスではあるが、それでも冬は寒い。人々は春を迎えた喜びに満ち溢れているはずであった、本来ならば。
だが今、エニスは不穏な空気に満ちていた。トルダールの中心都市ティースから発し、エニスを通ってウルヴァーンに続く街道は軍勢で埋め尽くされていた。
軍靴の重い足音。金属の擦れる音。嘶く軍馬。はためく漆黒の軍旗。陽光を受けて煌めく槍の穂先。9万ともなればその光景はまさに圧巻だった。
(何て大軍なんだろう)
兄の後ろで戦車を進めるファロスは、改めて思った。この軍勢の一員となって既に1週間を過ぎたが、未だ興奮は収まらない。妾腹といえど、皇子に相応しく美々しい武具に身を固め、逞しい軍馬の曳く戦車に乗る彼は、幼さの残る顔を仄かに紅潮させていた。全身を高揚感が満たし、早くも鼓動が激しくなっている。先程から馬を駆けさせたい衝動を必死に抑えていた。
そう、この戦いはファロスにとって初陣だった。ファロスは今年20歳。オルシアの、いや中原の基準で言っても遅い初陣だった。これは彼が臆したからではない。むしろファロスは幼い頃から軍人志望であり、早く戦場に立ちたがっていた。だが彼が成長した頃には既にセリオン帝が他の6国全てを滅ぼしており、戦うべき敵は辺境の蛮族や独立都市のみであった。ファロスは西方の軍団に配置されたが、先年ジラール、ハウロス両将軍率いる遠征軍に叩かれたばかりの西方諸都市は大人しくなり、皇子が出陣するほどの戦いは起こらなかった。
そのファロスは今、セルスの軍勢に加わっていた。西方軍団所属の彼がエニスにいるのは、帝都に吹き荒れる粛清の嵐から逃れるためであった。
太后サーリアと宰相ガインは、新帝サイアンの地位を脅かし得るものを徹底的に粛清した。
はじめに、セリオン帝の長子にして次期皇帝と目されていたセルバドスが殺された。表向きは病死だが、明らかに毒による暗殺だった。次にセルバドスの妻と子3人が死んだ。さらにラーナの娘が家族と共に馬車の事故で命を落とした。ここまでは殺されたのが皆正腹の子とその家族であり、庶子であるファロスには近しい親族の死を悲しみこそすれ、結局は他人事だった。
しかし、サーリアは嫡出子を殺すだけでは飽き足りないと言うことはすぐにわかった。妾腹の男子4人、女子2人が罪を着せられて処刑され、他にも3人の庶子が暗殺された。命の危険を感じたファロスは、同腹の妹フィアナを連れて帝都ウルヴァーンを脱出した。
しかし、所詮は世間知らずの皇子の逃避行である。ファロスとフィアナがウルヴァーンを抜け出したことはすぐに発覚し、手配書が出回った。追っ手に怯えながらの逃避行は厳しいものとなり、ファロスは相手の裏をかくために山に逃げ込んだ。だが、運悪く山賊の群れに見つかってしまった。こんなところで死ぬのか、と絶望したファロスだったが、ふいに一計を閃き、それに賭けることにした。賊の首領を呼びつけ、取引を持ちかけたのだ。盗賊たちはファロスとフィアナを護衛し、兄セルスの下に送り届ける。無事に到達すれば、盗賊たちには莫大な報酬が支払われるだろう。それに、うまくいけば安定した暮らしを手に入れられるかもしれない。
最初、首領は退屈そうだった。しかし話が進むにつれて興味を示し、最終的に取引は成功した。首領は20人の精鋭を選抜すると、自ら護衛の指揮を執った。フィアナは当初、荒くれぞろいの盗賊たちを怖がっていたが次第に慣れていき、最後にはすっかり打ち解けていた。首領もまた、ファロスとフィアナの兄妹を大いに気に入ったようだった。セルスとはトルダールとエニスの境界近くで巡りあった。弟妹を迎えたセルスは非常に喜び、陣中のことで小さなものではあるが、祝宴を開いた。無論、首領も招かれ、肉や酒を心行くまで堪能した。部下の盗賊たちにもまた、別の席で酒と食事が振る舞われた。その晩、一行はゆっくりと旅の疲れを癒した。
ファロスが駆け込んだ頃、セルスは既にオルシア皇帝を称していた。直属のギリア総督軍はもちろん、隣接するトルダール総督軍もセルス支持を表明し、エニス地方の一部地域もセルスに靡いた。セルスは「偽帝」サイアンと「売女」サーリア、「奸臣」ガインを糾弾する檄を発し、大軍を引き連れて進軍した。麾下の軍勢のうち1万を宿将であるトラバ家のメムノンに託してギリア防衛に残し、オルシア帝国正規軍2万と独自に編制した歩兵2万、北方蛮族から募った1万の騎兵、さらにトルダール総督軍からの戦車3000両とオルシア重装歩兵2万、現地徴集兵1万がセルス指揮下にあった。
ファロスはその陣中にあり、進軍している。初陣であり、庶子とはいえ皇子であるため本隊に加えられており、前線に出る機会はないだろう。だが、戦への気概は高まっていた。
(必ずや、手柄を立てて見せる!)
軍勢は進む。その先に如何なる未来が待ち受けるのかも知らぬままに。
セルス軍の進軍は順調だった。エニス北部の諸都市は防衛の要トラドがセルス支持を表明したことを受けてこぞって門を開いた。セルスは兵と物資の提供を要請し、兵站の確保に成功した。
エニス各都市から派遣された兵や新たに募った傭兵を加えて9万8000に膨れ上がったセルス軍は、エニスの中心都市エニアンを目指した。エニスに駐屯していた軍勢はほとんどが勅命により帝都に呼び戻されており、エニアンを守るボルドフ将軍の手元には1万2000の兵しかいなかった。しかも9割は現地の徴集兵であり、士気も練度も低く、勝敗は火を見るより明らかだった。セルスは降伏勧告を行ったが、ボルドフはこれを拒否した。自分が降伏により、帝都にいる息子に危害が及ぶことを恐れたのである。
だが、ボルドフ軍の将兵は指揮官と心を同じくはしていなかった。質量ともに圧倒的なセルス軍に恐れをなした一部の将兵が城門を開き、他の兵も即座に降伏した。ボルドフは僅かな部下とともに抵抗したが、衆寡敵せず討ち死にした。エニアンの陥落が伝わると、エニス各地の都市はほとんどが恭順の意志を示してきた。セルスは降伏兵を罰することはせず、現地徴集兵は帰し、オルシア正規兵は軍に編入した。
こうしてセルスは、ほとんど損害を受けることなくエニスをも手中にしたのだった。
そしてまた、彼にとって好都合な事件が直後にオルシア本国内で勃発した。一方にとって好都合な出来事は、他方にとっては不都合となる。帝都ウルヴァーンは今、新たな困難に直面していた。